「おい」


「おいさんなんてここにはいません」


「おい、グズ」


「お前ね……」


 及川に拾われこの廓に居着いて早幾年。妖怪と言われる類いだからなのか、見た目の成長速度は人間のそれよりも遥かに緩やかだった。甘えん坊な子供だねといつも及川は笑う。そうは言っても耳や尻尾は自由に出し入れできるようになったし、背だって来た頃より随分と伸びたのだ。もう子供ではないと蹴飛ばしてやるのだけど、何百年生きているのかわからない及川からすると、まだまだ赤子同然らしくて。あやすみたいに甘やかされるのは、本当に腹が立つ。腹が立って胸がもやもやして、きゅっと痛くなって、少しだけ、うれしい。

 長い長い、気の遠くなるような時を生きてきた及川が。どこで何をしてきたのかは知らない。誰とどうやって過ごしていたのかも知らない。数え切れないくらいに愛されて、そうしてまた及川も誰かを愛したのだろうか。そんなふうに思うのは、この美しくて傲慢な狐が、自分みたいにひとりぼっちで生きてきたなんて想像だにできないから。ただそうだったならば、それはそれで、少しだけ、かなしい。愛するだとか恋するだとかはよくわからないけれど、たからものを愛おしく思う気持ちに似ているような気はする。懐で大事に大切に持っておく、あの気持ちに。


「俺はいつになったら一人前になれるんだよ。なにしたら一人前なんだよ」


「岩ちゃん、お前もしつこいね。そのうちだって言ってるでしょ。海老さんだって好きなだけ食べさせてるのに何が不満なの」


 名前を持たなかった自分に岩ちゃんと名を与えたのは及川だ。はじめは名前で呼ばれることがひどくむず痒くて、気付かない振りをしたり、わざと返事を返さなかったりもした。それでもいつだって、何度だって及川のくちびるからはこの音が紡がれる。だからいつの間にかそれが、自分だけを認識する音なのだと自ずと思えるようになった。

 廓では禿の岩泉と呼ばれている。禿は何をするのかと母ちゃん(女郎蜘蛛でくそババア)に問えば、とにかく及川に付いて身の回りの世話をしろと言われた。世話と言っても特筆することは何もなく、日がな一日ただくっついているだけ。飯に散歩に風呂、たまに読み書きを教わり、そして陽の光にきらめく新雪みたいな尻尾の手入れ、隠居したじいさんが送るみたいな日常だ。ただ及川が仕事のときだけは部屋に入れてもらえず、松川や母ちゃん(くそババア)、料理人の花巻たちのもとに預けられた。友達は至って少ない。他の遊女や禿に新造といった、仕事に関する者たちと無意味に接触することを及川が嫌がるから。別に自分は及川の持ち物ではないのだけれど、機嫌を損ねた及川は意地悪で、何よりも面倒くさいのだ。尻尾をしまわれて触らせてもらえないとか、松川たちとも遊ばせてもらえないとか、寝るときに窒息するくらい抱き込まれて離してくれないとか。下らなすぎる嫌がらせ。尻尾に触れられないことが何よりもこたえるのだと知っていてやるあたり、及川の性格の悪さが存分に表れているのではなかろうか。どっちが子供だクソ。


「別に不満なんかねえよ。けど何でもかんでもお前に恵んでもらってるみたいで腹立つ」


「恵んでるんじゃなくて養ってるの。岩ちゃんだって苦労しないで海老さん食べられるほうがいいでしょ。それともなに、客の海老さんじゃなきゃいけない理由でもあるわけ。あるなら言ってみな、聞いてやるよ」


 これは。まあまあ、程よく、怒っている。豪奢な錬金細工の施された煙草盆に乗る灰吹きが甲高い音を立てた。及川が煙管の灰を捨てたからなのだけど、その音が普段よりも大きいのは、音を出した張本人の機嫌が急降下しているというわかりやすい合図。もうこのくらいの感情の機微などすぐにわかるようになったし、それにいちいち驚きも狼狽えもしなくなった。ただ、怒っていることはわかっても、どうして怒っているのかはいまだにわからない。狐の心中とは猫のそれよりも複雑なものなのだろうか。


