時を刻む鼓動。


私にとっての日常はどこにでもある普通のテンプレのような生活だ。朝は苦手だからギリギリまで布団の中で過ごしてスヌーズ3度目のアラームでようやく起き上がり、ボーッとしながら化粧と着替え歯磨きを済ませて、朝のニュースキャスターが星座占いを始めたところで時間ギリギリだと気付いて慌てて家を飛び出す。

平凡な私でも、一つ誰かに何か言われることがあるとするならば、よく出勤前に何らかのトラブルに遭遇するということだけだ。
どれだけ早く家を出ても、腰を痛めたおばあさんの荷物持ちとか、ランニングしている女性のイヤホンの探し物とか、そして特に多いのが子供の迷子。
毎朝ニュースの占いのランキングは私だけ最下位ではないかと思うほどに、会社の仲のいい同期には本当に災難だねと笑い話にされていたのに最近は呆れて厄祓いしろと心配される始末。



だけど困っている人を見て放っておけない性格なのは自覚している。平々凡々に過ごすよりはたまには刺激があった方が楽しいけれど、それでも人を助けた後に遅刻ギリギリで出勤するのは避けたい。
別に運動神経が言い訳でもない私が、おかげでパンプスを履いたまま数メートルの距離は難なく走れるくらいにはなったけれど。

どうして朝はこんなに時間が過ぎるのを早く感じるのだろうか。私もトラブルに出くわす度に起きる時間を早くしているにも関わらず、案の定今日はバス停に着く前に小学生の女の子が歩道のど真ん中で動かずに立っていた。
当たりをキョロキョロと見渡して、いかにもな迷子だというような様子。まだランドセルが身体とほぼ同じくらいの小さな子で、たぶん1年生だろうか。まだ学校に行き慣れていない感じだ。

「どうしたの?」

女の子と目線を合わせるために膝を着いて声をかけた。少し泣きそうになりながら首を横に振る。不安でどうしたらいいのか分からないのだろう。怖がらせないように気を遣いながら問いかけた。

「学校はどこかな?」
「…」
「いつもどのバスに乗ってる?」
「…」

だめだ。何も返してはくれない。見た感じもう住宅街からも外れているし、私の経験上一緒に登校している小学生とはぐれたのだろうと察した。
同じような小学生はいないなと、周りを見渡していると、右の袖をギュッと握られる。女の子は瞬きすればこぼれ落ちそうなほど涙をためて、けれど消して声を出さないように堪えていた。

「大丈夫だよ。お姉さんと一緒に行こう」

掴まれた手と私の手を繋いで笑いかけた。今までリアクションが無かった女の子が小さく頷いて私の手を握り返す。何だか頼られているのが嬉しくて、こそばゆくて、「怖かったね。泣かなくて偉いね」と頭を撫でてあげた。

これも私の経験上からの知恵だが、ランドセルをあけた内側に学校名と名前が書いてあるので、そこからどこの小学校か把握出来た。と言っても、私も就職して東京に来たものだから土地勘は未だに乏しい。スマホで検索してみると、自分と同じ方向のバスだった。不安にならないように手を繋いで置いていかないよう歩幅を合わせて乗り場えと向かう。
幸い近めにあったので、私もこのバスなら学校まで送り届けて会社の朝礼までには間に合うだろう。


