「……っ、んっ」
麝香の香りを深く肺に吸い込みながら及川のやわい唇に触れる。自分のそれがどうなのかは知らないけれど、岩泉は及川の唇に触れるのが好きだった。同様に岩ちゃんの唇はやわっこいねと、及川はいつも嬉しそうに笑う。こんなときばかり子供みたいな笑みを見せるのはどういう了見だ。檻の面子曰くの気持ちの悪いらしい笑い顔とは違う、同じ人間かと問いたくなるほどのいとけなさ。うっかり可愛いなどと思ってしまう自分にどうしてか腹が立つ。及川の笑みには楽しくて嬉しくて顔を綻ばせるのだという、本来の意味合いだけではない想いが多分に含まれているから質が悪いのだ。けれどそのわかりにくい及川の機微を全てはわからなくとも、誰よりも深く理解できるのは自分だという自負はあった。及川の色素の薄い瞳の向こう、岩泉はそこに己の世界を見ているのだから。
「ん……気持ち、い?」
「ふ、ぁ……っ」
及川がナカの深くて熱いところを抉るときみたいな、甘く掠れた声音で囁いた。岩泉から仕掛けたはずなのに、不本意ながらも心地よさに溺れてゆく。はむ、問いに答える代わりに下唇を食んでやった。薄暗い部屋で銀色の吊り香炉が鈍い輝きを放っている。ゆらゆらとたゆたう煙は、ひとりでに染み入る毒みたいで。この香と及川の匂いが混じったもの以上に安心できる香りは他に知らない。これ以上に欲を煽られる香りもそう。くだらない汚れ仕事など放り出したくなるのだけれど。
「……んんっ、は、おい」
じんと下腹に馴染みのある怠さを感じる。このまま及川の咥内を貪り、唾液を啜り、締めたネクタイを引き抜いてやりたかった。そうして今とは反対に自分が畳に転がされて、艶かしさに彩られた捕食者の笑みで喰いかかる及川の熱を受け止めたかった。ただの被食者に成り下がる気など些かもないのだけれど。白い肌に力一杯歯を立て、背に爪で赤い線を引き、過ぎた快感に及川の柳眉がきゅっとしかめられるまで締め付けてやるのだ。ぽたりと落ちる及川の汗すらこの身で呑んで。それ以上に乱される己の痴態はこの際無視をする。はあ、互いの唇が微かに触れるほどの間合いで熱のこもった息をひとつ吐き、及川の柔らかなそれをぺろりと舐めた。
「……今日は、3秒、だ。遊ぶなよ、いい子だから」
「いい子にしてたらご褒美くれるの?デートしていちゃいちゃしてまんこぐちゃぐちゃにするよ」
榛色が僅かに眇められ、幼く見えた笑顔はあっという間にコドモからオトナの甘いそれへと様変わりをする。そうしてかぷり、お返しとばかりに上唇を噛まれ、何もないはずの腹がじんわり熱を持った。褒美とは一体どちらに対するものなのか、存外欲しがりな自分がおかしくて岩泉はふうっと吐息で笑みをこぼす。触れたいのは岩泉とて同じこと。
「……我が儘なやつだな、お前は。あと服は汚すなよ、お前が遊ぶと後がきたねえ」
「んー、ご褒美のためなら頑張ってもいいかな。実際時間もあんまないんだよね」
「だったらぐずぐずこもってんじゃねえよ」
ちゅ、ちゅる、啄むみたいに繰り返す口づけの合間、交わす言葉は普段通りなのだけれど。滲む甘さ。触れる柔さ。纏う艶かしさ。それらはただただ互いの劣情を煽ってゆく。
「珍しく岩ちゃんが甘えただから行きますか」
「誰がいつ甘えたんだよ」
ぐっと腹筋を使った及川が起き上がり、上に乗る岩泉をぎゅうっと抱き締めた。首もとに鼻を擦りつけて甘えているのは及川なのだけれど、聡いこの男には岩泉の発する小さなサインなどとうにお見通しなわけで。わかってもらえた喜び、隠せていない悔しさ、バレてしまった恥ずかしさ、それらがない交ぜになった結果岩泉の眉間には皺が寄るのだ。ふわり、及川の匂いが肺を満たす。同時に満たされるのは心というものなのだろうか。それを朝な夕な感じていたいと思う自分は、大層欲深いのかもしれない。
「遊んでも服汚してもダメなんだったら俺の出る幕なくない?」
「だから俺一人でもいいっつったべ。行くなら隣で黙ってろ」
「やだ岩ちゃん男前、抱いたげる」
「ばーか、そこは抱いて、だろうが」
「おれが、おまえを、抱くんだよ」
耳朶のすぐ下にぎりりと歯を立てられる。きっとついているだろう歯形を今度は労るみたいにぺろりと舐めて。仕上げとばかりに吸い付かれ、慣れたちくりとした痛みに咲くのは紅い花。もう見なくともわかる所有の証は、紛うことなき及川の独占欲そのものだった。この美しく愛おしい男に執着される悦びに代わるものは、この世にひとつとしてありはしない。
