世に言う愛妻弁当なるものをまさか自分が作るとは思わなかった。それもそのはずである。だってこの世界に生まれてこの方、結婚なんて考えもしなかったし、そんな予兆すらなかったのだ。それなのに私はこうして、憧れの結婚指輪を左手に嵌めて、最早日課となったお弁当作りに勤しんでいる。二段のお弁当箱の下段にご飯、上段におかずを詰めていると、愛しの旦那さんが欠伸をしながら寝室から出てきた。
「おー…朝飯より豪華だな」
「夜まで持たせないとだしね。陣平さん、朝あんまり食べないから尚更だよ」
「なまえの朝飯になってからは結構食うけどな」
後ろから私の手元を覗き込んだ陣平さんが、ひょいっと卵焼きを摘んで口に入れた。こらこら、態々お弁当箱から取らないでよ。うめえ、と言いながら私の頭をぐしゃぐしゃにしだ陣平さんは、二人分の食器を持ってリビングへ消えていく。さりげないくらいイケメンが仕事をしているのに、私の表情筋は仕事を放棄したようだ。にやけ顔が止まらない。因みに甘すぎず、しっかりと出汁を聞かせている卵焼きは、実は陣平さんのお気に入りだったりする。どんなに朝が忙しくても、卵焼きだけは必ず食べてくれるのだ。私の得意料理でもあるから尚のこと嬉しい。ニヤニヤしながら、お弁当箱に残りの副菜とメインを詰めて陣平さんの背中を追った。
「そんなに豪勢にしなくたっていいっての」
主食、主菜、副菜2品が所狭し詰められたお弁当箱。言われるほど豪勢ではないんだけど、彩りもバランスも良いそれは、私にとっては普通なんだけど今時珍しいようで、何処ぞのお弁当屋さん買ったんだと聞かれるくらい、彼の職場では評判がいいらしい。萩原さんにまで作ってくれと頼まれたので、お弁当屋さん開こうかなと言ったら陣平さんに真顔で止めろと怒られた。機嫌も悪くなったので二度と言わないけど、俺だけ食ってればいいと拗ねられた時は、本気でキュン死にするかと思った。
「豪勢にしてるつもりないんだけどな…それに警察なんて身体資本なんだからバランス良く食べないと!結婚してから松田さん太ったね、なんて言われたくない!」
「俺だって言われたくねぇわ。つか太ってねーし」
「食生活の乱れが体の乱れって言うじゃん。ちりつもで体重も積もらせた陣平さんはちょっとね」
「へえ?そう言うなまえもケーキばっか食ってねぇで体重に気をつけな」
「乙女はいいんだよ」
「誰が乙女だ、誰が」
しれっと否定された。酷い。それから他愛もない話をしながら朝ごはんを食べつつ、今日の互いの予定を確認する。陣平さんは結婚と同時に巡査部長へ昇進したし、一個隊を任されるくらい偉くなったんだから部下との飲み会はそれなりにあるはずだけど、新婚の時期が過ぎても何故か直帰が多い。少しくらい遊んでもいいのに。今日も今日とてまっすぐ家に帰ってくると言った彼に、訝しげな視線を送ってしまった。
「…何でそんなに不満そうなんだよ」
「いや、なんて言うか…陣平さん、萩原さん以外に友達いないのかなって」
「あ?」
「ひっ!ちょ、本気で睨まないでよ!だって飲み会とかしないでいつも帰ってくるから…飲みニケーションとかしないの?」
「飲みニケーションねえ…それが許されるのは一般企業だけだな。俺たちは緊急の呼び出しくらう事もある」
「成る程」
「…飲みに行って欲しいのか?」
「え?全然。帰ってきてくれて私は嬉しいよ。でもほら、世間的に付き合いが悪いなって思われたらやだなーって思って」
真っ直ぐ帰ってきてくれることについては大変嬉しい。でももしそれが誘いを断っているのだとしたら、陣平さんにも彼と飲みたがっている後輩にも申し訳ない。というか態々私をお店まで迎えに来なくてもいいのになあ。もぐもぐと白米を咀嚼しながらちらっと見上げる。陣平さんは目の前の食事に集中してた。おい、聞けよ。
「あ、今日キリマンジャロでいい?お店の残ってた豆なんだけど」
「おー」
「タンブラーで用意しとくね」
「なまえと結婚して良かったのはお前の珈琲が店に行かなくても毎朝飲めることだな」
「待って待って!他にも色々あるでしょ!」
「…飯?」
「疑問形だなんて酷い」
