愛しのアールグレイ・1

その国に住む裕福な家の男は、とある特権を有していた。
条件はたった一つ。『平等に愛せるか』である。

朔間家といえばその地域では大層裕福な家で、一族は街の奥にある大きな屋敷に住んでいた。跡継ぎである二人の息子は毛色は違えど年頃になり徐々に家業を継ぐ者としての頭角を現し始めているという順風満帆ぶりで、加えて二人揃って大変に美しい容貌は権力者の娘を根こそぎ虜にして周り、婚姻の申し出が後を絶たないという噂が毎日のように街を駆け巡っていた。

兄の零は未だ未婚な上結婚の約束をしている娘もおらず、権力者たちはいかにして娘を朔間家に嫁がせるか、必死に策を巡らせる毎日であった。対して一つ年下の弟である凛月はつい3ヶ月ほど前に幼なじみの娘と婚姻を結んだばかりの新婚である。
このあたりの風習として、家督の相続は長男とは限らない。故に兄より先に弟が結婚することも大して珍しくはないのである。

しかしそんな凛月にも婚姻の打診は絶えない。
なぜならこの国の裕福な家の男は、妻を平等に愛するのを条件に複数の娘を妻とすることが出来る。
いわゆる一夫多妻が許されている国なのである。



なまえは屋敷の中庭に咲く花たちを見つめながら、一人むっつりと頬を膨らませていた。せっかく侍女が淹れてくれた紅茶もすっかり冷めてしまったのに口を付けずぼんやりとしていたらいつのまにか温かい紅茶と入れ替わっていた。さりげない気遣いをしてくれた侍女に笑顔でお礼を言ってカップに口を付けたけれど、味なんて正直よくわからない。今なまえの意識は目の前の紅茶ではなく、今朝の夫の一言に向いてしまっている。

朝食を共にした時、夫の凛月がそれは楽しそうに宣ったのだ。

「ふふふ、俺ももう一人くらいお嫁さんもらってもいいかもねぇ」

「へっ?」

乾季を抜け、すっかり水の季節になった。乾いた風を防ぐために掛けていた厚い壁掛けを取り除き、涼しい風が吹き抜けるリビングで朝食を取っている折、いきなり夫がそんなことを言うものだからなまえは思わずパンを一つゴロンと敷布に落っことした。

「あらら、もったいない」

「奥様、敷布に落ちたものは召し上がらないで結構ですわ」

「大丈夫大丈夫。ちょっと落ちただけだよ」

慌てたように声を上げる侍女がパンを回収する前に、なまえはさっと落ちたパンを掴むと一口サイズにちぎって口に入れた。例えちょっと食器から敷布の上に落ちたからって、味も一緒に落ちるわけではないが、この屋敷に住む女としてはしてはいけない行動だったのだろう。なまえの動作にやや顔を青くしている侍女に向かって、ごめんごめんと手を振った。
この国ではテーブルは使わず、敷布の上に直接食器を並べて床に座って食べる。だから特にそちらを気にする必要はない。

そう、今気にすべき所はそこじゃない。朝から突飛なことを言い出したなまえの夫、凛月の聞き捨てならない台詞である。

「えっ…なに、凛月。なんて言ったの今」

すると彼は歌うように言った。

「ん〜?俺ももう一人くらいお嫁さんもらおうかな〜って言ったの」

「え、えぇ?!私たち新婚なのに?!」

そう焦ったように言うと何故か凛月は怪しげに、そして美しく微笑んだ。その花も落ちるような美貌が、珍しく体調がいいからと起きて来た朝の爽やかな青空に映える。美しい。なまえの幼なじみ兼生涯を共にする誓いを立てた夫はこんなにも美しい人である。

「え、ほ、ほんと?ほんとに?ねぇ凛月」

しかしこの仕打ちは聞き捨てならないと、なまえは凛月に文字通り詰め寄った。大きなクッションにもたれる凛月の懐までズリズリと移動して、彼の黒髪に生える若草色の衣装の胸元をぎゅ、と掴んだ。そんななまえを見て、侍女達が素早く周りの食器をやや遠ざけているのが気配でわかった。なまえが食器を踏んでひっくり返さない為だろう。出来た侍女達である。

