おれは、エビが食いたい。何なら魚でもいい。

 一人前の遊女として客を取れば、エビくらいいくらでも食べられると母ちゃん(廓の女将で女郎蜘蛛。とんでもなく強欲、しかもクソばばあ)に言われた。そう聞いたときにはそのうちたらふく食べられるのかと舞い上がりもしたけれど、そもそも遊女とは何なのか、客を取って何をするのか、誰も教えてくれないまま穏やかなまでに時は過ぎゆく。お前は化け猫遊女なのだと言われても、その実自分が何者なのかちっともわからなくて、無駄とも思える年月をただ重ねていた。





 寒くて冷たくて、腹が減って傷だらけで。随分と昔に感じるあの冬の日。雨がみぞれになったあの夜半過ぎ。雨や寒さをしのげる場所を探すことはおろか、身動ぎをする気力も体力も奪われて、道端で小さく小さく身体を丸めていたあのとき。頬に触れる砂利混じりの泥、ぼたぼたと音を立てて降り注ぐ冷たい水の粒、寒いを通り越して感覚のなくなった手と脚、死ぬということの意味はよくわからなかったけれど、ああ、しぬのかなとぼんやり思う。エビ、くいたかった。手ぐすねを引く無力感がまぶたの裏をあっという間に覆い、後ろ頭から逆さまに泥濘の中へと沈んでゆく。事実泥にまみれているのだけれど、それとは違う、やわらかであたたかなぬかるみ。海老への多少の未練も霧散しかけたそのとき、肌触りが悪くぼろ布同然の着物の衿をぐいと引かれた。そうして痩せた身体が宙に浮く。まるで野良猫が首根っこを掴まれたみたいに。


「死んでる?」


 綺麗な声だった。まろくてなめらかで、艶かしい声。死んでねえよクソがと言ってやりたくとも、何せ眠くて寒くて痛くて腹が減っているのだ。声を上げるどころかまぶたすらひらかない。手足が、ふたつの長い尻尾が、ぷらぷらと力なく揺れていた。嗚呼この声は、もっと聞いてやっても、いいかもしれない。泥濘ではなくて、この身を包むぬくもりへと、どうしてか躊躇うことなく意識を放り投げた。



「……ん………………ん?!」


 幾度かまつ毛を震わせて、開いた目に飛び込んできたのは、胸。白くていい匂いのする、誰かの胸。おれは、しんだのか?死と胸の関係性は当然わからない。けれど今までとは何もかもが違っていることだけは、寝起きで役に立たない頭でも理解できた。いま自分は見たことのない部屋にいて、触れたことのない心地よさの布団に転がっているのだ。頭は少しだけかたくてすべすべとした腕に乗せられて、その反対の腕は抱き込むみたいに腰に回されて。胸からつと目線を落とせばそこには己の腕。薄汚れて肌の色すらわからなかった身体は本来の白さを取り戻し、つるりとした肌触りの着物を纏っている。手首から肘へと走る傷には手当てがなされ、何か薬草の匂いのする布が巻いてあった。痛みもない。恐らく他の傷もそうしてあるのだろう。靄のかかった頭でゆるゆると現状を確かめる度に、やっぱり死んだのかという思いが少しずつ大きくなってゆく。だって、こんなにあたたかでやわい世界なんて、自分は知らないのだから。


「……んー。起きた?」


「っ!」


 胸が喋った。正確にはそのだいぶ上にある口が喋ったのだけど、ここがあの世なのか現なのか、すっかりわからなくなっているときに、いきなり声をかけられたら驚きもするだろう。飛び退こうにも腰に回された腕がそれを阻む。


