「……ろお!くろお!」


 インターホンを連打していると思ったら、次の瞬間にはカードキーを差し込み勢いよく玄関ドアを開ける音。自分を呼ぶ大きな声が響く。苦笑しながら、出迎えようとキッチンから続くリビングに向かったはいいけれど、既に声の主は騒音としか思えない音を立てて廊下を駆け抜け、目の前のドアを蹴破るようにして部屋へと入ってくるところだった。


「おかえり、木兎」


「くろお!ただいま!腹減った!」


 毎度のことながら騒がしい。中学生ともなればもう少し落ち着いてくるものではないのだろうか。幼い自分がどうだったのかは思い出せないけれど、特段育て方を間違ったとも思わない。ただこの子は、父親にそれはよく似ているだけなのだ。母親からも受け継いでいるはずの遺伝子は、目を凝らして探さなければ埋もれてしまうほどに。見た目が生き写しだとか瓜二つというわけではない。ただ、まばゆいまでの光が、それはよく似ているだけなのだ。


「もうすぐできるから手え洗ってこい。あ、あと」


「うがいも忘れんなよ!だろ?わかってる!なあ、今日のメシ何?俺はねー、今日はねー、に…」


「毎日肉ばっか食ってたら頭悪くなるぞ。今日はなあ、何と!……野菜の肉巻き。ついでに洗濯するやつ出しておけよ」


 床に放られたエナメルのスポーツバッグを指さして、中のユニフォームやタオルを脱衣カゴに入れるよう告げる。やっぱり肉だ!と瞳を輝かせながら黒尾に纏わりつく木兎が、前後の言葉をきちんと聞いたのかは怪しいところだ。キッチンに戻ろうとする黒尾の背中に力いっぱい抱きつくと、昔よりも少し長くなった襟足にぐりぐり額を擦りつける。木兎はここ一年ほどで随分と背が伸びた。来年には高校生なのだけど、自分の身長に迫る日も近いのではなかろうか。けれど一切の後先も考えず勢いと気持ちのままに甘えてくるその中身は、引き取った頃の小さな光太郎と何ら変わることはなくて。


「今日はさあ、すげえ調子よかったの!たぶん黒尾のブロックぶち抜けた」


「そりゃよかったな。けど野菜も食えねえ光太郎クンにはまだ負ける気ねえよ。ほら、早く手洗ってこい」


「野菜くらい食えるからな!」


 腹に回された手をぺちんと叩き、それから宥めるみたいに撫でてやると、渋々離れた木兎は洗面所へと足を向けた。つい今しがた言ったはずの洗濯物云々については三歩も歩かぬうちに忘れたのか、本当に聞いていなかったのか、バッグには目もくれない。


「……おい!何か忘れてねえか?」


 自分の好きなもの、ことバレーにおける木兎の集中力は目を見張るものがあって、たまに付き合う練習でも、見に行った試合でもそれは遺憾なく発揮されていた。けれどその驚きの集中力は、残念なことに極めて局所的。将来を期待してしまうほどの力も、一旦切れてしまうとその軌道修正はおいそれとはいかない。そして局所的と言うだけあって、同時にあれもこれもと器用にはできないらしく、ひたすら突っ走る木兎に手を焼くこともままあった。けれど元来やればできる子なのだ。落ちこぼれた言い訳のような、使い古されてさえいる言葉が妙にしっくりくる。決して落ちこぼれという意味ではなくて、その気になれば木兎は本当に何でもできるのだ。その気になりさえすれば。


「忘れてた!」


 開け放ったドアはそのままに、そしてどうしてかまたもバッグには目もくれず、キッチンの黒尾のもとに駆けてくる。いや、忘れているのは洗濯物なのだけども。


「てつろー、おかえり!今日も仕事お疲れさん」


 子供らしい満面の笑みで、けれど大人びたやわらかな瞳で、よしよしと黒尾の頭を撫でる木兎。どうやらこれが木兎の思い当たった忘れ物らしい。黒尾の意図するところではないにしても、確かに毎日されていることなので忘れ物には違いなかった。しばしきょとんと間抜けな顔を晒したあと、呆れる気にもならず声を上げて笑う。


「ただいま、ぼくと」


 すっかり大きくなった手のひらに、胸の中までやわやわと撫でられているみたいだった。つと腹の底からせり上がる甘い疼きに肌が粟立つ。



 滔々と溢れるさみしさも、鋭く爪を立てる哀しみも、いつまでも和らぐことなくここにあり続けるものだと思っていた。まさか痛みを与えた張本人の忘れ形見に、傷を塞がれる日がこようとは。

 けれど、この胸のあたたかさと喜びに名前をつけることは、決して、許されないのだ。






 


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