羽毛の檻1

明け方、太陽が昇る直前に目を覚まして、キチンと制服であるロングスカートのメイド服に着替えて身支度を整える。それから屋敷の簡単なお掃除をしてから朝食の準備をする。冬場ならばお食事をするお部屋の暖炉に火を入れて暖めておきながら、旦那様の好みと体調を考慮したお食事を作り、その間に多めにお湯を沸かしておいて、お顔を洗う際のご用意もしておく。そうこうしていると旦那様が起きるお時間になるので、お支度の準備に伺う…

一般的なメイド業といえば、こんな感じだっただろうか。
私は一つため息を吐きながら、寝間着である浴衣の上に分厚い半纏を来て深夜の真っ暗な廊下をランプ一つ下げて歩くのが日課だった。幸い現在お勤めしているお屋敷はそこまで大きくなく、恐怖心を煽るような美術品が壁に掛かっていることもない。なるべく音を立てずに歩き、一つ一つ部屋を回る。三つ目に開いた部屋は書斎である。そっと扉を開けて中を確認するが誰もいなかった。あぁまた外れか。ともう一度ため息を吐いてから、サンルームに繋がる扉を開いた。天井がガラス張りになっているおかげで月明かりが入り込み、屋敷の中よりも明るいそこはランプをふらふらと翳さなくても周囲がなんとなく見える。中に入りお目当てのものを探すべくサンルームの中央までくれば、私が探していたものをようやく見つけることができた。

「旦那様、旦那様。起きてくださいませ」

サンルームのテーブルに突っ伏して、旦那様はぐっすりと眠っていた。その肩を微かに揺すって起こす。が、起きる気配もない旦那様の様子に、私は少しだけ声色を強めた。

「旦那様。こんな所で眠られてはお風邪を召しますよ。起きてくださいませ」

ぽんぽんと肩を叩くがそれでも反応がない。またか。と私は観念すると、お仕えしている旦那様の名前を呼んだ。

「レオ様、レオ様。起きてくださいませ。今何時だとお思いですか?」

そう言ってやや強引に肩を揺すれば、月明かりにわずかに浮かび上がる橙の髪をサラサラと揺らして、萌黄の瞳がうすらと開いた。

「…なまえ」

「はい、旦那様。寝室に帰りましょう」

「その呼び方やだ、から、帰らない」

そう言って旦那様は頬を膨らませた。どうやらまたよくわからない理由で臍を曲げてしまったようである。

「失礼致しましたレオさん。そんなことおっしゃらないでくださいませ」

正確に言うと主人を名前で呼ぶ方が失礼だというのに、この方はいつも『旦那様』と呼ばれるのを嫌がる。嫌がるからといってメイドの私が常に旦那様を名前呼びするわけにもいかなくて、私は彼が本気で嫌がった時だけ、こうして名前で呼ぶようにしているのだ。

「敬語もやだ。全部いやだからな」

私はひっそりとため息を吐いてから、諦めてテーブルに突っ伏す彼の両肩にそっと手を乗せた。

「ごめんなさいレオさん。一緒に寝室に戻りましょう?もう丑の刻だもの」

そう言って、彼の両肩を暖めるようにさする。

「身体も冷えてる。風邪を引いたら大変だよ」

ほら冷たい。と、旦那様の頬にそっと触れれば、その手に甘えるように頬をすり寄せてきた。経験上、あと一歩で寝室に戻ってくれる気がする。

「ベッドまで一緒に行くから。はい、立って」

「…一緒に寝てくれる?」

今日はそういう気分なのか。と、私は諦めた。「いいよ」と返事をすれば、旦那様は今まで全く動かなかったのが嘘のように立ち上がり、私の手を引くくらいの勢いで部屋へと戻ろうとする。私はランプをゆらゆらと揺らしながら、またこっそりとため息を吐いたのだった。




十五の頃から親戚のツテで、瀬名家のお屋敷にメイドとしてお世話になっていた。その頃からご子息であった泉様のご学友としてよくお屋敷にいらっしゃっていたレオ様のことは私もよくご存じで、お屋敷にレオ様がいらっしゃった時は一介のメイドである私にも朗らかに挨拶してくださるのかとても印象的な、太陽のような方だったはずだ。

