漏れる酸素

その人が来たのは、バケツをひっくり返したような雨が降る夕暮れだった。最後のお客様を送り出した時はすごく綺麗な夕焼けだったのだけど、掃除や仕込みをしているうちに一転してしまったらしい。気付けば軒先は雨のカーテンが流れていた。出しっ放しの外看板を取り込まなければと扉を開けた時、流れる雨を眺めるように窓に背を向けて立つ女の人がいた。

「あ…」

薄いパステルカラーのカーディガンを羽織り、同じような色のピンヒール。スッとした立ち姿はそれだけで彼女という人間の存在を主張する。雨を見つめる表情は大きなつばのあるおしゃれな帽子とサングラスでよく分からないけれど、襟足から伸びる緩やかなウェーブの髪は眩しいくらいのブロンドだった。二色になったカーディガンは見るからに重たそう。私に気付いたその人は、再び雨の中走りだそうとしたので、慌ててその細い手を掴む。驚いた美人さんの顔を見てちょっぴり後悔。私そんなに英語得意じゃなかった。

「えーと…May l help you?」

「開けてくれるの?」

「オフコース!あ、日本語…!」

「ふふ。可愛い発音ね」

拙い中学英語にペラペラの日本語で返した美人さんは、悪戯にその艶めいた唇に色を乗せた。あ、やばい。同性の私でも惚れそうだ。

「あら、有難う」

乾いたハンドタオルを手渡すと、帽子を取り髪から滴る水を優しく拭いている。髪が揺れるたび、香水だろうか。瑞々しい花の蜜のように甘い匂いが香った。その姿でさえ洗練されていて、訳もなくドキドキする。寒くないようにと空調を冷風から暖房に変え、ちょうど湧いたお湯でブレンドコーヒーを淹れ、彼女の前においた。ふわりと、香ばしさと爽やかな酸味が立ち昇る。

「お姉さん凄く美人さんなのでサービスです」

「いい香り。貴女が選んだの?」

「はい。これでもバリスタなんです。色んなコーヒー豆を揃えてるので、もしお気に入りの豆があればそれで淹れることも可能ですよ〜」

ここぞとばかりに営業する私を、その人は目を細めて見ていた。手作りのカラメルクッキーをコーヒー請けをつけると、それも美味しいと言ってくれたし、お店も静かでいいところだと褒められて、初めての人にも自分のお店が認められたみたいでとても嬉しくなる。

「それにしても日本語お上手ですね。日本長いんですか?」

「ええ。今はこっちで仕事してるの」

「わ〜貿易関係か何かですか?」

「知りたい?」

「あ、お嫌でなければ!私は勝手に女優だと思ってます」

「…どうしてそう思ったのかしら?」

「雰囲気ですかね…何かこう、隠しきれない女優感があるというか」

見ただけで普通の人とは言い難い美貌と知的な表情。行動の一つ一つが、人を魅せることを計算されたような気さえする。あとは私の希望である。彼女がカウンターに座るだけで平凡な喫茶店が、映画のワンシーンに出てくるようなセレブリティなものに早変わりした。できればこの瞬間をカメラに収めたい。そう正直に話すと、彼女はその大きな目を見開いた後、声を出して笑う。目尻に溜まった涙を細く白魚のような指が拭った。

「面白い子…私、貴女みたいな子、好きよ」

「口説いてます?本気にしちゃいますよ!そんなお姉さんにもう一杯サービスしちゃう」

「煽てに弱いと騙されやすいから気をつけなさい」

笑いながら諌められてしまった。こんな私の心配をしてくれるなんて、お姉さんもすごくいい人ですね、というと、そうかしらと怪しく微笑まれる。そんな姿も素敵です。

「本当は悪い組織の人間かもしれないわよ」

「お姉さんが?まさかぁ!このお店に来てくれる人は皆いい人ですよ。お姉さんも例外じゃありません」

「…」

「それに正義と一緒で、いい人って立場によると思うんです。誰かにとってはいい人でも、立場が違えばそうとは言えない。人間ってそんなもんです」

「…やっぱり貴女、変わってるわ」

「それほどでも」

お代わりいります?とドリップポットを持ち上げると、お願いするわ、とカップを戻してくれた。好きな豆はクリスタルマウンテンらしい。最高級品と言われるあの豆を知ってるとはお目が高い。丁度入荷したものがあったので淹れてあげると、小さな店にあることを驚いていた。

「コーヒー界の白ワインって評されることもあるみたいですよ」

「知ってるわ。甘みと深みがあって美味しいの。きっと貴女の淹れ方もいいのね」

お姉さんは持ち上げ上手だ。それから雨が上がるまで互いの好きなコーヒー話に花が咲いていたのだが、お姉さんが持つ携帯が震えたことで楽しい時間は終わりとなった。迎えが来たようだ。お店の前に白い車が止まっている。車種はわからないけど、立派な車だった。どこぞの企業の女社長だったりして。

「じゃあね、可愛い店長さん」

「是非また来てくださいね!あ、お名前だけでも…私、依って言います」

お姉さんは名乗るつもりはないようだったけど、駄目元で聞いてみた。振り向いたお姉さんは立てた人差し指を唇に当て、目元を緩ませる。その姿は色香満ちていた。表現しきれない妖艶さに自分の語彙力がログアウト。

「…secret makes a woman woman」

「ふえ?」

「次に来た時に教えてあげる。また会いましょう、依」

颯爽と扉を開ける。高山に咲く花の香りとクリスタルマウンテンの香りを残して、その人は去って行った。置き忘れていたお帽子を丁重にお店で管理していたのだけど、それが態と置いて行かれたものだということと、彼女の正体が現在絶賛休業中のハリウッド女優だということを後日知ることになる。いやあ、世の中って狭いね!