羽毛の檻2

「まぁ…大丈夫でしょう。もしその日が近づくにつれてまた不眠や幼児退行が酷くなるようでしたら即刻中止してくださいね」

「はい。わかりました」

メイドである私の旦那様、もとい月永レオ様の罹りつけのお医者様は一度部屋の出口の方に視線を向け、その向こうで私が部屋から出てくるのを待っているであろう旦那様を見た。
先程まではなんとか往診に来たお医者様がいる部屋の中に居られたのに、いつも通りと言ってはなんだが突然出て行ってしまったので、私は彼に五線譜の紙とペン、それから私のメイド服のエプロンを持たせて一人残ったのだった。エプロンは旦那様が寂しいと言うので、私の代わりになるように渡した。が、恐らく彼は廊下にしゃがみこんでいるだろう。エプロンを抱えたまま、おれに付いてきてくれなかった。と恨み言を言いながら床で作曲作業をしているに違いない。

しかしお医者様は最初旦那様と軽く話が出来た時点で回復傾向にある、と判断したのだろう。今回私が申し出た「外出をしてもいいか」という言葉に、少しばかり悩んで一度カルテを見て、それから旦那様のいる方を見てから私を見た。

「正直この診察も最後まで受けられないのでは不安の方が大きくはありますが…彼はあなたを信頼しているようですし、手助けがあれば可能かもしれません。くれぐれも無理はさせませんよう。何かあればすぐ連絡をください」

そう言ってお医者様はお薬を何種類か置いて帰っていった。お見送りを終えて、門から屋敷へと戻るとじっとりとした萌黄色の瞳が恨めしげにこちらを見ていることに気が付く。その手には私が渡したエプロンを握りしめていた。

「旦那様。お医者様はお帰りになりましたよ」

「……」

「エプロン、お返しくださいませ」

「…やだ」

「今日あちこちお掃除していますし、あまり綺麗なものではありませんから。せめて綺麗なものと交換致しましょう」

そう言うとずるずると足を引きずるように柱の影から出てきて、エプロンを私に渡すように差し出してくれる。

「ありがとうございます」

にこりと微笑んでそれを受け取ろうとするが、そのまま強い力で腕を詰まれて引かれ、思い切り抱き締められた。けれど私にとっては予想の範囲内の行動だったので、心の準備は万全のまま一応逃げない形を取る。ここで抵抗しても癇癪を起してしまうだけなのは学習済みだった。

「医者と、何話したの?」

「旦那様の事ですよ」

「おれの事?」

「はい」

少し落ち着きを取り戻してくれたようなので、私は旦那様の背中をぽんぽんと叩きながら、なるべく落ち着いた声で話した。

「旦那様…いいえ。レオさん。この町の海沿いで花火が上がるそうです」

「花火?」

「はい。お医者様からは許可を頂きましたし、ご一緒しませんか」

私、花火が大好きなんです。と付け加えれば、旦那様は一度ぽかんと目を丸くした。

「おれも一緒に行っていいの?」

「お医者様は無理をしなければよい。と仰っていましたよ」

田舎町での花火大会など、都で開催するそれに比べたら随分と穏やかなものだろう。海沿いならば人ごみで旦那様が混乱することも迷子になることもなさそうだし、なにより私の以前の主人であった泉様が手紙で教えて下さった。心を壊してしまう前の旦那様は花火が好きだったと。もしそちらの町で花火大会があるのなら連れて行ってあげて欲しいと書かれていた。
町の商店街で花火を上げる事を教わった私は早速往診の際、お医者様に旦那様の外出許可を願い出た。
焦らずに、けれどなるべく早く旦那様の以前のような凛とした瞳を拝見したくて、私は多少の危険があれども旦那様を連れ出す事を決めたのだ。