しかしいつからかお屋敷にレオ様がいらっしゃることはなくなり、泉様も酷く憂いたような表情を浮かべていることが増えた頃、泉様の部屋へ呼び出された私は驚きの余り声をなくしたものだった。

泉様いわく、ご学友のレオ様が学校で起きた事件のせいで心を病まれてしまい、療養の為に田舎の屋敷に移ったという。それだけだったら私も、ただ「そうでございますか。お見舞いをお送り致しますか?」と言うだけだった。しかし泉様は私の予想し得ないことを言い出したのだ。

「…給金は今の倍出す。だから、れおくんがいる屋敷でメイドをやってくれない?」

私は少し考える時間をもらってから、二つ、質問をした。
一つ、私は医療の知識は皆無であり、万が一レオ様に何かあってもすぐ対応できない可能性があること。
二つ、給金は確実に倍頂けるのか、ということ。

泉様はもちろん。とうなずいた。レオ様のご実家である月永家からも給金がもらえるらしいことを聞いて、私はそれを信じることにした。仕事に情など介入しては、メイドは勤まらない。主人と給金の確認をするのは非常に大切なことなのである。

「でも、どうして私なのですか」

そう何気なく私は泉様に問うと、何故か少しバツが悪そうに「あんた、うちにれおくんが来た時そこそこ仲良くやれてたみたいだから。年も近いし仕事ぶりも悪くないし…」と言った。
泉様のその真意は全く読むことができなかったが、もしレオ様が瀬名様のお屋敷を訪れた際に私の仕事ぶりを見てそう言ってくださったのなら、メイド冥利に尽きる。
私は二つ返事で列車に乗り込み、レオ様がお一人で住んでいるというお屋敷へと向かったのだ。


しかし、レオ様の症状は思っていたよりずっと、酷いものだった。一時的な前任、という事で月永家から派遣されていたというメイド二人は、私が来るなり逃げるように月永家に帰って行ってしまったくらいだ。
まず睡眠障害ゆえに規則正しい生活が送れず、姿が見えない時は昼夜問わず大抵どこかで眠ってしまっている。それを起こして寝室で寝かせるのも不規則だから、毎日明け方に目を覚まして朝の支度をして…という業務はほぼなくなった。なぜならこの屋敷には結局私しかメイドがいない。だからどこかで眠ってしまっている旦那様を探して起こして、ということをやっていると必然的に私の生活も不規則になるのだ。

夜中に一度旦那様の寝室をのぞき、いなければ探して寝室に連れていく。なるべく夜寝かせて日中は起こしておく、くらいの対応で精一杯だ。

それから少し幼児退行のような症状も見られる。夜泣きのように夜泣き出したり不安定になったりするので、そういう時は一緒のベッドで寝た。ただ眠るだけだから構わないのだが、時折強い力で抱きついてくるから、そういう時は私も寝不足になる。

それから元々ご趣味の範疇を超えていた作曲の作業をする時、奇声を上げたり急に笑い出したりする。ただその時は作曲に集中している証拠だから、あまり目を離さなければいいだけである。調度品は五線譜の落書きだらけだが、最近瀬名様にお手紙でその悩みを告げたら水拭きで落ちるインクを使用したペン、というものを送ってくださったおかげで、私の掃除はかなり捗るようになった。

これでは給金を以前の倍もらうのは相応である、と私は思った。いわば介護である。

お医者様は「とにかく好きにさせてあげること。今過剰に抱えている心の抑圧が少しでも和らげば快方に向かう」なんて言っていたから、結局私にできることは身の回りのお世話をメイドと主人、という形よりもやや近い距離間で行っていくだけなのだ。


結局あの後旦那様を上手くはぐらかして自室に戻ろうとしたのがばれてしまったので、あえなく彼の布団に潜り込んだ。すっかりと冷えていた彼の体に体温を分けてあげるようにそっと背中に手を回してあげれば、小さく私の名前を呼ぶ声がしたが、私もわざわざ夜中に起きて旦那様を探した身だ。その後何かをつぶやいていた気もするが耳に入ってこず、そのまま旦那様を置いて夢の世界に旅立ったのである。