ムッとしてみたら鼻で笑われた。さらに酷い。まあ他に何があるかと聞かれたら私も勿論困るけれども。そもそも何で陣平さんが私を選んでくれたのか未だに分からない部分もある。多分可能性の1つとしては珈琲による胃の鷲掴み。あと勢い。此方としてはイケメンだし将来有望な優良物件を手に入れたわけで、散々由美さんと美和子さん、女子高生3人組にやんややんやと揶揄われた。その気持ちも分かるけどもう少し祝福してくれてもいいんじゃないかなと思ったのは秘密だ。そんなことを思ってる間に食べ終わった松田さんはご馳走様と手を合わせるとさっさと食器を下げて寝室に引っ込んだ。相変わらず早いなあ。時計を見ればそろそろ出勤の時間であるのて、私ものんびりはしていられない。粗熱が取れたお弁当を包んで、キリマンジャロを淹れたタンブラーを、いつも持っていくランチバッグにセットした。彼が忘れないように、玄関のシューズボックスの上に置いておく。
「お弁当いつものとこに置いといたよ」
「サンキュー」
「今日早い?」
「あー…上に捕まらなければな」
「ん、おっけー」
会話をしながら支度をする陣平さんに背広と鞄を渡す。途中まで乗ってくかと聞かれたけれど、首を横に振っておいた。嬉しいお誘いだけどさっきご飯食べたばかりだし、バイクに揺られてリバースするのは避けたい。お店も今日はお昼だけ開くので、それまでは家のことをやらないと。というか遠回りする時間ないでしょ。さっき電話取ってたの知ってるんだからね。ヘルメットを持った彼をいつも通り玄関まで見送れば何故かじっと見下ろされた。もの言いたげな瞳に首をかしげる。言われなくてもちゃんと戸締りするから安心していいよ。
「…」
「何?どうかした?」
ちょいちょいと手招きされたので素直に近寄った途端、後頭部をがしりと掴まれた。その先に何が待ち受けてるのかは今までも何度か仕掛けられたことがあるので知ってるけど、毎回不意打ちすぎる。私の心臓を引っ掻き回して楽しいかい?本当に聞いたら絶対即答で肯定されるので聞かないけれども。
「んう…!」
「…ごちそー様」
「…っ!だからいつも言ってるけど…!」
「言ったら逃げるだろ。大体許可もらってするもんでもねぇしな」
じゃあ行ってくる、その言葉と怒りやら恥ずかしさで赤くなった私を残して愛しの旦那様は出勤して行った。本当に不意打ちはやめて欲しい。せめて心の準備くらいさせて欲しいものである。そもそも禁煙してると口寂しくなるというのも本当かどうか怪しいわけで、それが本当だからってキスを了承するかと言われたらそうでもないけどね。これ以上口寂しくなるなら電子煙草でも買ってあげたほうがいいのだろうか。熱い顔を両手で冷やしながらぐるぐると考える。きっと陣平さんは知らない。閉じられた鉄の扉の向こうで私がこうやって恥ずかしさに悶えてつつ、急になくなる温もりに寂しさを感じていること。触れると離れがたくなるんだから、そこら辺の乙女心を分かって欲しいものである。こんなこと言ったら調子に乗るのが目に見えてるから、絶対本人には言ってあげないけど。
「…って、お弁当忘れてるし」
ポツンと置いていかれたランチバッグ。大事なお弁当を忘れるくらい、彼も一応緊張していたと思っていいのだろうか。多分ないけどね。写メって忘れてることを知らせると、数分後に届けて欲しいと連絡が入った。仕方ないなあ。序でに萩原さんへ珈琲の差し入れをしてあげよう。お昼頃に届けると返信をして、洗濯機を回すためにバスルームへと足を向けた。お弁当を届けた先で何故か機動隊のメンバーから熱い歓迎を受けることを、この時の私はまだ知らない。
「…やべ。弁当忘れた」
「なまえちゃんに届けてもられば?ついでに俺の珈琲も持ってくるようによろしく言っといて」
「言わねぇよ」
「おーい、皆〜!松田の可愛い奥さんが昼来るから楽しみにしとけー!」
「マジっすか!」
「てめっ!萩原ふざけんな!」
「減るもんじゃねーしいいじゃん、見せびらかせば」
「お前だけが楽しんでるのが腹立つんだよ」
「俺は毎日腹立ってるっての。リア充爆発しろ」
title by プラム