なまえの勢いを軽く流しながら、凛月は朝食用にと侍女が選んだ紅茶をそっと飲んだ。まるで胸元にしがみつき必死の形相の妻など見えていないかのように、彼の周りだけ穏やかな時間が流れているようである。

「うん。今日の紅茶美味しいねぇ。誰がブレンドしたの?」

と凛月が言うと、給仕係が慌てて一人の侍女を連れてきた。歳はなまえの一つか二つ上くらいだろうが、確か長くこの家に仕えている侍女だ。掃除をしていたのか、箒を持ったまま現れてしまい慌てて箒をどこかへ放り投げてから二人の前で恭しく礼をする。

「ふぅん。アンタがブレンドしたんだ。美味しいよありがと〜」

そう言って凛月がひらひらと手を振ると、侍女は少し微笑んでからもう一度深く礼をとった。そのすぐ傍でなまえはポカンと口を開けたまま、掴んでいた凛月の服を震えながら離した。そうして目を見開いて凛月を見る。

彼は満面の笑みで妻を見た。それはもう、満面の笑みで。

「二人目の妻は侍女でもべつにいいよねぇ。俺、家柄とか特に気にしないし」

「え…」

えぇ〜!!と力の限り叫んだのが、約数時間前。それからなまえは空っぽのままなんとか朝食を終え、仕事で出かけるという夫を見送り、一人鬱屈したまま中庭でぼんやりと時を過ごしていた。

なまえと凛月は結婚してまだ3ヶ月、と言っても互いの家は子どもの頃から付き合いが深く、二人はいわば幼なじみという間柄だった。ゆえに婚姻が決まった時も至極自然な流れだと誰もが思い、誰もが祝福した。幼い頃から決まっていたような縁談だったからか互いに大きな落胆も大きな歓喜もなく、比較的淡々と婚儀を上げ夫婦になり、こうして生活している…

…と、思われているはずだ。周囲には。

それは大きな勘違いだった。
なまえはずっと小さな頃から凛月のことが好きだったのである。だから幼い頃はずっと凛月を一緒になることを夢見ていたし、年頃になったら凛月との縁談が決まるまで毎日ハラハラしていた。とうとう父から凛月と結婚する旨が決まったと聞いた時は、それこそ人知れず小躍りしたくらいだった。長い年数近くにいたせいでなかなか恥ずかしくて本音を伝えることが出来ていないが、なまえは幸せの絶頂だったのである。

「今はどん底だけどね〜…」

侍女が淹れ直してくれた紅茶は、再びぬるくなろうとしている。今朝方も飲んだ珍しいブレンドの紅茶は微かに花の香りがする。純粋に美味しいと侍女にお礼を言いたいのに、凛月の朝の一言のせいで素直にお礼が言えなくなってしまった。全ては朝、凛月が急に落とした爆弾のせいである。

「はぁ…本当にもう一人お嫁さん連れてきたらどうしよう…」

中庭は花と水に囲まれた美しい庭園である。小さな頃はよくここで凛月や兄の零とよく水遊びをしたものだが、今は一人、ぽつんと足を浸しているだけだ。しかしもしかしたらその内もう一人、ここでのんびり凛月の帰りを待ちながら紅茶を飲む女が増えるかもしれないと思うと腹の奥からなにやら熱いマグマのような感情が襲ってくる。ようするに嫉妬だ。自分以外の女を妻にしてほしくないのである。

でも、この国の裕福な家の男は基本妻を複数持っているものだ。もちろん平等に愛するのが条件であるが、複数の妻を持つというのは男たちにとっては一種のステイタスなのである。
誰かに相談したい。相談したいけれど、こんなこと相談してもただの贅沢女の自慢話にしかならない。

鬱屈とする体を引きずって、なまえは中庭を出た。そろそろ昼食の時間である。基本この国では皆家で昼食をとる。そろそろ凛月が眠さを限界にしながら家に帰ってくるだろうから、昼食準備の手伝いをしに行くことにした。


