松川一静はドS調教師である。
噂がそこに至った経緯や理由などは知らないけれども。花巻に対する悪ノリと偏見に満ちあふれたヤリチンビッチの称号よりは、よほど現実味があるのではなかろうか。いや、繰り返そう、松川がそう言われる所以は知らないし、それ以前に調教師が何をするのかなんて知らないけれども。
「旨い!やっぱ新作最高。これCMまでしてたもんな。とうとうシュークリームがスイーツの王様になる日がきたんだよ」
にまにましながら新作シュークリームにかぶりつく。シュー生地とカスタードクリームに力を入れて開発したらしいそれは、パリ、サク、ふわ、とろん、うまー、だ。我ながら何と的確な表現。そのまんまを松川に伝えてやると、目を細めて薄い唇が小さく笑った。すごく旨そうだね、と。じいっと見つめられると身の置き場に困るというか、何とはなしに照れるというか。松川はとてもよく人を見ているから。鋭い観察眼を持つ及川とはまた違うのだけど、その眼差しは静やかで深い。見つめ返せばこちらが呑まれてしまうみたいな、底の見えない黒に撫でさすられるみたいな、胸がざわつく艶かしさがあった。
「……っ、なに。そんな見られると食べづらいんだけど。あ、松川も食べたい?約束だからちょびっとなら食べていいよ。すげえ旨いから。でもちょっとだけだからな!」
コンビニでお目当てのシュークリームを買って、松川の母さんが作ってくれていたカレーを食べて、松川の部屋で至福のデザートタイム。散らかってはいないけれど、要不要に関わらず様々な物が鎮座する花巻の部屋とは対照的な、松川のプライベート空間。飾り気がなく、何より生活感もあまりなかった。ただ机上に並んでいる教科書や参考書の類いが、たまに逆さまになっているのが松川らしい。
持ち主の許可もなく、どくどくと高まる一方の動悸の意味がわからなかった。それを誤魔化すみたいにつらつら言葉を並べて、食べかけのシュークリームを松川へと突き出す。
「ありがと。小さい一口、だったよね」
伸ばした手首を掴まれて、そこにやわらかく笑む松川の顔が近づいて。シュークリームを持つ指を、はむ、唇で挟んで触れてから、舌がべろりとカスタードクリームを掬い離れてゆく。
目が離せなかった。何から、とは、もちろんすぐ側にいる松川から、なのだけれど。指に触れた思いの外あたたかくてやわらかい唇からも、淡い黄身色のカスタードクリームを纏った赤い舌からも、それをこくりと飲み下して上下する喉仏からも。どうしてか精神的疲労が半端ではない。何をされたわけでもないし、ただ見ているだけだ。なのに全力疾走した後みたいなこの心臓のやかましさは一体。しかも相当に乱れている。これはもはや不整脈の域で、痛いほど。
「ほんとだ。旨いね」
ちょっと待て、待ってくれ。花巻は暴れ馬の如く跳ねる鼓動を御することなどできるはずもなく、目元を仄かに赤く染め戦慄いた。松川は自分をどうしようというのか。穏やかでやさしい瞳を前に、一種恐怖にも似た危うい感情が湧き上がった。けれどその全てを引っくるめて愛おしいのだから大概終わっている。誰彼には見せないだろう顔、眼差し。シンプルが過ぎる部屋を見てもわかる執着心のなさ。そんな松川にひたすら甘やかな瞳を向けられる喜び。
過去に幾度か彼女ができたと聞いたことがあるのだけど、そのときお気に入りの玩具を取り上げられたみたいに、もやもやムカムカした自分の話はこの際さして重要ではない。それよりも付き合っていようがいまいが、松川の生活が何ひとつ変わらないことに驚かされたのだ。バレーと仲間、それに花巻。一緒にいるときに目の前でスマホが着信やメール受信を告げても、花巻を放って返事を返すことはひと度もなかった。あるとき、彼女とは会ってんの?ほんの少しだけ意地の悪いことを聞いてみれば、んー、時間があればねと心底どうでもよさそうな声で答えが返ってきて、何故か密かに喜んでしまったのは花巻だけの秘密。そうこうしていると決まってこっぴどく振られる。当然と言えば当然の帰結。別れて落ち込む素振りもなかった。なので松川とは恋人に対して、極めてドライなタイプかと思っていたのだけれど。