バスを待っている間に他の運転手と若い男の子が話しているのを見かけた。

「そこに行きたいならあそこの向かい側の乗り場だよ」
「え、そーなの?あれーこの時間のバス乗れって書いてんだけどなー」


スマホを見ながら何だか困惑しているような感じで、高校生くらいだろうか?赤いパーカーよく目立つ学ランを着た男の子だ。まだ声変わり途中の愛嬌のある声からは渋谷の最近出来たロールアイス屋さんの名前が聞こえた。あれはこの前同期が彼氏と一緒に行くって嬉しそうに話してたから覚えている。
出来るなら教えてあげたいけれど、ちょうどそのタイミングでエンジン音と共にバスがやってくる。どうしよう。そう考えていると、背中に強い衝撃が走った。え、なに?扉が開いて先頭から人が乗っていくのだが、その流れに進んでいると後ろの方から大きな声が聞こえた。
図太い男の声だ。振り向けば、後ろに並んでいた中年男性が割り込むんじゃねえよと声を荒らげていて、仕舞いには近くにいた人達に手を上げている。再びドンっと強く背中を押されて体制を崩すと女の子が怯えたように震えていた。そうだ。守らなきゃ。包み込むように抱き締めて暴動が収まらないか頭を悩ませるけれど、荒ぶる声に私も恐怖心に襲われる。このままじゃバスも動かない。運転手さんや周りの人も男性に落ち着けと声をかけるけれど聞こえていない様子で。荒れ狂う男性の強い手が側にいた高校生に当たりそうになって、危ないと思った瞬間、なんなくその拳を片手で受け止めた。


「おじさん、ちょっと避けてね」


小さく呟いた男の子が今度は拳を握りしめる。え、逆ギレ?こんな所で朝から喧嘩なんて勘弁して欲しい。しかもこんな小さな子がいる所で。


「…まって…!」


私が言う前に構えから拳を振りかざした。でもその先には男性の身体ではなく、特に何も無い右肩の空間。なんだろう…何したの…。
たった一発。その彼の行動だけで、男性は落ち着いて、そして先程の暴動から予想もつかないような顔をしていた。

あれ…俺どうしたんだろう…と辺りを見渡すようにキョロキョロとして、何事もなかったかのようにバスへ乗り込んだ。


「ごめん運転手さん、もう大丈夫だから早く行こうぜ」


みんなも待ってるだろうし。そう言った男の子はさっき見かけた赤いパーカーと学ランを着た男の子だ。刈り上げた短い短髪と柔らかな桜色の髪の毛。


「おねーさんも大丈夫?さっき蹴られてたけど」
「…あ、はい。大丈夫です」


呆然としていれば、もうすでに他の人は乗車していて、私と女の子だけが座り込んでいたので男の子が手を差し伸べてくれた。


「その子迷子?俺も一緒に連れてってあげる」
「え…でも君、渋谷に行きたいんじゃ…」


手を受け取りながら立ち上がり、思わぬ提案に驚く。


「ん?そうそう!なんで知ってんの?」
「さっき運転手さんと話してるの聞こえたから…渋谷行きのバスはこれじゃないけど、いいの?」
「え、まじ?」


んあーー。どーしよっかなーー。と頭を抱え始めた男の子に少し困っていると、右手が小さく引っ張られた。女の子が早くしようとバスを指さしている。


「あ、うん。そうだね、ごめんね」
「よし、俺も乗るわ」
「…えっ?」


その光景を見てあっという間に決めた彼は、ほら乗って乗って!と男の子はにっと歯を見せて太陽のように笑った。初めて見る顔だけれど、嫌味のない人懐っこい笑顔だ。私も社会に出て数年、対人関係には色々学習して線引きをするほど誰彼構わず心を開いているわけじゃないけれど、この子は稀に見る根っからの善人だと、不思議と分かった。

しばらくバスに揺られて小学校の近い所で降りる。男の子も一緒に降りてくれて、そこからはまだ登校中の学生達がよくいた。


「みなちゃん!」


走って駆け寄ってきた子は女の子より少し年上の小学生だ。みなちゃんと呼ばれた子は私から手を離してその子の元へ向かう。仲がいい友達だろう。他に後ろにも何人か小学生がいたから、きっとこの子の登校班のグループだ。とりあえず合流出来て良かった。

年上の女の子は手を繋いでいた私たちをすぐさま理解してありがとうございましたと律儀に頭を下げるので、私は気にしないでと胸の前で手を振った。

「良かったね。もうはぐれちゃダメだよ」

目線を合わせて屈むと、みなちゃんは勢いよく私に抱きついてきた。

「あはは、懐かれてんね」

男の子は笑いながら言った。そんなに大したことしてないんだけどな。それでも小さな手が私の体をギュッと掴むものだから、可愛くて抱きしめ返した。
トラブルに巻き込まれても、こうしてたくさんの感謝があると私も嬉しくなるからつい手を差し伸べてしまうのだ。
みんなも待っているし、優しく行ってらっしゃいと促すと、泣くのを我慢しながら他の子に連れられて歩き出した。

