「…どうかしました?」
「え…?」
お客さんが帰った後のテーブルを片付けカウンターに戻ってくると、手元の携帯を握りしめたまま、何か思いつめた表情をする女性がいた。私の問いかけにハッとしたその人は、纏ってる雰囲気的にはあまり良くないと思う。不安と困苦、後悔が入り混じったようなその人は、長い時間心ここに在らずだったのだろう。目の前に置かれたコーヒーがすっかり冷めていた。
「珈琲、淹れ直しましょうかね」
「いえ!いいんです!」
「そんなこと言わずに。あったかい方が落ち着きますから。ね?」
彼女の前にあった珈琲を下げると、小さく、すみません、と呟いた。何をそんなに申し訳なさそうにしているのかは分からないけれど、私を見る瞳は揺れている。泣きたいのに泣けない、そんな思いが見て取れた。顔にかかった長い髪を耳にかけた彼女は、新しく淹れられた珈琲に口をつける。
「何か悩み事ですか?」
「え?」
「人には言えないものを抱えてるように見えて」
「…」
「あ、触れられたくないことだったらごめんなさい。ちょっと気になっちゃっただけで深い意味はないんです」
「いえ…そんなに顔に出てましたか?」
「職業柄、人の表情には敏感で…しかも美人さんが眉間にシワを寄せてたので余計に心配しちゃった」
よいしょ、とカウンターの奥から出てきて彼女の隣へ腰を下ろす。ビクッと警戒されたけどそれはそれ。甘いものが好きかと尋ねると頷いたので、賄いで作ったプチガトーショコラをサービスで出してみた。甘いものと珈琲を食べてだいぶ落ち着いたのか、その人はポツリと口を開く。
「駄目ですね、私…初めてあった方にもバレちゃうくらい自信がなくて」
「…」
「やらないといけないことがあるんです。でもそれは世間では絶対推奨されないことで…」
「…それはどうしてもやらないと駄目なことですか?」
「はい。私自身と何よりも妹の為に、絶対成功しないと駄目なんです」
ぎゅっとスカートを握りしめる拳も、彼女の心の中にある意志も随分固いようだ。それだけ、これから起こす行動に命を懸けているのかもしれない。握られた手を上からそっと握る。彼女の今にも折れそうなこの細腕に、どれだけのものが抱え込まれているかは知らない。世間から後ろ指を指されるようなことをしなければならないほど、切羽詰まった状況にあるらしい。
「…誰かに手伝ってもらうことは?」
「そんなの駄目です!絶対、私がやり遂げなきゃ…それに助けてくれる人のアテもなくて」
「…貴女が思っている以上に、貴女に協力してくれる人はいると思いますよ?」
私もその1人です、と言えば目を丸くされた。そりゃそうか。初めてあった、しかも素性もよく分からない人間にこんな事を言われても困るだけだ。ここはただの珈琲専門店であり、慈善事業なんてものは全くしていない。でも彼女のあんな表情を見たら協力してあげたいと思ってしまう。
「どうしてそう思ってくれるんですか?」
「折角お店に来てくれたんですから、常連さんになって欲しいじゃないですか」
「…ふふっ。店長さんは優しい人なんですね」
「優しくないですよ〜私のただの自己満足です」
「それでも嬉しいです。私、何だか安心しちゃった」
「ん?」
「見ず知らずの私を心配してくれる店長さんのお陰ですね」
そう言って笑った彼女は、幾分か表情が和らいでいた。何がきっかけかは分からないけれど、肩の荷が少しでも降りたのならこのお店に来てくれた甲斐があるというもの。
「無理は禁物です。これでも私、色んな人と知り合いなので是非頼ってくださいね」
「はい、そうします」
彼女は一度目尻を抑えて、よし!と意気込んだ。まるで泣くのは今日が最後だと言わんばかりでやっぱり心配になる。この日はこれでお別れとなったけど、数日後にまた来店してくれた。ここで悩んでいたことなんて嘘みたいに、これから戦場に向かうようなキリッとした表情をしている。その顔を見て、胸騒ぎを覚えた。目的地は分からないけれど、彼女は行くつもりだ。モカを注文した彼女は珈琲のカップを受け取る代わりに小さな紙袋を差し出す。中を見ると小さな箱と数枚のMDカセットが入っていた。
「これは?」
「この前のお礼も兼ねて、店長さんに預かっていて欲しいんです」
「…やらないといけないこと、やるんですね」
「はい、絶対取りに来ます。今度は妹も連れて…そしたらまた、美味しい珈琲をお願いしますね」
「じゃあ約束しましょう。はい、小指を出して!」
「小指?」
頭にはてなを浮かべながらおずおずと出された小指に、自分の小指を絡める。所謂指切りげんまん。彼女の思いが成就することと、また笑顔が見れること、その二つを指に込めた。指切った、と指切りを終えた後の、恥ずかしそうな照れ笑いを目に焼き付ける。
「最後に一つだけいい?」
「はい。店長さんにはお世話になりましたから」
「やだな、まだ2回目なのにそんな大したことしてませんよ〜貴女のお名前を聞いても?」
「…雅美です。広田雅美」
一瞬だけ唇を噛んで視線を彷徨わせた後、そう名乗った。きっと本名じゃないんだと思う。本名を言うか言わないかを迷って、結局でて来たのは偽名。やらなければならない何かをやり遂げるまで、本名は言えないのかもしれない。
「じゃあ雅美ちゃん、行ってらっしゃい」
「…っはい!」
カランカラン、と穏やかなベルを鳴らして彼女は外の世界に一歩踏み出す。嫌な予感はしたけれど雅美ちゃんを止める術を私は持たない。何となくエプロンから携帯を取り出して、繋がらないであろうアドレスにメールを打った。もしかしたら、油井さんなら何となしてくれるかもしれない、そんな願いも似た思いを込めて。送信バタンを押した数秒後、エラーメッセージが届く。やっぱりダメか。落胆とともに吐き出された溜息が、誰もいない店の中に木霊した。