「おかえりなさい凛月……うわ、」

「ただいま〜なまえ。ねむい…」

凛月はいつもより少し遅めに帰ってきた。玄関まで迎えに行けば、凛月は紅い瞳を半分閉じたまま、ふらふらとなまえに抱きついてくる。彼の家の体質上昼間は本調子ではないはずなのに、こうして頑張って仕事をしてくれるのはひとえになまえの為でもある事はきちんと理解していた。それに対する感謝もしているし、そんな凛月が大好きである。

「お昼出来てるよ。食べられる?」

「食べる〜…」

けれどこうして甘えられれば甘えられるほど嬉しくてどんどん凛月に恋するというのに、今朝のことを思うとどうにもモヤモヤしてしまう。夫に自分以外の妻を娶ってほしくないだなんて、きっとこの国の女性みんなが思っていることだ。わかっている。わかっているけれど。



「なまえってば」

「えっ、あ、なに…?」

よほどぼんやりとしていたのか、凛月が声を掛けていたことに気がつかなかった。すぐ傍の夫に顔を向ければ、怪訝な顔でこちらを見ていた。

「さっきから呼んでたのに。なに考えてたの?」

「う、ううん。べつに…」

なまえはふい、と目線を外してから、昼食に集中するフリをして下を向いた。今日の味付けはうまくいったな。なんて現実逃避にも近いことを考えながら、黙々と口を動かしていると、隣で凛月の笑う声が聞こえた。

「ねぇなまえ。朝俺が言ったこと、すごく気にしてるでしょ」

心臓を真っ直ぐ射抜かれる。ときめきとは違う意味合いで。

「…そ、そんなことないよ」
「嘘」

凛月が紅い瞳を愉快そうに細めた。下を向くなまえの頰に手を添えてそのまま掴むようにして上を向かされる。

「やめ、」
「ねぇ、気にしてる?俺がもう1人お嫁さんもらおうかなって言ったこと」
「……」
「俺がなまえ以外の女と結婚したらやだ?やめてほしい?」

わざと具体的に言ってくる辺りが、とても意地悪だ。なまえの反応を楽しむために言ってるのなんてすぐわかってしまう。否、わからせる為に言っているのだろう。
悔しい。凛月は昔からこうやってなまえを弄んでは楽しみの一つにしているのだ。
でもきっとそれは、なまえが凛月の事を愛しているという事実を、彼自身が奥の奥まで理解しているから出来る意地悪だ。それも悔しい。なまえの事を凛月がどれくらい好きなのかは、なまえは結婚した今でもよくわからないというのに。

「し、知らない…。凛月が、け、結婚したいならすれば?私に止める権利ない、もん…」

凛月の紅い瞳が、不意に温度を失くしたのが見えた。彼の手がそっと離れ、ほんの少し距離ができる。

「…ふーん、いいんだ。なまえにとって俺ってその程度の存在なんだね」

その言葉に、不意に涙がジワリと滲んだ。そんなわけない。小さな頃からずっと好きで、やっと彼の妻になれたのだ。けれどこの国では一夫多妻が認められているのだから、夫が望むのならそれを妻が止める事なんて出来ない事は分かっているはずなのに。

「なんでそんな意地悪言うの…?りつくんのバカ」

思わず小さな頃よく凛月にからかわれた時に言っていた台詞を、小さな頃と同じ呼び方で吐いてみれば、凛月は少し睨むようになまえを見てきた。

「なまえだって意地悪だよ。俺の事本当に好き?いいの?他の女と結婚するかもって言ってんのに」

「な、なんでそんな事聞くのよぉ…」

「だって…」

そこまで言って、凛月は珍しく少し口ごもった。何か言葉を飲み込むように唇を引き結ぶと、席を立ってしまった。

「眠いけど、俺仕事〜。じゃあねなまえ」

そう言ってひらひらを手を振りながら屋敷を出て行った凛月を見送る事もせず、なまえは座り込んだまま俯いた。


「…よし、飲む。飲んでやる」

そして結論を出す。それだけ呟くと侍女を呼び、お酒を持ってくるよう頼んだ。驚いたように固まる侍女に「いいの!お昼だけどそんな気分なの!!これっきりだからお願い!」と押し切った。実の所、酒などあまり飲んだことがない、というよりほぼ皆無だった。婚儀の際に少し口を付けたくらいであるが、素面のままでいたら鬱々と色んなことを考えてしまった挙句、もしかしたら他の女との結婚の約束を取り付けてきた夫に怒り散らして嫌われてしまいそうである。