ぐっすりと眠ってしまった私は、太陽がすっかり上った頃に目を覚ました。

特に朝目を覚まして支度をしていなくても旦那様が怒ることはない。むしろ朝早くベッドから抜け出すと、自分が起きた時になぜ隣にいないんだと癇癪を起こしてしまう。

「旦那様…?」

寝起きの掠れた声で旦那様を呼びながらベッドの横を見たけれど、丸くなって眠る彼の姿がない。私は勢いよく体を起こして反射的に部屋の周りを見回した。目覚めたばかりの旦那様は起き抜けは頭が冴えるという理由で作曲作業に入り込むことが多く、うっかり入り込み過ぎてしまうと頭を酷使するせいか鼻血を出していることに気がつかないまま作業をしていることもある。

「あっおきた!おはよなまえ」

「だ、旦那様…おはようございます」

「その呼び方、昨日やだって言ったのに!」

しかし私の心配は杞憂で済む。旦那様はベッドのすぐ下の床にごろんと横になりながら紙に何かを書き殴っていた。
あぁ、昨日拗ねた内容を覚えていたのか…と私は少し面倒そうな一日になることを察したが、すぐさま訂正する。

「申し訳ありませんレオさん。一応私はメイドとして泉様に雇われていますから、線引きは必要かと思いまして…」

普段は旦那様と呼んでも気にしないことが多いが、ふと琴線に触れてしまうとこうしていやだと駄々をこねてしまう。けれど私は旦那様の家族でも友人でもない。泉様と月永家に雇われた一介のメイドなのだから、旦那様がいやだと言った時のみ仕事の一環として、呼び方を変えるのだ。

すると、というよりやはりレオ様は不機嫌そうに頬を膨らませた。

「ふん!おまえはおれより雇い主のセナの方が大事ってことだなっ!おれの事なんて金のなる木にくらいしか思ってないんだろ!!ばか!」

あぁ駄々っ子になってしまった。仕方ない状況ではあったが、些か面倒である。しかし旦那様はすっかり拗ねてしまって、その熱量を五線譜の紙にぶつけ始めた。そのままどうか壁や床に落書きないでくださいと祈りながら、私は机の上にあった白紙の紙を彼の側にそっと置いた。このくらいの癇癪はいつものことだ。これしきで慌てていたら、残念ながら旦那様のメイドは勤まらない。

「そんなことありませんよ。旦那様という呼び方は一応仕事していますという形を取る為のものですから、深く考えないでくださいね…さてレオさん、朝ご飯をお作りします。ご希望はございますか?」

一応言い訳をしてから私はようやくベッドから降りた。いい加減着替えて仕事をしなくてはならない。

「…パンがいい。あと、卵」

「かしこまりました。では支度してから作って参りますからどこかへ隠れないでくださいませね」

そう言って自室へ戻ろうと、室内履きを履いて旦那様の部屋を出るべく扉に手をかけた。
しかし不意に、後ろに強く肩を引かれた。うっかりと体勢を崩して後ろに倒れそうになった所を強い力で抱きしめられる。私が今着ているのは薄手の浴衣だ。背後から腕を回す旦那様の体温が近い。ふと下を見ると旦那様の浴衣の裾がだらりと床を這っているが見える。これは恐らく旦那様の浴衣はほとんど脱げている。そんな状態で抱きつかれるのは少し抵抗があって、私は反射的に彼の名前を呼んだ。

「レオさん。浴衣、ちゃんと着てくださいませ。お着替えのお手伝いを先に致しましょうか?」

わざと子どもに言うように言った。日によっては「子ども扱いするな!」と言いながら言うことを聞いてくれることもあるが、今回はそうはいかなかったようだ。抱きしめてくる力は未だ弱まるどころか、逆に強くなった。失敗である。

「…さっきの答え、聞いてない」

「さっき、とは?」

一体どのことを言っているのかさっぱりわからなかった。私が気がつかないのも不快なのだろう。苛立ったような口調で彼は続けて言う。

「…おれよりもセナの方が大事?」

あぁそれか。と私は思いもしなかった角度からの問いに、少し反応が遅れる。ここでどう答えれば旦那様のご機嫌が治るのかは、既に私は知り尽くしているのだ。

「…レオさんのことが大事じゃなかったら、真夜中に起きてベッドにいないあなたを探して起こして、一緒に眠ると思いますか?」

「…でも、それがおまえの仕事なんだろ」

「仕事って言ったって、そこまでしませんよ。大事なレオさんが風邪を引いたらいやだから、わざわざ真夜中にあなたを探すんです。泉様は雇い主ですから大事ではありますが、私が今一番大切なのかレオさんです」