「おにーちゃんも、ありがとう!」
「おう!気をつけて行けよ!」

隣にいた男の子にもバイバイと挨拶をして、私達も小さな背中が見えなくなるまで手を振る。
可愛いなぁ。そんな余韻に浸っていると、隣から着信音が鳴って男の子がスマホを出した瞬間だった。

「虎杖!あんたいまどこにいんのよ!!!」
「うっ…げぇ…」

離れていても聞こえるくらいの大声がスマホから届く。男の子は苦虫を噛んだような表情でスマホを耳から遠ざけていた。


「ここからなら、あそこの交差点を渡って右に曲がったとこのバスに乗れば行けるはずだよ」


そう言えば、男の子は目を丸くした後に、さんきゅ。と笑って電話の相手に話す。


「悪ぃ、あと用事済ませて行くから五条先生にもそう伝えといて」


あ、ちょっと待ちなさい!と、スマホから聞こえたけれど、有無を言わさず通話ボタンを切った彼は、まじ都会ってむずいねー。と軽く笑っていた。え、大丈夫なのかな…相手の人すごい怒ってた声だったけど。

「ねぇ、そんなことよりさ、おねーさん時間大丈夫?」
「えっ、…あ!やばい!!」

ポケットに手を突っ込みながら彼はスマホの画面を私に見せる。電子文字の時計は会社の出勤の10分前を表示していて、思わず自分の左手の腕時計を見ると針は同じく同時刻を指していた。
やばい完全に間に合わない。走っても確実に5分以上はかかるだろう。完全に遅刻だ。ほんの少しの期待を持って自分のスマホの画面を見ても時間は変わらず。詰んだ。上司にお叱りを受ける覚悟を持たなければ。
震える手で勤務先の電話番号を押す。まず電話も好きじゃないのにこういう嫌な報告の時なんか本当に死んだ方がマシだと思う。でも嘘なんてつけないし正直に寝坊だと伝えよう…。そう思っている時だった。

「ここから仕事場ってどんくらいかかるの?」
「え?えっと…バスで10分くらいだから…」
「ふーん。んじゃ走って5分か」
「えっ…」

私の声も届かず彼は何故かアキレス腱を伸ばしたり、今から50メートル走でもするのかという準備運動をし始めた。

「私、今から職場に連絡しなくちゃ…」
「あー、いいよ。たぶん間に合う」
「えっ」
「俺が引き止めちゃったせいで時間とらせちまったし、連れてくよ」
「えっ」
「ごめん、ちょっと失礼するね」
「えええ、まっ、」
「しっかり捕まってて」

言うやいなや、体が宙に浮いてまるで米俵を担ぐかのように、右肩に乗せられた。視線が地面に向いたまま風を感じる。ものすごいスピードで走り出したのだ。え、待って怖い早い何事なの。

「ちょ、ちょっと…まっ、こわ、」

声が出ないほどのスピードで。怖くて涙出そう。下ろしてと言わんばかりに彼の背中を叩いた。

「まっ、待って!待って!!お願い!!きゃぁぁ!!!!」
「い、いて!いて!」

バシバシと黒い学ランを掴んだり引っ張ったり叩いたりでやっと止まってくれた彼は、あんな速さで走っていたのに息一つ切れてない。え、けどほぼ1分も経たないうちに半分の距離来たんじゃないのかな。え、ほんとに怖い。何この子。

「どしたの?え、ごめん、嫌だった?」

涙目な私を見て眉を下げた男の子。そんな顔に怒る気もなくなるし、ほんと良心でやってくれてるんだと思える。

「…いや、ちょっと、びっくりして。あの、体制…怖くて…」
「あ、あー…」

少し考える素振りを見せた彼は、そういや釘崎達も女はこういう方がいいって言ってたな…なんてブツブツ顎に手を当てて呟いたあと、パッと前を向いた。

「悪い!やっぱ俺女の子の扱い分かんなくてさ、またデリカシーないとかどやされるな」
「…?わ、」
「こーやってやるんだっけ」

今度は膝下と脇に手を入れられて持ち上げられた。いや、この方が恥ずかしさで死にそう。
よっしゃ行くぜ!と私の気持ちも露知らず走り出した彼に、もうされるがままだった。たまに感じる浮遊感に、どこか飛び回ってるのかと思う。その度に心臓が飛び出そうで景色を見ることも無く目をぎゅっと閉じて無意識に彼の首に手を回していた。
でも何故だろう。密着する体から感じる逞しい筋肉と胸板にひどく安心した。