この国では、女は裕福な家の男と結婚出来た幸福の代わりに、その男を独り占め出来ない運命にあるのだ。どの女性もその苦痛と幸福を交互に飲み込んできたというのに、自分だけ嫌だと喚くわけにはいかない。

でも嫌だ。我儘だけども嫌なものは嫌なのである。


自分以外にもう一人妻を持とうと、それはもう気まぐれに言い出した夫にヤキモキする感情を散らそうとして、なまえが辿り着いた答えは「酒」だった。

諌めてくる侍女を押し切って我儘を言うなまえに気を遣って、侍女が運んで来たのは比較的薄い果実酒だった。それをぐい、と飲み干す。柘榴の果実酒の中に、ほんのり薔薇の香りがする。

「え、なにこれ美味しい」

もう一杯!と侍女に空いた杯を渡して、飲み干して、渡す。そんな事を数回重ねているうちに、なまえも何が何だかわからなくなってきていた。

「奥様、そろそろ…」

「いいの!いーいーの!はい!もう一杯!」

そうしているうちに自分の許容範囲をとうに超えていたことに、なまえは気付くのが遅れてしまったのだ。心臓は早鐘のようだし、そのせいか全身を回る血が満遍なく熱くチリチリとしている感覚がする。頭はハッキリしている、と言いたいが普段よりも箍が外れているような気がする。「しゃんとしなきゃ」という無意識の制約が効かず「まぁいいや」と雑な思考が意識を支配していた。

「もーやだー!りつくんのばーか!ばか!ばかー!」

部屋で1人、敷布の上でゴロゴロしながら叫ぶ。少し顔を青くした侍女が水差しと水を持ってきて、「奥様」と声を掛けてくれるが心外だった。私、酔ってないもん。と呟いて、足をバタバタとさせる。

「もう少しで旦那様もお帰りになります奥様…」
「げっ!やだ!」
「早く酔いを醒ましてお迎えに参りましょう」

そう言って、侍女はもう一度水を勧めてくる。何度も諦めず水をくれた、大層出来た侍女に礼を言いながら水を飲んで、体内のアルコールを薄める。頭だけぼんやりと茹だるような感覚は生まれて初めてで、どうしたって持て余した。

夫が仕事に出ている間1人酒を飲み酔っ払っていたなんて、なんて駄目な嫁だろう。なまえは一杯の冷たい水で僅かに取り戻した冷静さは、なまえの思考を後ろ向きに折り曲げた。

もしこれで決定的に嫌われてしまったら。そう思えば思うほど、血管を巡る熱い血は涙まで運んできた。じわじわと滲み始める涙を止める術がわからなくて、なまえは服の袖で何度も頰を拭った。が、一度溢れた涙は酒の力を借りて、留まる所を知らなかった。

「う、うう、やだ〜…」

とうとうベソベソと泣き始めてしまった自分をどこか遠い場所で見ている気持ちになりながら、なまえは1人伏せた。しかしもうすぐ凛月が帰ってくるので、そうゆっくりもしていられないのだ。こんな状態では到底会えないと思い、なまえは居間ではなく自室に篭ろうと、ゆっくり伏せた体を起こした所で、頭上から声がした。

「何がやなの?」

今しがた熱かった血管を泳ぐ血が、一気に冷えていく。その声はなまえが最も大好きな声であり、今最も聞きたくない声だった。

そっと、顔を上げる。そこには紅い瞳に剣呑とした光を宿した、なまえ最愛の夫がいたのである。

「り、りつくん…」

にこり。と凛月が笑う。月下美人も褪せる美貌である。

「ただいまぁなまえ。1人で酒盛りしてたんだって?」

もう話が通っていた。侍女の有能ぶりも考えものである。

「お、おかえりなさいりつくん…」

「ふふ、その呼び方懐かしいねぇ。小さな頃に戻ったみたい」

笑うように言っているはずなのに、声色はなんだか怖い。長年の経験上、こういう時の凛月は大抵怒っている。

「ご、ごめん私今日は部屋に…」

そう言って立ち上がろうとして、なまえはぐらりと視界を揺らす。じっとしていた間はこんなに酒が回っていると気がつかなかったのだ。多彩な刺繍を施してある壁掛けや絨毯が、万華鏡のようにぐるぐると回っている。