「ほんと?」

「えぇ」

そう言って軽く振り向けば、旦那様がその角度のまま頬を支えてくる。これはまずい、と体を離そうとしたのが間違いだった。一度体を離したせいでくるりと体の向きを変えられ、私が何かを発する間もなく口づけをされる。

「…ん…むっ…!!」

不意なことに思わす喫驚の声が漏れるが、特に気にされる様子もなくたっぷりと長い時間唇を吸われてしまった。

「れ、れおさん…!」

なんとか体の隙間に手を入れてひっぺがせば、とろんとした表情でこちらを見ている。完全にそういう雰囲気に持ち込もうとしているのが、手に取るようにわかった。

「戯れはやめてくださいませね。失礼致します」

そう言って再度扉に手をかける。すると旦那様が、少し寂しそうな声を背中に投げてきた。

「…なまえ」

返事はしない。怒っているフリをとった方が、今日一日言うことを聞いてくれるからである。

「もしおれがなまえのこと抱きたいって言ったら、抱かせてくれる…?」

「…それは、仕事の一環で、ということですか」

フリが、真実に変わる。今まで旦那様の横で眠ってきたが、無理に体を暴かれたことはない。もちろん体をつなげたこと自体ない。が、それは私が旦那様の要望に応えないから、旦那様がどうにか我慢しているだけなのを私は知っている。否、そんな事は知らない、というフリをしているだけなのだ。彼は私に嫌われる事を極端に恐れている。きっと私が今現在自分の側にいる、唯一の人間だからだろう。

「ううん。ちがう。おれ、なまえのことが好きだって何回言えばわかってくれるの?」

「お気持ちを向けてくださるのは嬉しいです。ありがとうございます旦那様」

わざと旦那様。と呼んだ。線引きの為だ。旦那様は自分にこれだけ尽くす私に対して抱いている罪悪感や親愛などが混ざり合った感情を、色恋の情と勘違いしているに違いない。

「おまえと一緒にいたいって言って、セナにおまえを寄越させたこと、やっぱり怒ってる…?」

「いいえ。相応のお給金をいただいておりますから」

私はそう、あえて冷たく言ってからもう一度「失礼致します」と告げ、旦那様の部屋を辞した。これで今日彼は一日中沈んでしまうだろうが、彼が心を病んでいるからと言って何か私に強要させるようなこと…主に肉体関係を迫ってきても断ってよい、とお医者様は言っていたから、これでいいはずなのだ。

旦那様、もといレオ様の事は、その実ずっとお慕いしていた。

瀬名家のお屋敷でメイドをさせて頂いた頃、よくお屋敷にいらっしゃって、私のような一介のメイドにも笑顔でご挨拶をくださったレオ様が眩しい太陽のようで、私はお仕事の隙間にレオ様を少し見るくらいでいつも満足していた。ふと私の姿を見かけると名前を呼んで、たまにこっそりお菓子をくださったりと過ぎた事をしてくださった。きっと気まぐれだったのだろうと高鳴る胸をどうにか沈めながらひっそりと見つめていたのは紛れもない事実だ。

だからこそ、泉様から旦那様のお世話を頼まれた時は驚いたし、お給金を理由に快諾した。もし倍額ではなくてもきっと私は引き受けただろう。

私は夢見がちな女だ。
ここでこうして全てを注いでお世話をすれば、いつか快復した旦那様のお目に留まれるかもしれない。いつかご実家に帰られる日が来ても、私も一緒に旦那様のメイドとして連れて行って欲しいとお願い出来るくらいには、親密になれるかもしれないと夢見ているのだ。

だから、今心が病んでいる旦那様の戯れには決して応じない。否、もし応じればアッサリと私の夢は叶ってしまうかもしれないけれど、私はあの太陽のような笑顔と、その笑顔に反して一振の剣のように鋭く冴えた目線で言って欲しいのだ。


先ほどの唇の感触を思い出し、不意に熱くなる頰には気がつかないフリをして、私は一人の女からメイドに戻るべく、いつものロングスカートに脚を通すのだった。

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