毒とナイフの監獄



 気づけばぼろぼろと泣いていた。
 彼の前でだけは、絶対に泣きたくなんてなかったのに。ずっと、我慢していたのに。

「翼くんの、ばかあ……」

 バカなのは他ならぬ自分自身だってことは分かっている。これは、ただの八つ当たりだ。
 でも、苦しくてかなしくて、誰よりも大好きで──こわい。

「もう、翼くんと一緒にいるの、やだあ……」

 大人げなく泣きじゃくったところで何も変わらないのに。寧ろ呆れられて状況は悪くなるだけ──いや、本当はそれを望んでいるのかもしれない。
 目の前にいる私の恋人は、完璧な人だ。少し子供っぽいところもあるけれどそこがまた可愛くて。一見軽薄そうに見えて凄く努力家で真っ直ぐで面倒見もいい。加えて、華やかで人目を惹く容姿。私とは、全く釣り合わない。

「それは、名前ちゃんの本音?」

 突然わけも分からず泣き出した私に、彼は問う。意味がわからない状況だろうにそれでも彼は優しい声音で。ああ、余計に自分が惨めに思える。でももう、我慢の限界なんだ。
 はじめは、こんなに好きになるだなんて思っていなかった。ここまで惚れ込んでしまうなんて想像もつかなかった。
 でも、この人のことを好きだなあって思ってから、過ぎていく時間はあっという間で。彼のことを知れば知るほど、どんどん好きになって。気づけば、彼のことを考えていない時なんてないほど私は彼に染まっていた。だから。
 もうこれ以上、好きになりたくない。

「ごめん、なさい……」

 彼は──奥井翼は、誰か一人のものにはならない。なれない。そんなことは十分に理解して付き合い始めたはずだった。
 彼が甘い言葉を囁くのは私だけじゃない。彼が優しいキスをするのは私だけじゃない。わかっていた、はずだった。
 でも私が彼を知る度に、好きになるほどに、まるで私だけが彼のことを好きでいる気がしてこわかった。いつ繋がれた手を離されてしまうか、会うたびに不安だった。彼が私に笑いかける度に、私はどんどん自信をなくしていった。

「どうして、そんなに辛そうに謝るの?」

 問いに答えず謝る私に、翼くんは眉を下げて悲しげに笑う。そんな顔が見たい訳じゃないのに、その顔は私のせいで。もう、どうしたらいいのかすらわからなかった。
 いっそのこと、自分のほうから別れたいと言い出せればいいのに。辛いなら苦しいなら彼から離れたいなら、それが一番手っ取り早いとわかってはいるのだ。

「翼、くん」
「だめ」

 翼くんは強い口調で私の言葉を遮る。その先を予測して、絶対に言わせないとでも言いたげに。私もまだ言う決心がついていなかった、その言葉を。彼は、言うことすら許してくれない。

「だめ。やだ。だって俺は君のことが好きだし、君も俺のことが好きでしょ?」

 一緒にいるのが嫌だと言った恋人に何故そんなことが言えるのか。それを私が口にする前に、目がそうだと訴えてるからだと彼は答えた。目は口ほどにものを言う、だなんて誰が言い出したのだろう。
 それを即座に否定できればまだ良かったのに、つい何も言えずに黙りこんでしまった私を彼は思いきり抱きしめた。彼の匂いを思いきり吸い込んでしまって、ぎゅうっと胸が締め付けられる。くるしいのに、いとしい。逃げたいのに、うれしい。

「そのままずーっと、俺のことだけ見ててよ」

 私を抱きしめたまま彼は耳元で囁く。ダイレクトに鼓膜を震わせる彼の言葉に更に嗚咽がこみ上げた。
 いやだよ、こわいよ。でもどうしようもなく、好きで。だから。
 上手に言葉に出来ないのに、まるで彼は全部知ってると言うように、いとも簡単に「俺もだから大丈夫」だなんて宥めてくる。そんなこと、今まで私には言ってくれなかったくせに。それに加えて、ごめんね、なんて。私が勝手に泣き出しただけなのに。彼は聡いから、全部わかってしまったのだ。

「よそ見なんかしないで。不安になったらいつでもすがっていいから。寧ろ本望だから」

 好きだよと何度も何度も彼は繰り返す。様々な気持ちを込めたその四文字は、まるで毒のようだ。もう嫌だと泣きだしてしまうほど強く思ったのに、麻痺してしまったかのようにそんな気持ちが溶けていく。代わりにどうしようもなく好きだという気持ちだけが象られていって、脈がどんどんはやくなる。
 またいつか、同じ理由で泣き出してしまう未来がくることは簡単に予想できるのに。我ながらどうしようもなく単純で、愚かな女だ。
 でもきっと、そんな女を好きだと抱き締めるこの人も、思っているよりバカなのかもしれない。なんて。口にしたら怒ってくれるだろうか。

「だから、」

 さっき言おうとしてた言葉は一生言わせないし、俺も言わないから安心して。


 そう囁く彼の顔は分からないけれど、とびきり甘いナイフのような声だった。