「……っ、行くぞ」
「はあい」
鼻歌混じりの及川を蹴飛ばしながら家を出たのは、そのすぐ後のこと。
「……おい、このくそが、俺はさっき何て言ったよ、ああ?!」
「ちょっと!痛いから!もう黙って」
及川はちらりと時計を見ながら舌打ちをすると、やにわに岩泉を肩に担いだ。大きな米俵を担ぐみたいに。当然岩泉は暴れるし文句も言うのだけど、及川に聞く耳があるようには見えなかった。そう体格の変わらない岩泉を軽々担いだまま歩を進めてゆく。
仕事場というか現場というか、指定された場所に到着してからの岩泉の行動は早かった。見覚えのある自分の組の者を視線だけで確認すると、それ以外に対し手にした愛銃FN Five-seveNをまず一発。振り向くいとますら与えられなかった一人が、弾かれるみたいに地に伏した。地面にじわりと広がる赤黒い染みに、掃除は誰がするのだろうといつも思う。そうしてあれほど持って行くなと言い含めた日本刀を手にした及川が顔を覗かせたときにもう一発。これで二人沈んだ。緊迫感の欠片もない及川が、やっほーだか何だか言っている間に三人目。組の者の様子からして既に聞き出す情報もないのだろう、ならば即片付けるに限る。そもそも自分たちを呼びつける前に始末してしまえばいいものを、彼らの愚鈍さが岩泉にはどうにも我慢ならなかった。流れ弾を理由にやってしまおうかなどと、よからぬことすら考える。
「もう!岩ちゃんてば早すぎ」
「……だから三秒」
「早漏だなっ」
へらり、だらしなく笑った及川がすっと岩泉を追い越した。所構わず香る及川の匂いに、胸がどきりとひとつ音を立てる。己も同様の匂いを漂わせているなど、鈍い岩泉には知る由もないのだけれど。気付きはしない、煽り、煽られていることに。笑む及川は歩きながら愛刀をすらりと鞘から抜いてゆく。右手を斜め後方に引きながら抜かれる刀身は、決して明るくはない現場の明かりを受け鈍い輝きを見せた。けれどその中でもくっきりと浮かぶ波打つみたいな刃紋は見惚れるほどに美しい。
「汚したら怒られるからねえ」
普段よりも広い間合いで相手を斬りつける及川の後ろからトリガーを引いた。遊ぶなと厳命したことは殊勝にも守っているのか、いたぶって楽しむようなことはしていない。何が楽しいのか全くわからないのだけれど、ただ斬るだけでなく斬り落とす、抉る、貫くといった趣味の悪いことを好む及川。ある組員が同席は無理だと口元を手で覆いながら出ていったこともある。日本刀は突くものではないといくら言ったところで、改められたためしはなかった。ふたりが黒いスーツを着る理由はそこにある。返り血が目立たないから、至極簡単な理由なのだけれど。
「……あ」
些かつらまなそうに処理に勤しんでいた及川が、はたとその動きを止める。名も知らぬ相手の首に刃を当てたまま、つと腕の時計を見て舌打ちをした。そのまますうっと刃を引き、吹き出す血になど見向きもせず。汚れた刀と鞘を岩泉へ渡し、肩に担ぐという荒業に出たのだ。
「時間ないの!もうだいたい終わったからいいでしょ。あとよろしくー」
「ちょ、まだ……!」
「岩ちゃん、お腹減った?」
「……減ってっけど、っておい!」
「なら完璧」
そうして先ほどのやり取りへと戻る。文句を言いつつも、岩泉を担ぎ丸腰となった及川へと突っ込んできた、哀れで馬鹿な男を仕留めることは忘れず。体勢はどうであれ傷などつけられると思うなよくそが。
あらかた片付いたとはいえ、突如現れて辺りを血みどろにしたかと思えば、理由も告げぬまま慌ただしく去ってゆくふたり。そのうちのひとりも理由は知らされておらず。そう、岩泉のことなのだけれども。
結局及川が急いた理由というのが、溝口に教えられた大層旨いと評判の料亭蒼昊の予約時間が迫っていたから。ここの揚げ出し豆腐はただの豆腐じゃねえぞ、岩泉が食ったらたぶん泣く、そう言われては連れて行くしかないだろうと、一見お断りの高級料亭である蒼昊に予約を入れさせたらしいのだ。連れて来られた蒼昊でそんな理由を聞かされ怒るわけにもいかず、おとなしくデートとやらを楽しむことにした。軽く殴った後ではあったけれども。当然揚げ出し豆腐も頬が何度か落ちるほど美味しくて、おかわりを頼み女将を笑わせたのはまた別の話。
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