「……俺だって化け猫だし、誰かを化かしたり、したい……とか?」


「俺を化かして悪戯でも何でもしろよ。はい、解決。他には?」


 白くて長い指で、新しい葉をぞんざいに火皿へと詰める。そうして火入れの炭でゆっくりと火をつけた。吸い口からすうっと煙を吸い込み、寸秒ののちそれを吐き出す。及川の眇めた目の前で煙がゆらゆらと揺れていた。自分と同じ縦に長い瞳孔、色素の薄い瞳は澄んだ金色にも見える。そのまなこに浅い心の内など何もかも見通されているみたいで、少しだけ、こわい。


「……化け猫遊女って客を取るもんなんだろ……早く、一人前になりたいって思ったら悪いのかよ」


 それは嘘でも何でもない本心からの言葉なのだけれど。もっと言えば、早く、少しでも及川に追い付きたかった。生きてきた長さが違うことくらいわかっている。ひとつ、歩を進めても、及川だって同じだけかそれ以上に大きく歩んでゆくことだってわかっている。それでも、ただ庇護されるだけではなくて、肩を並べ、共にありたいと思ってしまったから。甘やかされるのがうれしくて、他の誰かを愛しただろうことがかなしくて、己を見透かされるのがこわい、こんな生まれたての感情の行く末などわからない。けれどそこにいつも及川がいることを願いながら未来をたぐり寄せる。懐に入れておきたいたからものは、きらきらときらめく玉よりも、もっとずっとまばゆくてあでやかだった。


「じゃあ俺を客にしな。毎晩買ってやるよ。はい、もうこの話は終わり。おいで、岩ちゃ……」


「それじゃ意味が……っ!あ……」


 がりっ、己の爪が及川のなめらかな肌を抉る。いくら言ってもちっとも伝わらないことがもどかしくて、苛つきと勢いのまま伸びてきた手を振り払ってしまった。耳も尻尾も、鋭い爪も、自由に出し入れできるようになったはずなのに。どうしてわからないのだと頭に血が上った刹那、ぶわり、尻尾と爪が形になる。耳だけは辛うじてしまわれたままのようだった。


「興奮したの?怒ったの?あは、でも尻尾はへたれてるよ。俺を傷つけたから?だよね、痛いもん。すごく痛い。何より岩ちゃんに拒否されて心が傷ついた」


「……悪い……けど、拒否したわけじゃねえ」


 少し驚いて、少し腹が立っただけだ。けれど実際尻尾はだらりと力なく地を這っていて。傷つけたいなどと思うはずがない。ましてや拒絶など。できはしないし、したくもなかった。子供みたいに幾つも言葉を並べるときの及川は、怒っているのかさみしがっているのかわからない顔をする。何とはなしにわかる、いまはきっと後者。

 ほんの少しの間を詰めて、及川の手をそうっと両の手で握る。白い甲に赤い線を引いたみたいな血がにじんでいた。


「……いたい、か?」


 見上げた金の焔と視線が交わる。それは、もう意地悪でも、射竦められるでもない、いつもの澄んだきんいろ。


「痛かったよ。でもお前にそんな顔をさせられるなら、まあ悪くないね」


 自分がどんな表情を晒しているのかはわからないけれど、ふうっと笑みのかたちに歪むくちびるに安堵する。甲に視線を戻して、にじむ赤に舌を這わせた。ざり、化け猫特有のざらつく舌は、もしかすると余計に傷を痛めるのかもしれない。そう思いながらも、制止されないことを是と受け止め、丁寧に赤を舐めとってゆく。毛繕いよりもずっとやさしく、労るみたいに、宥めるみたいに。


「……熱烈だね。慰めてくれてるの?」


 すっかり機嫌を持ち直したらしい及川は煙管を煙草盆に放り、あいた手でふわりと髪を撫でる。そうしてその手は髪から耳を伝って、ゆるく頬をくすぐった。ぞわぞわと背を這い上がるこそばゆさに、二本の尻尾がゆらりゆらりと大きく揺れる。自分のそれよりもまだ随分と大きな手のひらは少しひんやりとしていて、どこを撫でられても心地がよかった。


「お前は十六夜の月だよ。いつになったら気付くんだろうねえ」


 こんなに焦らされるのは初めてだと笑む及川の声はあまい。ついでに言えば舌に触れる肌も、赤い血も。

 今日も今日とて及川にうまく丸め込まれてしまった気はしないでもないけれど。こうやって美しい螺旋を描きながら、辿り着くのが、戻ってくるのが、ここであるならば。もうそれでいいかと、今日も懐のたからものを、ただ大事に大切にあたためるのだ。






 


prev|next
ALICE+