思えばこの屋敷へと移り住んでから、旦那様は屋敷の門から外へ出たことが無い。屋敷の建物は決して広くないが、サンルームもあれば庭もある。彼が自身の世界に引きこもるには絶好の環境な上に、やはり若い男が一人、メイドが一人なんて屋敷は近所にも怪しがられて当然も然りだ。屋敷に出入りをする人など、いるはずもなかった。
そもそも心のバランスも体調もめちゃくちゃな旦那様が外に出られるはずもなかったのだが、この花火大会が良いきっかけになれば、という泉様の願いもわかる気がする。私はさっそく町で旦那様用の反物を一巻き買うと、屋敷へと急いだ。

「なまえ、おかえり」

旦那様は玄関に寝転がって天井を見つめていた。その手に五線譜の紙がないのは、少し珍しい。

「ただいま戻りました。何をなさっておいでですか?」

「ん?花火って、どんなのだっけ…って、思い出してた」

そう言って、旦那様は天井に向かって手を伸ばし、手を握ったり開いたりしている。「ばーん」と呟いているのを見る辺り、打ち上げ花火の真似だろうか。

「…旦那様は以前、花火をよくご覧になっていたのですか?」
「旦那様って呼ぶな」

私は一つ小さく溜息を吐いてから、レオさんは、と言い直した。

「うん。海岸通りまで、ルカたん連れて行ったり、セナとか…」

ルカたんとは、確か妹様だったはずだ。私は「そうですか」と相槌だけ打つ。そしてそのまま自分が買って来た反物をそっと差し出した。

「こちらの色柄、お好きですか?」

「え…?」

「よろしければ新しい浴衣、お仕立てさせて頂きます」

旦那様は一度むくりと起き上がると、じっと反物を見てから「うん」と呟いた。生成り地の反物はどうやらお気に召したらしい。

「なまえは?」

「はい?」

「なまえの分は?」

「あ、いえ私はこのままで…」

ひょい、とメイド服の黒いワンピースを摘む。少し暑いけれど、特に困る程ではない。しかし旦那様は一気に機嫌を悪くしたのか、眉間に皺を寄せてむくれてしまった。

「やだ。なまえも浴衣着て」

「しかし…」

洋服に慣れてしまうと、浴衣のような和服は動きにくくて仕方ない。特に万が一旦那様に何かあった時、対処が遅れそうな気がして嫌だったのだ。

「じゃなきゃおれも着ない」

ふん、とそっぽを向く旦那様。しかし出かける気が失せたわけではないことは良い傾向だと思った私は、わざと渋々、といった感じで返事をした。

「…かしこまりました」

折角旦那様の明るい髪色や瞳が映える色を選んできた反物だ。絶対に彼に浴衣を着せてやる。なんて考えながら、その日は玄関でうとうとしてしまいそうな旦那様をなんとか起こしておいて、きちんと一緒に夕食を摂らせる事に成功したのだった。




それから数日。旦那様は奇妙な程に大人しかった。作曲作業中に奇声を上げたりすることはあったし、夜に勝手に私の布団に入り込んでくる事はあった。夜急に泣き出すこともあったけれど、真夜中に寝床から消えているよりも御しやすい、と言えば主人に対して不敬かもしれないが、それくらい大人しかったのだ。
私も私で花火の日までに旦那様の浴衣を仕立てたり、持ってきていた自分の浴衣を箪笥から漁ったりしながらの準備を普段の業務と並行に行う分忙しくはあったけれど、なにせ旦那様に普段以上の手が掛からない。浴衣も綺麗に仕立てることが出来たし、町の人からあまり人で賑わわない海岸を教えてもらうことが出来た。外出の準備は充分である。

ここまできて、私はふと自分が楽しんで準備していることに気が付いた。勿論私自身も花火は好きだ。けれど一緒に行く相手は不安要素ばかりの旦那様だというのに、私は彼の為に新しい浴衣まで仕立てて、あまつさえ自分も楽しもうとさえしている。一刻も早く元の旦那様にまた会えることを願ってやまない一人ではあるのだけれど。

