コーヒーカップの奥底に

「お待たせしました」

 決まり文句と同時にテーブルの上に運ばれてきたコーヒーからふわりといい香りが漂う。コーヒーにはわりとこだわりが強いほうだがここのものは格段に香りがいい。種類も豊富だし加えて少し外れた場所にあるせいか店内はいつも騒がしくなく、かといってガラガラなわけでもないちょうどいい静けさだった。定年退職した、人の好いおじいさんが趣味ではじめた小さな店だから、というものあるかもしれない。趣味に時間を多く使えるというのはやはり心が豊かになるしそれは実際形になって現れる。と、俺は思っている。そんな理由をいくつか並べてみたが要はこの店は俺のお気に入りという話で、仕事の息抜きに最近よく通わせてもらっていた。

「……これは?」

 コーヒーの隣に置かれた小皿に乗せられているクッキーを見て、運んできた店員に訊ねる。クッキーを頼んだ覚えはないが間違えて持ってきたという雰囲気でもない。すると彼女はちらりとカウンターの方を見てからこちらに微笑みかける。

「いつもご贔屓にしてくださってありがとうございますと、店長から」

 そう言われてカウンターのほうに視線を投げるとにっこりという表現がよく似合うマスターの笑顔が待っていた。この席からだと少し距離があるので代わりに店員のほうに感謝の意を伝えれば、どことなく彼の面影のある笑みを返される。
 マスターのお孫さんだという大学生ぐらいの彼女とも毎回ではないが幾度も顔を合わせているためすっかり顔馴染みだ。何度か言葉を交わしたこともあるがどうやら彼女は‘俺’のことを知らないらしい。祖父の手伝いとはいえ仕事中だからと割り切っているのかもしれないが、ターゲット層である女性からあまりにも無反応なのはプロデューサーとしては少し気になるところではある。俺個人としては、このゆったりとした時間を気兼ねなく過ごせるからいいのだが。

「そう言えば、音楽とかに興味は?」

 あまりにも唐突すぎた振りに彼女は目をパチパチと瞬かせる。仕事中ならまだスイッチが入っているからマシなのだがプライベートだとどうしても間を見誤ってしまうことが多い。人付き合いが苦手なことの一因でもあるから気にはしているのだが世の中ままならないことばかりだ。

「……まあ、人並みですかね」

 俺の問いに少し間をあけて答えた彼女から一瞬迷いのようなものを感じた。その理由を俺は察することは出来ないが反応を見るにあまり触れられたくない話題だったのだろうか。もしそうだとしたら申し訳ないことをしてしまったがどうフォローすればいいのかもわからない。取りあえず気まずくなる前に何か言葉を返さなければと口を開きかけるがそれよりも先に彼女が言葉を続ける。

「お客様は、音楽がお好きなんですか?」
「ああ。寧ろ音楽がないと生きていけないな」

 彼女の問いに思わず即答すると、彼女は僅かに目を見開きやがてくすくすと笑い声を漏らした。何かおかしなことを**と思ったが確かに普通はそこまでの表現はしないなとすぐ思い当たる。つい眉間に皺を寄せてしまうと俺が気を悪くしたと勘違いしたのか彼女は慌てた様子で訂正をいれてきた。

「すみません、馬鹿にしたわけではないんです。……ただ、凄く素敵だなって」

 お世辞やその場凌ぎの言葉なら気を遣わなくていいと言おうかと思ったが不思議とそんな気はしなかったので素直にありがとうとだけ短く伝える。それに対し彼女は本当のことを言っただけですからとはにかんだ。

「お仕事、頑張ってくださいね。応援してます」

 彼女が付け加えたのは何気ない言葉のはずなのに妙な引っかかりを覚える。その疑問をぶつけようと言葉を選ぶ隙も与えられず、それではごゆっくりと軽く頭を下げ彼女は奥へと引っ込んでしまう。その引っかかりをなんとか外したいとは思ったが彼女を呼び止められる理由が今の俺には思い付かず、ただいつも通り美味いコーヒーに口をつけることしか出来なかった。