剣の英雄


叶えたい願いがあるならば手を伸ばさなければ届かないことを、ヴァージニア・グルシスは理解していた。

夕暮れの朱に染まる講堂の中に佇み、その手に握った本の通りにチョークで描いた紋章を改めて確認する。
紋章――否、魔法陣。
こんな子供のようなもので本当に英雄とやらを呼び出せるのか、そもそもが自分に素質があるのか、このふざけた戦争へ挑む権利を有しているのか。
考えた所で答えなどでないから、ヴァージニアは一切迷うことがなかった。

長い黒髪は後頭部で結い上げられて揺れ、濃い紫の瞳はまっすぐに陣の中央を見据えていた。
年齢は18歳、背丈は148cm。 比較対象が無くても分かるほどに小柄であり、その顔立ちもまだ幼さを多分に残していた。
けれど、瞳に宿る決意は揺らぐことがなく、ヴァージニアを実際の年齢以上に成熟した存在に錯覚させた。

「閉じよ 閉じよ 閉じよ 閉じよ 閉じよ。 繰り返すつどに五度。 ただ、満たされる刻を破却する」

時刻は夕暮れ、黄昏時。
逢魔ヶ刻、などという言葉を異邦人のヴァージニアは知りえない。
揺れる影は彼女の動きに合わせるよりも激しく、空間の中でさざめく。

「――――セット」

チョークで描いただけの魔法陣に宿るのは光。
鋼の鋭さ、そして見る者総てを焼き尽くさんばかりの光輝にヴァージニアの喉がひりついた。
一体何者がくるというのか、予想のつかない怖気を刹那に飲み込む。

「――――告げる。
 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ

 誓いを此処に。
 我は常世総ての善と成る者、
 我は常世総ての悪を敷く者。

 汝三大の言霊を纏う七天、
 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――――!」

輝きはまさしく恒星の如く、講堂の中を光が焼き付くす。
熱を伴うはずなどないというのに、その光に召喚者であるはずのヴァージニアの姿さえ眩みかけ、けれど、小さくはあれど少女の影は決して消えない。
強すぎる輝きに穴を空けたかのように確かに少女の影は焼き付けられた。
そして、光の中から現れた男は静かに唇を開いた。

「――問おう、貴君が俺のマスターか」

ヴァージニアは迷うということをしない。
迷うことを無駄だと斬り捨てて、突き進んできたからだ。
だが、この瞬間、彼女は確かに一瞬の迷いを隠せなかった。

目前に佇むのは黒い外套と、見たこともない軍服らしきものに身を包む厳しい表情の男だ。
背丈はヴァージニアに比して頭2つは違うだろう。
腰に携えた七振りの剣は確かに彼が剣のサーヴァントであることを保証している。
そして何よりも、あらゆる悪を断罪せんと雄弁に語る青い瞳が鮮烈だった。
彼は間違いなく英雄である。 ――それも最悪に部類される類の。

けれど、その猛毒を飲み干すことをヴァージニアは迷いはしても、躊躇いなどしなかった。

「そうだ。 私はヴァージニア・グルシス。 アルビオンを祖に持つ巨人の末裔にして英国貴族、そして今は……ただの学生だ」

最後に、ほんの僅か肩をすくめて自分の手のひらを広げ、チョーク以外に何も持っていないことを示した。
目前の男はヴァージニアを見つめてから、静かに頷くと同時に口を開いた。

「心得た。 今後、戦いが終わるまでの間、貴君を我が主と定めることに異論はない」
「ありがたい。 私も貴方の意見を尊重しよう、なるべく」

最後になるべく、と言ったのはヴァージニアにすれば誠実さを示すためだったが、目前の男にはどうやら真逆に映ったのか、眉間に皺が寄った。
だが、それに気分を害するつもりもなく、ヴァージニアはチョークを紙箱にしまうと講堂の片隅に置いておいた自分のスクールバッグを取りに向かった。