「……」

そこまで考えて、その思考は散り散りにした。元々は手の届かない方だ。私は一介のメイドで、レオ様は由緒正しい月永家の長男だ。
ほの甘い夢は、見ないに限る。


後は旦那様の体調や気分次第だ。花火がある日の朝、きちんとした時間に目を覚ました旦那様に、私は恐る恐る声を掛けた。

「旦那様、お加減はいかがですか」

すると旦那様は一旦食事を飲み込んでから私の「旦那様呼び」を禁止すると、珍しくぱっちりと目を開いて笑った。

「今日花火の日だろ。おれ、楽しみにしてたっ!」

その笑顔に、私は思わず吃驚してしまう。いつものどんよりとした表情ではなく、以前のような眩しい笑顔に私も心が明るくなってくる。

「ご無理なさいませんように」

「わかってるよ!」

「…?」

何故かものすごく機嫌がいいようで、朝食を完食した旦那様が私の後を付いて回りながら「今日は何時から?」「どこまで行くんだ?」と興味津々に詳細を聞いてくるのが、なんだか可愛らしく見えてくる。

「夜までまだお時間がありますから」

「なぁなぁなまえも浴衣、着るんだろ?」

「あ、はい…」

花火の話をした時に旦那様からそんな話をしてきたのに。などと一瞬考えながら、私は通常通りに掃除をしたり、洗濯をしたりと屋敷内を動き回る。その間も、いつもはすぐどこかへ行ってしまい、あっと言う間に姿を見失う旦那様なのに、何故か今日は私の側を離れない。

「なまえは何色の浴衣?」
「え?はい、えっと…」
「あっ待って言わないで!妄想させて!」
「も、もうそ…」
「おれ、楽しみにしてたんだ。これデェトだもんな!」
「えっ?!」
「外出るのこわいけど、楽しみな方が多いから大丈夫!」

そう言ってサンルームの方へ走っていった旦那様の背中を見届けながら、妄想、という言葉はここで使って正しいのだろうか。などと考えつつ、少しだけ高鳴った自分の胸が情けない。私は旦那様とデェトなんて出来る身分ではない。これは治療の一環であり、雇い主である泉様の願いなのである。勘違いしないように。と、私は洗濯板を必死に動かしていつもの仕事に没頭したのだった。


夕方、今日はまだまだ元気な旦那様に無事着付けを終えた私は自分の浴衣の着付けをして、髪を和服に合うように軽く上げた。残念ながら私が持ってきていた浴衣は娘が街をぶらつく時に着るようなものではなくごくごく普段着の色柄だけど、いつも黒いワンピースとエプロンだから、少しばかり新鮮な気もしてくる。が、やはりワンピースに比べたら動きにくい。

「…やっぱ地味だな…」

一人、ごちる。どうせお給金も沢山もらっているし時間もあったのだから自分の分も仕立てればよかったなどと考えながら、そんな事を考えた自分に思い切り首を振った。

デェトでもなんでもない。私は旦那様の治療の一環にお付き合いするだけである。
そう思って部屋から出れば、旦那様が私の部屋の外で待っていた。

「なまえ!」

私の顔を見るなり表情を明るくして、全身をざっと見てくる。そしてぼそっと呟いた。

「…浴衣、地味だな〜?」

「申し訳ありません…」

一緒に並ぶとのが申し訳なくなりながら部屋の外に出ようとすると、逆に旦那様が私の部屋に滑り込んでくる。

「旦那様?」

後ろに回られたので、帯が曲がっているのだろうかと想いながら彼の様子を見つめれば、そのまま思い切り抱きしめられた。

「きゃっ!」

「なまえの和装、初めて見た。似合ってる」

耳元で話されて、肌が粟立つ。

「離して下さい旦那様」
「やだ」

少し声を低くした旦那様の唇がうなじに触れた感覚がして、私はビクリと身体を揺らした。うっかり反応してしまった事に興奮したのか、舌でそのままうなじをなぞっているような感覚がする。私は漏れそうになる声を何とか抑えて、平静を装った。これ以上好きにさせてはいけない。必死に何事もないように努めるのが私のせめてもの抵抗だった。

