「………………」


「なあに、お前ケーキ食ったことねえの?」


 目の前のテーブルには丸くて白くて甘い匂いのする大きなホールケーキが乗っている。その真白の円の上にはたくさんのイチゴ。遥か遠い記憶を辿れば、幼い頃に見たような食べたような。味など覚えてはいないのだけれど。まだ家族が月島を喜ばせようと、笑わせようと、手を尽くしていた時分。靄がかかったみたいに当時の記憶は曖昧で、ただ、今よりは笑いもしたし感情を表に出すこともあったように思う。ならばいつからこうなってしまったのだろうか。今の月島は無我というほど出来た人間ではなくて、どちらかといえば虚無。己には、なにも、ない。色も音も。そう、なにも、ないのだ。


「研磨が気に入ってる店のだから旨いぞ。何なら全部食え。お前はもう少し肉つけねえと折れそうで怖え」


 月島の隣に座っているのはテーブルに肘をついてこちらを見つめる黒尾、その向かいに夜久と研磨。研磨は視線を目の前のアップルパイにのみ定め、黙々とそれを食している。黒尾のもとに連れて来られてから数日が過ぎたけれど、研磨は何も話しかけてはこなかった。ただ黙って同じ空間にいるだけで。視線は数回ぶつかった。猫みたいなくるくるとした瞳がじいっと月島を見ていて、目が合えばすっと逸らされる、それをここ数日何度か繰り返している。夜久は黒尾と同じタイプなのか、黒尾よりは断然真面目でまともなようだけども、何かにつけて話を振ってきて。今までのこと、これからのこと。ぽつりぽつりと他人事みたいに答える月島を、研磨より更に大きなまなこが真摯に見つめていた。何だかんだ言っても夜久は面倒見がいいのだろう、月島がどう答えようともまずはそれを受け入れるのだ。こんな自分などの話を。不思議なひとたちだなと思った。

 そうして極めつきは黒尾鉄朗という男。ここを統べるひとらしいのだけれど、まず軽い。それによく喋り、よく笑う。人を揶揄しては笑い、煽っては笑い。この数日だけでも、どれだけ夜久が青筋を立てて怒鳴ったか知れないくらいに。なのに、その瞳はどこまでも昏く深い。ふとした瞬間に底のない黒に呑まれるみたいな、己の全てを根こそぎ持っていかれるみたいな、今までにひと度も味わったことのない畏怖にも似た感覚にぞわりと背が震えた。この身や命がどうなろうと何の興味もないし、ましてや他人に関心などあるはずもないのだけど、どうしてか黒尾に対してだけは初めから何かが違う気がしてならない。眼差しから逃れたい、逃れられない、捕らえられたい、いつもより余計に自分がわからなかった。

 夜久が切り分けたケーキを皿に乗せ、紅茶と共に甘い匂いのそれを月島の前へと差し出す。黙ってフォークを手にし、ふわふわとしたスポンジに突き刺してみた。そうして小さく切られた欠片を口へと運ぶ。目の前に置かれたものは自分が食べるべきもの、この数日で月島が学んだこと。


「…………」


「旨いだろ?」


「……はい」


 ふわり、とろりと咥内でほどけるそれは、驚くほどに甘くて優しい。はぁ、思わずこぼれた吐息に黒尾がふっと笑みを返した。また、だ。ひとしずく。たった、ひとしずく。そのぽたりと落ちたしずくの波紋は小さくて弱くて、蒼くもない暗い大海にあっという間に呑まれるはずなのに。わからない。こわい。あたたかい。もっとほしい。だけれどやっぱりわからない。


「これはツッキー、お前に買ってきたんだから好きなときに食えよ。明日はすげえフルーツ乗ってんのを買ってくるから」


「いくら食ってもいいけど飯食う腹は残しとけよ。馬鹿の言うことは聞かなくていいから。研磨、お前もだ。飯を食え、飯」


「……夕飯よりこっちがいい……」


 研磨がもそりとアップルパイを頬張りながら、上目遣いで月島を見やる。研磨と初めての意志疎通。つられるみたいにこくりと頷くと夜久が大きなため息をついた。相も変わらず黒尾は目を眇め笑っている。このそわそわとしてしまうぬくさとやわさは何なのか。わからぬことだらけで戸惑う月島は、視線を俯かせ黒尾みたいにあまいケーキにそうっとフォークを入れた。

 琥珀の瞳をしばたたかせながら、白鴉の雛が最初に見たものは。






 


prev|next
ALICE+