ふらりと体が揺れて倒れそうになった所を凛月が抱き留めてくれた。いつもの若草色の上着と橙の肩掛けがなまえの視界いっぱいに広がり、彼の服の装飾が額にコツンと当たった。華奢な印象を持つ夫は全体的にしなやかではあるが意外と逞しい身体つきをしている事を思い出して、再び冷えた血管が熱くなる。

「お酒なんて全然飲んだことないくせに」

大丈夫?と頭を撫でてくれたが、彼が怒っている事は一目瞭然である。早くその腕から逃げようともがいたのが、その行動が凛月の琴線に触れてしまったようだ。逃げ出すつもりだったのに、逆に抱え込まれてしまった。凛月の脚に体を挟み込まれ上半身はがっちりと抱きしめられている。

「いや、離して」

「いや?何が?俺とくっつくの、嫌なの?」

違う。違うけれど今の自分がみっともなくて恥ずかしいのだ。この国では当たり前の事を受け入れられずにまだ見ぬ二人目の嫁に嫉妬して、素直になれずに夫と気まずくなって。そんな自分が惨めで飲めない酒を飲んで、今夫の腕の中にいるというのに今にも泣きそうだ。酒の力なのか、何か小さなきっかけでボロボロと涙が溢れてしまいそうである。ついでに感情も爆発してしまいそうだ。いっそ嫌だと叫んで嫌われてしまった方が後悔しないかも。そんな暴力的な思考さえ浮かんでくる。

「なまえ」

「う、ううっ!やなの!!やだ!!」

結局、勢いで全部溢れてしまった。自分の背中に回る両腕よりも思い切り抱きついて、とうとう溢れてしまった涙を夫の若草色の上着を押し付けた。微かに「え?」と聞こえた戸惑ったような声なんて耳に入らずに、なまえはしゃくりをあげた。ガラガラの涙声で喋り始めれば止まらなくて、気がつけば一切の恥を捨てていた。

「二人目のお嫁さんなんて取らないでよぉ!やだ!りつくんは私だけの旦那様だもん!!なんで?!私だけじゃ物足りない??私はずっとずっとずーっと前からりつくんの事好きで大好きで!!け、結婚出来るって知ってすっごく嬉しかったのに…他の女の人と一緒にいる所なんて見たくないの!!う、うわ〜ん!!!」

まだ娘と呼ばれる年齢ではあるものの、もう結婚出来る歳の女が声を上げて泣くなんて恥ずかしい。けれどももう止まらなくて、それがきっと酒の勢いもある事にも気がつかないまま泣き続ければ、余計に酔いが回ってしまい、凛月の腕の中でへにゃりと力が抜けてしまった。

「え…ちょっとなまえ、大丈夫?」

「大丈夫だけどりつくんが新しいお嫁さん連れて来るのは大丈夫じゃないの!!」

もうどうなってもいいやとばかりにやだやだと駄々を捏ねれば、凛月の腕が再び強くなまえの背に絡みついた。頭上では心底楽しそうな笑い声が聞こえる。

「なんで…っ笑ってんの?」

「ん?」

ボロボロと頰に落ちる涙も気にせず顔を上げれば、先程まで怒っているような瞳をしていた凛月が、嬉しそうに微笑んでいるのが見えた。いつもの白い頰が、どこか気色ばんでいる。あれ?と思い頰に掛かっている彼の髪をそっと耳に掛ければ、耳までもほんのりと赤くしているではないか。酔いが回る思考でも、そんな彼の表情は初めて見た。という事が理解できた。

「ちょっと…やめてよ。恥ずかしいから」

照れたような声を洩らした凛月が、髪を元に戻して耳を隠した。なまえは涙をグイグイと袖で拭いて、彼の顔がよく見えるようにする。やはり、普段少し青白い凛月の頰がまるで酒を飲んだように赤くなっている。

