花巻貴大はヤリチンビッチである。

 校内でそう囁かれるようになったのはいつの頃からか。囁かれると言うより、本人を前にしても当たり前に揶揄されるのだけど。ただ、悪ノリのネタとしては受けがいいことこの上ない。なので敢えて否定はせずに今日まできた。だがしかし、皆少しは疑問を持て、ヤリチンとビッチを同列に扱うことのおかしさに。花巻貴大、童貞、そして処女。ついでに言えば、色々と夢の見すぎで高校三年にしてファーストキスすらまだな化石っぷり。そこでふと考えてみれば、バレー部の面子にはなかなか粒揃いのキャッチフレーズと言うか煽り文句と言うか、およそ爽やかさの欠片もない人物評価が横行していた。主に三年レギュラー部員。

 及川はヤリチン大王。これは普段の行いを鑑みれば致し方ない。
 松川はムッツリドS調教師。または熟女キラー。これも見た目を鑑みれば致し方ない。
 岩泉は……意外にもそこまで酷いものはないかもしれない。亭主関白母ちゃんだとかバイオレンスゴリラだとか、及川が言い出しっぺなのが丸わかりなものばかりで。けれどこれも何だかんだ言いながら、及川の世話を自ら一手に引き受けていることを鑑みれば致し方ない。

 なるほど。仕方がないのか。危うく納得しかけたけれど、問題はそこではないのだ。花巻は噂や冗談には悪ノリする質で、イメージを覆す努力などするはずもなく、妙な期待に全力で応えてしまう。今まではそれでよかった。くだらないことで腹を抱えて笑うのは楽しくてたまらなかったから。誰にどう思われようと構わなかった。そう、今までは。


「花巻、帰るぞー」


 松川の声に、はたと我に返る。ユニフォームをぞんざいにスポーツバッグへと詰め込み、大きな音を立ててロッカーの扉を閉めると、足早にその後を追った。


「なあ、今日うち来ない?親、兄貴のとこ行ってていないんだけど」


「いぃっ!……きますっ」


「何で敬語なんだよ」


 何故か裏返る声。ふはっと少し眉を下げて笑う松川に鼓動が跳ねる。普段の飄々とした食えない笑みではなくて、慈しむみたいにやわらかなそれ。なのにとろりと色を含んだあまいそれ。特別なのだと言われている気がして、途端に嬉しいのか恥ずかしいのかやるせないのかわからなくなった。薄暗い帰り道でもきっとわかる、赤くなっているであろう頬が熱い。


「夕飯はベタにカレー作ってるって。デザート買って帰ろうか」


 もちろんシュークリームね。……何なんだ、これは。甘すぎる。以前から花巻には甘かったように思うし、面倒なことだろうが何だろうが仕方ないなと言っていつも付き合ってくれていたのだけど。だけども。何なんだ、これは!

 ヤリチンビッチの栄誉ある称号が地に落ちるほどに、そんなもの落ちて踏まれて捨てられても一向に構わないのだけれど、花巻は恋愛に関してひどく臆病であり奥手であった。相手の心に今一つ踏み込めないし、自分の深いところにも触れてほしくなくて。にもかかわらず夢みる乙女みたいなおかしな理想だけは山とある。

 先日松川に付き合おうと言われた。いつもの何気ない会話の途中で投げ込まれた爆弾は、花巻の全てを吹き飛ばすほどの威力で。『好きなんだ。花巻もたぶん俺のことが好きだから付き合おう』と。頷いた。どうしてだかわからないけれどあっさり頷いてしまった。ノリでもネタでもない、あのあまい笑みを捧げられたからなのかもしれない。誰でもは見ることの叶わないだろうそれが欲しいと思った。あまり大きく崩れることのない表情の下にあるものを見たいと思った。愛されたいと、思った。


「あのコンビニのシュークリーム、こないだ新作出てたんだよね。どっちも買ってくから!」


「じゃあ、新作一口ちょうだい」


「小さい一口な」


「小さくな」


 内緒話をするみたいに顔を近付けてくすくす笑う、いつものことといえば確かにそうなのだけど。松川が変わったのか自分が変わったのかはわからない。ただ、どうしようもなく世界が輝いて見えた。学生ゆえまだ決して広いとは言えない世界の、それでも今の自分には限りなく無限に見える世界の、その色も表情も。気付かされた想いは随分と心地よく胸をたゆたう。松川も花巻もきっと変わったのではなくて、ひとつ、互いに踏み込んで、ひとつ、互いの深いところの何かに触れただけなのだ。


「松川は甘やかすタイプだったんだな」


 松川家のすぐ近くにあるコンビニの明かりが見えてきた。新作デザートに出会えるまであと少し。前から散々甘やかされてきた自覚はあるけれど、今の松川はそれとはまた違う甘ったるさを存分に含んでいて、シュークリームのふわふわとろとろに身体を包まれているみたいで、そのやわさに頬が面映ゆく緩む。


「そう?結構放任かと思ってた。花巻だからじゃない?」


「そういうことをさあ、サラッと言うなよ!ドS調教師なの?!やっぱりそうなの?!俺が照れて狼狽えるとこ見て笑うんだろ!」


「照れてるの?けど、どんな俺も花巻だけが知ってればよくない?俺だって知ってるよ、お前がヤリチンビッチどころかキスもしたことないお姫さまってこと」


 嗚呼、いま世界は桃色だ。この髪の色など及びもつかないほどに桃色だ。嫣然たる笑みを見せる松川に、何故かふるりとほんの少しだけ身体が震えたのだけど、今はそんなことに構っていられるか。自分をわかってもらえた喜びに貫かれ、わかりすぎている羞恥に揺さぶられながら、ぐいと松川の腕を掴み駆け出した。愛しのシュークリームは、すぐそこだ。







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