そもそも及川の言うことを全てきいてやる必要などないというのに、岩泉には何をおいてもそれをゆるすという選択肢しか持ち得なかった。この瞳も唇も、指も声も、及川の何もかもが、切なさすら感じるほどに岩泉をいとおしんでいることを知っているから。情に絆されたわけではない。馬鹿の相手は馬鹿らしく、自分だって相応の想いを持っているという、それだけの話。

 んあ、唇を開いて唾液と精液の混じる咥内を及川に晒す。赤い舌にたまるその少しがあふれ、とろりと顎へ伝った。


「口の中が俺のでいっぱいだね。まだ飲んじゃだめだよ」


「…………」


 この男には吐き出していいよという気遣いをみせる腹など更々ないらしい。笑む及川は岩泉の腹を汚す白濁を掬い、自身のそれと混ぜ合わせるように舌の上でくるくると指を回す。舌だけではなくて、頬の内側にも、感じる上顎にも余すところなく美味くもない、むしろ劇的に不味いぬめりを存分に塗りつけられた。


「はい、ごっくんしていいよ」


 殴りたい。何なら蹴りでも頭突きでもいい。とにかくいま、ぶっ飛ばしてやりたい。けれど習慣とは恐ろしいもので、及川を冷たく眇め見ながらも、さほど躊躇うことなく咥内のそれを嚥下してしまうのだ。それよりも常識的にはとんでもなく不味いはずの、本来口にするものではないこの欲の残骸が、おかしなことに甘露のようだと思ってしまう自分こそまず殴るべきだろう。


「……喉が痛え」


 無論痛いのは喉だけではない。朝から続く頭痛は頭の中でガンガン大きな鐘を鳴らされているようだし、身体の節々も熱特有の不快な痛みを訴えていた。上がりきっていない熱と服を剥ぎ取られたことによる悪寒もひどくなる一方で。本当ならばあたたかくして寝てしまうのが一番なのだろうけど、今欲しいものはパジャマ代わりのスウェットでもやわらかな毛布でもない。この上なく癪ではあったが熱でまともな判断ができないというもっともらしい理由をつけて、先ほどの名残だろううるむ目で及川を見上げた。


「岩ちゃんの可愛さは犯罪だよね。うん、有罪。短縮なしの終身刑です」


 監獄及川へようこそ、鼻歌まじりでひどく機嫌の良さそうな及川は、ベッドに腰かけている身体を少しだけ屈めて岩泉をきゅっと抱き締める。岩泉は立ち上がろうにも脚に上手く力を入れられなくて、精液を飲み下したときよりもよほど躊躇いを見せながら及川の腰にそうっと腕を回した。

 何より欲しいはずのこの男に自ら手を伸ばすのは、簡単なことのようであって実のところひどく難しい。邪魔をするのは己の男としての矜持か、それとも無駄な虚勢か。けれど、この身にわだかまる熱をどうこうすることができるのは、結局のところ及川ただ一人だけなのだ。そう、時として驚愕と屈辱、憤懣をも覚えさせる及川その人だけ。

 よいしょと軽いわけでもない岩泉を難なくベッドへ引き上げた及川は、熱を持つ額に始まり、淡く色づいた頬や首元、触れられてもいないのにぷくりとその存在を主張するさくら色をした胸の頂、額と同じだけ熱い手のひらと甲、きれいに浮いた腰骨、やわらかくはないけれどしなやかな太ももの内側と、順に恭しくといった感じで唇を押し付けてきた。それが膝に移る手前で、実のところは寝癖だろといつもからかう、触れてみれば意外にやわらかな髪を掴み声をかける。


「……なに、やってんだよ」


「なにってゴホウシ?岩ちゃんは身体中にキスされるの好きだから」


 傾げた首の角度と断言にいささか腹が立ったので、ハゲ上等と掴んだ髪を更にぐっと引っ張り膝から離すと、自慢のお綺麗な顔の、整った眉の間に少しだけ皺が寄った。その皺に幾分気分も晴れて手を放してやる。言われたことは間違いでも何でもなくて、実際及川の唇は好きなのだけれども。


「……いたた。何か違った?ほら、岩ちゃん熱あるしさ?労りたいんだよね」


「…………お前、舐めてんの?」


 散々無体を働いた及川にだけは言われたくない科白に、くらりと眩暈がする。靄のかかった頭では眩暈の原因が体調なのか及川なのかなど考える気にもならなくて、どうでもいい些細なこととして思考を放棄すれば、それはあっさりと霧散した。考えずともこの熱も元を正せば及川のせいなのだから、全部、丸ごと、何もかも、一切合切及川が悪いということで。


「まだ舐めてないし。……待って、冗談だよ。俺はね、岩ちゃんが欲しがるものは何だってあげたいの」


 何だって、などとよく言えたものだ。バレーと及川に関すること以外は、平気な顔をして、むしろ悪魔も真っ青な胸糞悪い笑顔で、容赦なく根こそぎ取り上げるくせに。どのツラ下げてと視線をやれば、群がる女子たちには一生拝めそうもない、あまくて、やさしくて、そして身震いするほどに獰猛な瞳が岩泉を見つめていた。これが自分にだけ向けられるのならば、自分だけのものならば、それも存外悪くはない。

 大概なのは、俺も、お前も、変わらねえな。






 


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