「なんでそんな赤くなってるの…?」

「なまえの台詞じゃないけどね…アンタも顔真っ赤だよ」

「これはお酒のせいだもん」

「そうだねぇ。俺にもう一人お嫁さん出来たらやだってヤキモチ妬いてヤケ酒飲んで赤くなってるんだもんね」

やっぱり意地悪だ。と、思うが抱き込まれているせいで離れられないし、離したくない。二人目の嫁問題はまだ解決していないのだ。

「だって、嫌だもん。他の女の人とりつくんが仲良くしてるの、見たくない。でも、でも奥さんが何人もいるのって普通の事だから、我儘言ってるのもわかってるの…」

「うんうん。なんで、俺と他の女が仲良くしてるの見たくないの?」

サラサラと髪を撫でてくる手つきはいつもと一緒なのに、凛月の言葉はどこか焦るように早かった。珍しく、相手の言葉が待ちきれない、と言った風である。ここまでくれば恥も何もあったものではない。なまえは長年の感情をぶつけるべく、彼の服の胸元を掴んでぐい、と顔を近づけた。

「好きだから。りつくんの事ずーっと小さい頃から好きだからやなの…」

「…そっか」

そう小さく呟くと、充分近かった唇に凛月がそっと口付けた。そのままじっとり体重を掛けて押し倒されると、暫し凛月の唇がなまえの唇に擦り合わさるように触れる。

「…嘘だよ。もう一人お嫁さんなんて連れてくるわけないでしょ」

酸欠と酔いでぼんやりするなまえの頭でも理解できるくらい甘くて、何より切羽詰まったような声で凛月が言った。

「だって妻を複数持つ時の条件、俺には到底満たせるとは思えないからねぇ」

この国の裕福な家の男は、複数の妻を娶る事ができる。ただし『妻達を平等に愛する』のが大きな条件なのである。




「…初めて、好きって言ってくれたねぇ」

そのまま寝室になだれ込んでから夜明け、凛月は薄らと目を開けたなまえに一度口付けをしてから、歌うように楽しげに呟いた。

「そう…かな。言ったこと、なかったっけ…?」

体の気怠さに続いて頭が痛い。きっとこのまま眠って起きた時には二日酔いだろうと、なまえは覚悟を決めた。全部自分が悪いのだ。

「ないよ。言ってくれるのずっと待ってたから俺にはわかるの」

幼なじみ同士の結婚で、彼女にとっては特に大きな歓喜も落胆も無い婚姻なんだろうと、凛月は思っていた。
けれど小さな頃から凛月はこの幼なじみの娘を愛していた。凛月と共に彼女の幼なじみだった兄の零には絶対に取られないようにと、彼女が結婚出来る歳になった早々に婚姻を申し込んだのもその為だ。兄はとうに二人が相思相愛である事に気付いていたようだが、凛月は兄が気が付いている事にも気付けないほど必死だったのだ。

なのに彼女は、未だに凛月に「好き」だの「愛している」だの言ってくれた事がなかったから、ほんの少し意地悪してやろうと思っただけだったのに。

サラサラと、同じ布団で今にも寝そうな妻の髪を撫でながら、凛月はふと部屋の出入り口に食事が置かれている事に気が付いた。相変わらず出来た侍女が食事も取らないで励んでしまった自分たちを気遣い置いていってくれたのだろう。

「ふふ、引き合いに出しちゃってごめんね〜」

食事と一緒に、彼女に飲ませようと水差しも部屋の中へ持ち込んで、凛月は銀色の皿に乗った柘榴を一粒口に放り込んだ。うとうとし始めている妻にはヤケ酒を薄めるために一杯分だけ水を飲むように促すが嫌だ嫌だと駄々をこねたので、仕方なしに自身の口に含み、そのまま口付けてやる。驚きのあまり目を見開いたまま凛月の唇を受け入れた妻の驚いた顔があまりに面白くてあまりにかわいいものだから笑ってやれば、妻は少し不貞腐れたように、布団を肩まで掛けて眠ってしまった。

紅茶のブレンドが上手で、やたらと気が利くあの侍女は、実は兄の零がとうに唾を付けている女である。きっとその内一族を説得して、兄は彼女と婚姻を結ぶだろう。

可愛くて仕方ない嫁の気持ちを確かめると共に、兄にささやかな悪戯をしてやれた。凛月にとってはこの上ない成果が出た事が、大層満足だったのである。

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