「はい、着いたよ」

ゆっくりと地面に下ろされて目を開けると見慣れた会社の前だった。時計を見ればまだ数分しか経ってない。え、間に合ったの…?すごくない?少し足元がふらついたけど、あとは走って社内に入ればギリギリ間に合う。
相変わらず息一つ切れずに私に早く行っておいでと笑顔で促す彼を見つめた。

「…本当にありがとう」
「いいって!ほら急いで!」
「う、うん!」
「あ!まっておねーさん!」
「?」

呼び止められて振り返ると、彼が軽く私に投げかけた。思わず慌ててキャッチすると、それはコンビニのビニール。中身はハンバーガーだった。

「朝飯食ってないっしょ。それあげるからちゃんと食べて!」
「え…?なんで知って…」
「またな!」


疑問点は多すぎるしお礼も言い足りないけれど遅刻したら彼の厚意が全部チャラになってしまうので、時間に追われてとにかく急いだ。

思いっきり頭を下げてビルに入ったあと、ガラスの自動ドア越しに手を振る彼に、私も右手を振ると、パッと明るくなって両手を広げた彼。大きな犬みたいで可愛くて笑ってしまった。上司にもギリギリだったけどお叱りはなくて、だけどセットした髪の毛がボサボサだった事は少し笑いながら指摘されて恥ずかしくて死ぬところだった。

厄祓いしようと思っていたけれど、きっとこれは私の運命的な出会いだと感じる。今日一日頭の中はあの男の子のことでいっぱいで、名前を聞くの忘れたからまた会えたらいいなと願うばかりだった。


・・・


好きだと思うことに時間はかからなかった。もう20歳も過ぎたいい大人が、未成年の高校生に恋をするなんて有り得ないと思ったけれど、思えば思うほど頭の中が1度会った彼ばかり占領したのだ。今日は珍しく何も無い時間も余裕ある朝で、出勤前に近くのコンビニへ立ち寄った。
新作の抹茶ラテが飲みたくて、他には買う予定がなかったけれど、ふと目に映ったのがハンバーガーだ。彼がくれた肉厚のハンバーガー。好きなのかな。今どきの男子高校生なら当然か。普通に美味しかったな。

自然と彼がくれたハンバーガーへと手を伸ばした。するともう1つ、骨ばった手が視界に入る。黒い裾から、赤い布が顔を出していて、反射的に視線を上げた。

「あ」

目が合うと、彼も驚いたように、けれどすぐにあの太陽のような笑顔を向けてくれた。

「おはよ!おねーさんもこれハマったの?」
「…え、と」

嬉しそうにハンバーガーを渡して来た彼に心臓が跳ねた。君がくれたからなんて言えない。

「あ!その抹茶ラテ!新作でしょ?俺も気になってたんだよね〜!」

距離感を感じさせないこのコミュ力はなんだろうか。だけど緊張している気持ちが解れて笑ってしまう。

「いる?」
「え?」

2人してレジに並んで、私が彼の分も払うと譲らなかった。

「いやいいって!本当に!」
「だめ!奢られて!」
「…おねーさん意外と頑固」


納得してないようだったけど、折れてくれたのでお会計を済ませてお店を出た。今日は時間に余裕もあるから歩いて会社へ行けるのだけれど、隣の男の子もこっちだと言って一緒に並んで向かうことになった。

「はい、これ安いけど…この前のお礼」
「まじで気にしないでいいのに!ほんと!」
「いいの!私があげたいから!」
「…じゃぁ、ありがたくいただきます」

彼の名は虎杖悠仁くんだと教えてもらった。いたどりゆうじくん。心の中で何度も呟く。名前まで愛おしいなんて思えるのだから恋って不思議だ。

「おねーさんは?」
「うぇ?!」
「あはは、うぇって」

虎杖くんの名前ばかり頭が支配していたので、突然隣から顔の前に虎杖くんが覗き込むのでびっくりして変な声が出た。
虎杖くんはけらけらと笑う。恥ずかしい。

「び、びっくりした、もう笑いすぎ」
「ごめんごめん。可愛くてさ、やばいツボった」
「か…!?も、もう虎杖くん!」
「まじで、すぐ顔赤くなるとこも可愛い」
「…か、からかいすぎだよ!!」