「……ぇ」


 絞り出すみたいに喉からあふれる音は、ひどく掠れていた。


「え?」


「……えび、くいてえ」


 ふはっ、頭の上で楽しげな笑い声が響く。それが伝って目の前の胸も頭を置いている腕も、一緒に揺れるものだから、どうにも居心地が悪くなった。揺らすなぼげ。


「なあに、お前は海老が好きなの?腹が減ってるの?」


 目が覚めて一発めがそれかよと尚も胸は笑った。腹も減っているけれど、何だかいまはそれよりも、立っている、腹が。くちびるを尖らせて、胸ではなくその上にある顔を見やれば、色素の薄い大きな瞳がこちらを見下ろしていた。縦に長い瞳孔までくっきりと見える。声と同じ、やっぱり綺麗だと思った。長いまつ毛に彩られる澄んだ硝子玉は、いっそつくりものみたいで。もしもこんな玉を拾ったならば、きっと懐に入れて大事に大切に持っておく。たからものにする。瞬きも忘れたまま見つめていると、その目がすうっと細められた。瞳にあまさがにじんでいる。


「海老、食べる?他には何が食べたい?」


 とりあえずここはあの世ではないということでいいのだろうか。未だ確信を持てずにいると、ふわふわとした白いものがつと視界の隅で揺れた。


「……すげえ」


 尻尾だ。長くて白い、やわらかそうな毛を纏う尻尾だ。しかもそれが幾つもある。がばりと腕をはね除けて起き上がり、そうっと尻に手を伸ばした。


「俺のお尻になにするの、いやらしい」


「……お前の尻に興味はねえよ。なあ、これ、お前の?本物?俺のと全然違え」


「あはっ、つれないねえ。そうだよ、俺の。九尾のお狐さまだからね」


 どうしてかおそるおそる触れてみる。ふわり。手のひらに伝うやわらかさにびくりと身体が跳ねた。えも言われぬ心地よさとあたたかさが手のひらを包み、触れる度にきらきらときらめく尻尾を夢中で撫ぜる。

 腹は減っていた。確かに死にそうなくらい減っているし、この男はエビまで食べさせると言うけれど。いまは食欲にも勝る強烈な欲求に身を任せることにする。


「こら、尻尾で遊ばない。ご飯食べないの?」


 本体の言うことなど無視だ。横向きで、布団に肘をついて頭を支えるお狐さまを乗り越えて、辿り着いた尻尾に顔から身体をうずめてゆく。すうっと息を吸い込めば、抱かれて眠っていたときと同じあまい匂い。そうしてたんぽぽの綿毛みたいな毛にふよふよと頬を撫でられる。くすぐったいのは頬だけではなくて、この胸までも。知らず笑みがこぼれた。


「ちょっと、無視するなら尻尾しまっちゃうよ?」


「……尻尾のないお前に用はねえ」


「……言うね、お前」


 くぐもった音で返せば、またくすくすと笑い声。共に揺れる尻尾に撫ぜられて包まれているみたいだった。そのまま身体を丸めて明け渡す。とろりと意識が流れ出てゆくのがわかった。


「起きたら海老さんだよ」


 何とも魅力的な言葉が聞こえ、埋もれる身体をまもるみたいに上から尻尾がふんわり被さる。それを最後に、再び大きな眠りの波にゆっくりとのまれていった。

 これが、化け猫と九尾のお狐及川の出逢い。





「なあ、客取ってなにすんだ?」


「あー、それは及川に聞いて?変なこと教えたら俺が殺される」


 眉を下げ困った顔で笑う松川は、この廓の用心棒をしているらしい。物知りで引き出しの多い、貴重な話し相手でもあった。なのに、仕事のこととなるといつもこの有り様ではぐらかされてばかり。何か腹立つ。


「その及川が教えないから聞いてるんだろ」


「まあまあ、そのうち教えてもらえるんじゃない?あ、金平糖食べる?」


「……食う」


 及川も客を取っている。他にも部屋を持つ遊女と呼ばれる男だか女だか妖怪だかはたくさんいるけれど、自分が知る限り及川はその中でも特別みたいだった。張見世には出ない。客は泊まらせない。気分が乗らなければ働かない。外に出るのだって自由だ。ここには売られて来る者がほとんどなのだと聞いた。けれどたぶんあの男は違う。ここに居たいから居る。他の者にはない、自由が、及川にはあった。

 がりがり噛み砕いた砂糖菓子のあまさがじわりと舌にひろがる。それは自分を囲い込んで離さない、及川のとろける笑みみたいな甘ったるさだった。






 


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