自分のこころの在処がわからない。嬉しいだとか悲しいだとか、悔しさや怒り、愛しさすらもわからない。ヒトがヒトとしてあるべく、誰もが享受しているだろう感情やその機微が、自分にはわからないのだ。大海にぽたりとひとしずく水を垂らした程度には、何かを感じることがあるのだけれど。その輪郭はひどく曖昧で、どう感じたのか反芻するいとまもなく、感情とおぼしき思いは霧散してゆく。それでも自分は生きている。どうしてだか生きている。この無味の世界で。不幸せだと思うに至るまでの感情が湧かぬまま、これからも色のない世界で生きてゆくだけ、ただ漠然とそう思っていた。




「で。月島蛍サン。あんた名義の残債、これどうすんの」


「…………」


「可哀想になあ。女に騙されて逃げられたんだって?しっかりしてそうな顔して何でそんなことしちゃったの」


「…………」


 高利貸しを生業とする街金融とは思えない、洒落たオフィスと見紛うほどの小綺麗な事務所にて。一対の黒い革張りのソファに座らされた月島と、その向かいに座る二人の男。何も言わない月島に、目の前の男たちは多少の同情を含んだ声音で話しかけた。こちとら商売だから貸すけどなと苦笑いもしている。金貸しに良い会社も悪い会社もないはずで、違いと言えば金利が法に則っているか否かくらいなものだろう。それに前提として月島は別に騙されたとは思っていなかった。相手は騙そうとしたのだろうけれど、当の月島自身が端からその恋人らしき女を信じてなどいなかったのだから。ならば何故金を貸したのか。貸した金が返ってこなくても構わない、ただ滔々と続く己の味も色もない世界が終わろうとも構わない、理由はこのふたつに尽きる。父親の仕事の都合で大学生の月島を一人残し、海外へと渡った家族に迷惑がかからないのであれば。ヒトには到底理解のできない理由であった。

 都市伝説なのか事実なのか、よく聞く臓器を売られる、風俗に沈められる、死亡保険を掛けて殺される、非人道的な返済方法。そのどれを選ばれても一向に構わなかった。息をしているだけの己に何の感慨も抱くことができないのだから仕方がない。だから大学で一方的に口説かれて、恋人然として付きまとっていた女が泣きついてきたとき、別にいいけどと能面みたいな顔で呟いた。金が必要な理由も涙ながらに何やら言っていたのだけれど、月島にとっては理由などどうでもよくて。言われるままに幾つかの街金で金を借り、そのままそれを渡した。最終的には一ヶ所にまとめたほうが利息も安いからと、いま連れて来られている会社からそれなりの額を借りたのだ。そうして女は大学から姿を消した。消したも何も、そもそもその女が同じ大学の学生であったのかどうかすら月島は知らない。特に知りたくもなかった。そう、月島からすれば恋人や友人がどうであろうと、果ては己の生殺与奪権を誰に渡そうとも、何ら困ることなどなかったのである。自発的に生きたいとも死にたいとも思えない、それは果たして不幸なことなのだろうか。いまの月島にはわかろうはずがなかった。


「……学生なのでまとめて返済することは不可能です。そちらのお好きなように僕を処理して下さい」


 アンバーの瞳には何も映してはいない。恐らく何処かの組の構成員だろう男たちを前にしても、揺らぎのひとつも見せなかった。


「処理かあ。あんた肝が据わってんな」


 正面に座る年配の男は、面白いと声を上げて笑う。彼が煙草を咥えると、隣の幾分若い男が慣れた手つきでそれに火をつけた。ふうっと吐き出された白い煙が頭上をたゆたう。


「……別に。自分の先行きに興味がないだけですから」


「あんたが女子大生ならいくらでも稼ぎ口があるんだがなあ」


 どうもここは高利貸しにしては良心的らしく、妙に穏やかな空気を漂わせていた。問答無用で取り立てられると思っていたのだけれど、苦い顔で煙草を吸う男は、じっと何かを考えているようだ。大きなガラスの灰皿に煙草を押し付け、火を消した先から再び新しいものを咥える。隣の男が先ほどと同じようにすっと火を寄越した。つと部屋の奥から別の若い男が現れ、煙草男ではなく点火男へと手にした電話を渡す。相手の名前を聞いた途端、彼の眉間に皺が刻まれた。


「……どうも、室井さん。うちにご連絡とは珍しいですね」


 点火男の口から室井の名が出ると、煙草男までもが更に難しい顔になる。


「……はい、ええ、ちょうど今……はい…はい……それは困りましたね。いえ、うちとしても…はい」


 点火男が煙草男に会釈をしてソファから立ち上がった。そのまま相槌を打ちながら奥へと消える。煙草男は灰皿に煙草を捩じ込み、間髪を入れず新しいものを咥えると、今度は自らそれに火をつけた。


「……あんた、タチの悪い女に引っ掛かったな。そんないい女だったのか?」


「……別に。どうでもよかったので。それより早く僕の処分を決めて下さい」


「まあ待て。室井が喚き出したら面倒なんだよ。あんた本当に沈むぞ」


「構いません」


 いまだって深く沈んでいる。彩なす世界の目映さもぬくもりも感じない。興味もなかった。ここで生き永らえる尊さなどわからないのだから。

 ひとつ、ため息と共に煙を吐き出した煙草男は点火男の戻りを待つつもりらしく、それきり口を閉ざし、ただ煙草を吸うだけだった。何がしかの問題が起こったのだということはわかるけれど、月島は気にする素振りも見せない。待てと言うのなら黙って待つだけだ。長いまつ毛に彩られたアンバーの瞳をそっと閉じる。山もなければ谷もない、かといって穏やかに凪いでいるわけでもない、棺桶に横たわる死装束を纏うヒトであったモノと、いまの自分はどこが違うのか。そうこうするうち、月島はすうっと後ろ頭から落ちてゆくみたいに、浅い眠りへと意識を明け渡した。






 


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