立ち止まって虎杖くんの制服を何度も引っ張った。大人をからかいすぎだ。私がどんな気持ちで真っ赤になって胸も顔もドキドキして苦しくなるほどに、爆発しそうなくらいなのを絶対分かってない。恥ずかしいだけじゃないんだ。ひどいひどい。学ランをペシペシ叩くと、ずっと笑っていた虎杖くんの動きがぴたっと止まった。

「…?虎杖くん?」
「……」

私よりずっと背の高い虎杖くんを見上げる。え、急に黙らないで。どうしたんだろう。虎杖くんの表情が見えない。右手で顔を隠すように覆っている。「虎杖くん?」もう一度名前を呼べば、「ちょ、ごめ、それやばいって」ぷるぷる震えるように何か呟いたけれど側を走る車のせいであまり聞こえなかった。
けれど、虎杖くんの切り揃えられた短髪の隙間から覗く耳が真っ赤になっていたのに気付いて思わずばっと離れた。私は何をやっていたんだ。恥ずかしい。

しばらくして、虎杖くんはいつものように、「行こっか」と笑いかけてくれたので私も頷く。

「私こそ…ごめんね、急に困ったよね」
「全然!…あー、まぁ俺の心臓の問題!気にしないで!」
「…?そう、なの…?」


心臓の問題って何だろう?病気?とかじゃないよね?気にしないでと言われたけれど気になって心配そうに見る私に、虎杖くんは一度、んー、と考える素振りをとった。


「じゃあさ、お詫びね、お詫び」
「え?う、うん。私にできることなら」
「おう。おねーさんにしかできねぇ」
「…?」


大きな足で私の前に立ち止まり、私より背の高い彼が、少し背をかがめて目線を合わせた。


「おねーさんの名前、教えて?」


虎杖くんの声しか聞こえない世界みたいだった。優しく笑った顔も、今まで感じたことの無い胸の高鳴りに息が止まりそうになって。
彼から目が離せなくなって。
呼吸も忘れそうになった頃、ふわりと風が私たちの肌を撫でた。両手を胸の前でギュッと握り、ゆっくりと息を吸った。


「…名字名前」


私の微かに震えた声もちゃんと届いたみたいで、虎杖くんは、「…名前さん」と呟いた。


「いい名前だね!」


自分の名前なんて今まで生きてきた中で何とも思ったこと無かったのに。彼にそう言われるだけで、こんなにも特別で自信があるものになるなんて。恋って単純で、そして尊いものだと実感した。


「虎杖くんはこの辺の学校なの?」
「いや、ここからちょっと離れて山奥にあるとこ」
「…この辺の山奥…」

そんなとこに学校はあっただろうか。私も就職からこの東京に来たので土地勘はまだ詳しくないけれど、虎杖くんが言うならそうなんだろう。
そして彼もまた、高校1年でつい最近仙台からこっちに編入してきたらしい。

「じゃぁ、こんな朝早くから起きて学校に通ってるの?」
「ん?あー、こっちに来たのは任務で…」
「任務?」
「いや!!!なんでもな、あ、あの、あれ!そのー…」
「お友達と忍者ごっこでもしてるの?」
「そ、そう!!朝からここに集合してさ!そっから学校いこうぜー!って!」

慌てて表情をコロコロ変える虎杖くんに思わず笑ってしまった。高校生になってもごっこ遊びができるなんて、まだまだ男の子なんだなぁ。

「ふふ、仲良しなんだね」
「…ま、まぁな!」

笑った私を見て、また照れたように右手を首の後ろに回して視線を逸らした。
虎杖くんなら、きっとたくさんお友達もいるだろう。誰からも好かれて、運動もできるから、女の子からもさぞ人気だろう。そしていつか、虎杖くんにも特別な人が…。そこまで思って気が付いた。虎杖くん、彼女いるんじゃないの?