「……ま、つかわってさ、前の彼女にもそんなだったの?」
気を落ち着けるべくシュークリームを頬張った。歓喜するほどの美味しさがわからなくなったのは松川のせいに決まっている。ちくしょう。
「そんなって?」
そんなっていったらそんなだよと言いたかったけれど、ゆるく首を傾げる松川にはどうやら伝わっていないみたいだ。
「や…そのさ、何かさ、すげえ見てるだろ、俺のこと」
いくら歴代彼女たちと付き合っている形跡が見られなかったからといっても、女の子と二人でいるときはどうだったのたろうか。こうして相手のことを今の自分にするみたいに見ていたのかと思うと、あのときと同じもやもやムカムカが再燃しそうだった。けれど松川は、ただ目を眇めて笑っている。
「そりゃあね、俺だって好きな子のことはずっと見てたいからね。花巻は嫌だった?」
彼女たちは付き合ってくれって言うから付き合っただけだよ、と。暗に好きなのはお前だけだと言われている気がして言葉に詰まる。無理矢理全て押し込んだシュークリームを、ごくりと音を立てて飲み込んだ。
「っ、嫌なわけないだろ。ちょっと…恥ずかしい、だけだから!」
「よかった」
近づいてくる松川の顔が甘ったるくて、それはきっとシュークリーム以上。基準がシュークリームかよと自分に突っ込みたいけれど、どちらもたまらなく好きなのだから仕方がない。ベッドを背にして座っている花巻に、後ずさるという逃げ道は端からなかった。吐息が触れるほど近くなった松川を、無様に震える手のひらが押しとどめる。
「待て、まって!」
「好きな子は見てたいし、触りたいんだよね。花巻は違うの?」
先ほどから問いかけが卑怯なのだけども。逃げ道をなくして追い詰められているのは、何も身体だけではなかった。松川の吐息が頬を撫でる。
「ちっ!がわないけど!けど…恋人って言ったらまずは手を繋いだりさ……」
そんなことかと松川を押さえている手を取られて、きゅっと互いの指が絡まった。重なる手のひらと絡まる指があたたかい。
「手、繋いだね」
「っ!いや、ほら!あとは二人だけの呼び方で名前呼んだり、デートしたりして……」
いっそ少女漫画だ。言っている本人が何より恥ずかしくて、声が尻すぼみになってゆく。
「はな」
「……?」
「はな。まつって言って?一静でもいいけどまだ恥ずかしいでしょ、花は」
「っ!!」
死ぬ。たぶん死ぬ。松川に殺される。過去に羞恥で死んだ人間がいるのかは知らないけれど、いま確実にここにひとりいる。
「言って、はな」
「…………ま、つ」
唇からほろりと音がまろび出た。喜びに揺れる胸が恨めしい。
「二人だけの呼び方、したね」
「……デート、したり…」
もう何を言っても勝てる気がしなかった。普段のおしゃべり花巻クンはどこへ行ってしまったのだ。握っていないほうの手に頬をつうっと撫でられる。そうして親指の腹が唇を辿った。あ、クリームがついてるような。
「いまデート、してるね」
先ほど指に触れた松川の薄い唇と。子供みたいにほんのりカスタードクリームをつけた花巻の唇の。
「んっ……ん…」
距離が、ゼロになる。初めて触れた松川の唇は、驚くほどやわくて心地がよかった。松川も自分のくちびるでそう思ってくれていたらいいなと、霞みゆく頭の片隅で気持ちの悪いことを考える。
「はな、気持ちがいいね」
「……んんっ、まつ…っ」
ちゅ、だとか、ちゅう、だとか。軽くて、けれどやわらかいもの同士が触れる、少しだけ濡れた音が鼓膜を揺らす。指にしたみたいにはむはむと下唇を食まれて、絡めた指先にきゅっと力を込めた。握り返されるその強さに胸までをも締め付けられる。けれどそれは得もいわれぬ心地よい苦しみで。ちっとも辛くなどない。もっと、もっと、欲しくなった。
「ちゅー、したね」
松川一静はドS調教師である。
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