「…あっ、おやめください!」

「……」

しかし旦那様が首筋の匂いを嗅ぐように顔を寄せている事に気が付いて、私は焦るように彼の身体を押した。今日は一日殊更汗を掻いているのだ。着付け前に軽く流したといっても汗の匂いが完全に消えたわけではないだろう。そんな中で匂いを嗅がれるのは羞恥以外の何物でもない。

「レオさん!ふざけるのもいい加減になさいませ!」

えいやっと再度彼の身体を引きはがせば、不服そうに頬を膨らませた旦那様の顔が見えた。可愛いけれど、その顔には騙されない。

「いいじゃん。普段着ないもの着てるの、可愛いんだもん」

「嫁入り前の娘の身体にそうやすやすと触れないでいただけませんか」

思わず口を突いて出た言葉だが、今更どの口が言う、と言った感じだ。何せ旦那様は、勝手に人の寝床に来たり自身の寝床に引き込んできたりする。そして私もそれを拒まない。拒んだ時、もっと彼の心が壊れるのではないかと恐怖してしまうからだ。

「…じゃあ、なまえはおれが嫁になってって言ったらなってくれるのか?」

ドキリと、心臓が跳ねた。しかし悟られてはいけない。彼も戯れで言っている。

「……まずは何も考えず、ここでゆっくり休まれてください」

「…おまえのそういうとこ、きらい」

「なんとでも言ってくださいませ」

ふい、と顔を背ければ、旦那様は「う〜」と一度唸ったものの、サッと手を繋いできた。

「まぁいいや!いこ!!」

その笑顔に、何だか泣きたくなってしまう。心が壊れてしまう前のレオ様の笑顔が重なったのだ。
出来れば泉様にも見せて差し上げたい。そんな風に思った。


町の酒屋の女将さんがこっそり教えてくれた海岸線は本当に人気がなくて、それでいて緩やかだった。本来の会場は海岸のずっと先らしいけれど、見晴らしがいいからきっと綺麗に見渡せることだろう。
今日は満月なのもあって月明かりの中でも歩けるくらいの明るさだけれど、なるべく海までは近寄らないようにしながら岩場に腰かける。
旦那様がどこかへ走っていってしまわないか心配になったけれど、私の予想に反して私の手を取ったままで居てくれる。久々の外出で、少し怖いのかもしれない。

「旦那様」
「やだ」
「レオさん。体調は大丈夫ですか」
「うん元気だ!花火、楽しみだなっ」
「えぇ」

そう言って私の指の間に指を絡ませてくる。ただでさえ未婚の男女が二人で出かけるなんて知られたら近所の噂の的になってしまう。

「レオさん、」
「あ、なまえ!!見える!見えるぞ花火だ!!」

手を離してもらうよう名前を呼んだのだけれど、海の向こうの方で花火が上がった。そこまで大きくは見えないけれど、空一面の花火が夜空を明るく彩っていく。

「わぁ…綺麗」
「わはは、すごいぞ!きれいだ!きれいだな」

あれすごいぞ!と花火を指さす旦那様に私は一つ一つ返事をしながら、彼の楽しそうな横顔を見てまた泣きそうに目を熱くした。きっと彼なりに今日を楽しみにして、頑張って体調を整えようとしていたことも知っていたし、いつもは気もそぞろな食事も頑張って食べていた事に気が付かないわけがない。

そしてこの私の目から滲む涙が、彼の頑張りに対する感動の涙からではないことも私は気が付いている。
旦那様…いや、レオさんは、「花火を見るために」ではなく「私と出かけるために」ここまで頑張ってくれたのだ。それは彼の気持ちが私に向いてしまっている事を浮き彫りにしていく。その気持ちは嬉しい。嬉しいけれど、そう思ってはいけないものだ。
レオさんは、私の嫌がることは絶対にしない。その優しい気持ちが物語っている。
彼のその感情が、そして私のこの感情が花火のように一瞬なものでありますようにと願いながら、私は早く浴衣を脱いで、メイド服のエプロンに戻ろうと決めたのだった。

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