「?どしたの?」
「……」
「…名前さん?」
「…虎杖くんは、彼女いないの?」

私からそんなこと言われると思ってなかったようで、驚いてしばらく時が止まった。

「い、いや、虎杖くんって、その、優しいし面白いし、モテるでしょ?だから、私みたいなおばさんと一緒にいるとことか見られたら困るんじゃ」
「いねーよ!!」
「…え?」
「いねぇよ!彼女!てか、俺モテないし!」
「う、うそだよ、絶対モテるもん!」
「モテねぇって!まぁ伏黒みたいなやつならなーって。俺の同級の女子にも公認だから!モテねぇだろって言われたくらいだし」
「そ、それはそれで…」
「いやまじ傷抉られたわ。あいつズバズバ言うからな。しかも初対面でさ」

一体どんな子なんだろう。虎杖くんの同級の子。それからモテるという伏黒くんという子。

「でも俺、モテなくても、好きな子から好きって想ってもらえる方が断然いい」

さらりと言ってのけた虎杖くんの言葉がとても胸に刺さった。本当に真っ直ぐな男の子だ。今どきの男子高校生って彼女彼女とかモテれば英雄的な見栄ばかり気にしているはずなのでは。どんどん虎杖くんに惹かれていくのが分かる。それと同時に、彼の特別になれる子が羨ましい。私にはきっと叶うはずのないものだと思わざるを得ない。

「虎杖くんなら、きっと好きな子にも振り向いてもらえるんじゃないかな」

笑えているか分からない。うまく、笑えていただろうか。私は大人だ。大人の対応をしなくちゃいけなくて。叶うならあと3歳ほど若返って同じ学校で同じクラスで彼と過ごしたかったなぁ。

「ほんと?振り向いてもらえるかな?すげぇ鈍感なんだけどさ」
「うん、大丈夫だよ」

「頑張ってね」の言葉を発する時は顔を見れなかった。気が付けばすでに会社の近くまで来ていて、虎杖くんにありがとうとお礼を言う。別れがたいな、次いつ会えるかも分からない。でもこれ以上仲良くなっても彼の恋路の邪魔かもしれない。このまま何も無くたまたま2回会ってお話するだけの関係で終わった方がいいのかもしれない。

「じゃぁね、虎杖くん」
「おう。あのさ、俺、頑張るよ」
「…うん、」
「だからさ、連絡先交換しよ」
「…え?」

はい、これ俺の。とスマホを取り出してメッセージアプリを開く。頑張るから私の連絡先がいるのだろうか。どういうことなんだろうか。相談に乗って欲しいとかなのかな。

正直胸が痛むけれど、このままさよならもできない弱い私はなるがまま連絡先を教えた。

「さんきゅ!また連絡するから!行ってらっしゃい!」
「…う、うん。虎杖くんも気を付けてね。行ってらっしゃい」
「あはは、行ってらっしゃいに行ってらっしゃいはおかしいじゃん!行ってきます!」
「ふふ、そうだね。私も行ってきます」

彼の笑顔はいつも釣られてしまうな。また手を振って私が見えなくなるまで外で待っている。恋だのなんだの考えてしまったけれど、メッセージアプリに増えた彼の名前に心臓がふわふわと温かくなる。単純な私はお友達に入った虎杖悠仁のアイコンをタップしてお気に入りの星マークを付けた。お仕事頑張ろう。

「名字さん、おはよう」
「あ、先輩、おはようございます」
「今日は少し早いんだね。いつもはあと10分後に来てるのに」
「目が覚めてしまって。運動がてらに歩いてきました」
「…へぇ。名字さんは運動しなくても可愛いよ」
「あ、ありがとうございます」

3階のオフィスに向かう途中、いつも良くしてくれる先輩に出会った。彼は仕事も優秀でおまけにルックスも完璧。上司も部下からも信頼されている非の打ち所のない人だ。何もかも平凡な私にもよく話しかけてくれる。けれど生きる土俵がこの先同じになることは無い人だ。私が持っているスマホを背の高い彼は横目で覗き込んで、虎杖くんのお気に入り画面を見ていたらしい。
何も無かった日常が動き始めた瞬間だ。



HOMEtop next
ALICE+