「一つ確認しておきたい。 グルシス、貴君は聖杯へ何を願う」
「祖国救済」

問いかけに対して、ヴァージニアの返答はごく短く、その問を予想していたとばかり口調で答えた。

「私はこれでも国が大切でな、というか……そうだな、有り体に言えば、民が大切だ」

打ち解けるにはこちらの手の内をまず明かさなければなるまい、と判断してしまえばヴァージニアの口は軽かった。
総てを詳らかにするつもりはないが、嘘にならない範囲で動機を伝えておく程度はいいかとヴァージニアが目を向けると、相変わらず講堂の真ん中に佇んでいた男は穴が開くほどに真剣な眼差しを向けていた。
自分で主と定めておきながら、こちらに悪を見出せば今にも殺しに来そうな視線であり、自然とヴァージニアは苦笑をこぼしていた。

「信じられないか」
「いや、嘘はないだろう」

それはそうだ、とヴァージニアはひとりごちた。
少なくとも嘘はない、民を大切に想う気持ちに偽りなど微塵もない。
何故ならそれはグルシス家の家訓でさえあり、何よりも支配者として隷属するものらを愛するのは当たり前だと教え込まれている。
だからこそ、この眼前の男をして偽りを見出すことはできなかった。

「だが、それが第一の理由であるとは思えん。 そして、年齢で判断するわけではないが、貴君は未だ成人していない年頃だろう。 その年代の、まして女が戦場へと身を投じる決意の根底が義務感とは思えん」

なるほど、この男はそれなりに軍事的な物の見方をするらしい。
となれば階級は少なくとも佐官以上か、などと考えていたが、ヴァージニアは率直に言葉を返した。

「私の決意など然したるものでもない、ということだ。 そっちは……ああ、名前をまだ聞いていなかったけれど、なんと呼べばいい?」
「俺の名はクリストファー・ヴァルゼライド。
 アドラー帝国第37代総統……俺の願いはただ一つ、アドラーへと繁栄を齎すため、聖戦を成就させる」

言葉に、瞳に、その意思に一切の迷いなし。
鋼の意思を明らかにするヴァルゼライドは正しく英雄というに相応しい雄々しさを示していた。
共にこの空間にあれるということ、彼を仲間にできるという心強さ、それらは間違いなく幻想の英雄に劣ることのないものであり、理想的な姿と言えるだろう。
だからこそ、ヴァージニアはその輝きを見据えたまま、心は静かだった。
自分が最初に抱いた猛毒、という感想が一切間違いなく、寧ろ手緩いものだったと実感したのだ。

この男は美しすぎる。
人間は誰だって美しいものが好きで、そうありたいと願って、その輝きへと向かっていく。
英雄となる器ならばそれは良いだろう、素晴らしい理想を胸に、志を貫いて生きられるのだから。
けれど、世の中の大多数の人間はそんな風に生きられないということをヴァージニアは理解している。
何よりも、自分という惨めな負け犬がこうして虚勢を張っているのがその良い例だとさえ思っていた。

理想は、何よりも激しく自分を責め苛んで殺しにかかってくる。
ましてや戦場の英雄など、勲を求めた凡人を肉塊に変えるだけの徒花だろう。

けれど、そんなことは顔には愚か気配にさえ出さず、ヴァージニアは笑って見せた。

「互いの願いが叶うことを祈ろう。 少なくとも、真っ向勝負でなら貴方に勝てる英雄はまずいないだろうから」

勝利を確信などしない。
けれど、敗北を有り得ないと断じさせる英雄の隣を歩き、ヴァージニアは講堂の扉を抜けて、西日に染まる校舎のコンクリート床の上に革靴の音を響かせた。

「優しい未来を願おう」

口元に笑みはないけれど、ヴァージニアの声は穏やかだった。
小さなマスターの背を見据えたまま、ヴァルゼライドは今しばらく、彼女に剣を預けることを決め、その後へと続いた。


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