ひとは顕在意識よりも潜在意識の領域のほうが多いのだと言う。その遥かに少ないらしい思考が全く及ばない、底なしの無意識下においても相手を求めてやまないのは、ある意味恐怖ですらあった。

 けれどきっと、いくら考えようとも、避けたくとも、もう、どうにもならないのだ。







「あー!いた!岩ちゃんてば勝手にいなくならないでよね」


「あ?何でいちいちお前に行き先言わなきゃなんねえの」


「仕事だからですー。変更かかってた分どうなったか知りたかったの!せっかく手伝ってあげようと思ってたのにさ。もう俺もサボっちゃうもんね」


 高層ビルが乱立するオフィス街の一画に及川たちの勤めるスポーツ用品関連の会社はあり、いま岩泉がいるのはその営業部フロアの隅に作られた喫煙室。館内全面禁煙のビルや企業が増えるなか、喫煙者としては幸いなことにこの会社は完全分煙を謳い、狭いながらも空調の整った喫煙室をフロア毎に一室設けてあった。中央にあるカウンタータイプの分煙機と天井の空調がほぼ音もなくたゆたう煙を飲み込んでいる。

 室内には壁面に設えられたパイプベンチに浅く腰かけている岩泉の他に、分煙機にだらしなく肘をつく同期である松川と、同じ部署で岩泉が何かと面倒をみている後輩の姿が。この後輩が入社してきた当初は、及川の下で業務のサポートとノウハウを学ぶことになっていたのだが、気付けば面倒をみるのは岩泉の役目になっていた。そもそも及川のサポートを完璧にこなしているのが岩泉なのだから、自然とそうなるのも仕方のないことなのかもしれない。


「そうだまっつん、明日と明後日さ、俺と岩ちゃん休むから。よろしく」


 及川は最近変えたメンソールの煙草を口に咥えながら松川を見ることなく言葉を投げた。ほんの少し顔を傾けて伏し目がちに火をつけるさまは、女子社員曰くのときめきポイントらしい。自分が人にどう見られているのかも、一番食い付きのいい見せ方も、随分と前から十分にわかっていた。けれど騒ぐ周囲をよそに、自分のことを本当に見てほしい相手はたったのひとりしかいないというのに、そのひとりは格好いい及川など見飽きたと言って何事にも一切取り合うことはない。その美しいものに大概の免疫がついてしまった可哀想なひとりとは、実は誰よりも男としての艶があるのではないかと思っている、そう、岩泉のことなのだけども。

 少し短くなった煙草を吸う姿ひとつ取っても、及川のややもすれば作られたような完璧な色気とは違う、憂いを含んだ艶かしさが滲み出ていた。猫みたいな目を細めながら、普段は甘い言葉とは無縁の唇からふうっと吐き出される煙を見ていると、腹の中の苛つきがそろそろ皮膚を食い破って外にあふれそうになる。質が悪いことに岩泉本人は及川とは違って計算も意識もしていない分、そのまれに見せる自然で静謐なまでの美しさに心を寄せる者は少なくなかった。何だかんだ言っても岩泉の心は及川にしか向いていないことなどわかってはいるけれど、全くもって面白くない。


「お前さあ、前日の申請が簡単に通るわけないだろ。俺、社長じゃないし」


「それをどうにか通すのが総務の仕事でしょ。俺は明日のために休出までして頑張ったの。休みますー。あ、岩ちゃん!どこ行くの!」


 岩泉は最後の煙をゆっくり吐き出しながら分煙機に煙草を捩じ込むと、及川の横を無言で抜けて出口へと足を向けた。煙草の匂いと岩泉自身の匂いがふわりと漂う。


「変更分、もうできてるから出してくるわ。お前じゃ夜までかかるかもな。あと松川、あれ、よろしく頼むな」


「おー、任せろ」


「え?あれって?なに?ねえ!なに?ちょっと、なんなの!」


 ぐるり、身体を出口に向けたときには既に岩泉はドアの向こう側で、残された及川の喚き声だけがむなしく部屋に響いていた。高校時代から見慣れているやり取りを松川はにやにやと眺め、これはスルーしても構わないのだとすっかり学んでいるらしい後輩も、顛末に触れることなく残り少ないだろう缶コーヒーを煽っている。


「お前らが何も変わらなくて安心するわ。けどあんま岩泉に手間かけさせるなよ。健気すぎて泣けてくる」


「意味がわからないんだけど。健気なのは俺だからね。それにさ、まっつんとでもあれとかそれとかで話されたらムカつく、もうやめてよね」


 眠そうな目を一瞬だけ開いた松川はすぐにまた緊張感のない笑みを浮かべると、新たに咥えた煙草に火をつけた。この飄々たる友人は及川ほどではないにしても、驚くほど周囲をよく見ている。そんなよき理解者でもある松川に対してあからさまな不平をぶつけるのは、いつも余裕を滲ませている捉えどころのない及川にしては珍しいことだった。けれど鬱々とした澱が程よく溜まっているいまは、それを小出しにしなければ全ての矛先が岩泉へと向いてしまうのだ。

 もう、幾度も傷つけた。あの無二なる身も心も。大袈裟でも何でもなくこの世の何よりも大切なひとだというのに、泣かせて捩じ伏せて壊して作り替える、執着の果てに与える仕打ちはいつもその繰り返しだった。それなのに岩泉はそんな及川を激怒しつつもゆるし、ただ受け入れる。いつだって、何度だって。打ちのめされるようなこのしあわせに、何と名前をつけたらいいのだろうか。


「……お前、またたまってるの。頭がいいのか悪いのかわかんないよな。あれ、もう行くの?」


「飲み会の主役が遅れたら話にならないからね。マッキーんとこの酒瓶、全部空にしてやるよ」


 まだ長いままの煙草を分煙機に放り込むと、もうデスクに戻っているであろう岩泉を追いかけるというには些か遅い一歩をゆっくりと踏み出した。


「……及川さんって、マジで岩泉さんのことだけなんすね、考えるの」


「いいんだよ、あいつはあれで。岩泉もそれでいいって言ってんだから俺らは何も言えないの。ま、お互い気持ちがだだ漏れってのも可愛いもんだわ、見た目はゴリラだけどな。つかお前は戻らなくていいの?」


「やべえ、戻ります!」


 ひとり残された松川はどいつもこいつも騒がしいなと苦笑いを浮かべながら呟き、天井に向けて細く煙を吐き出す。そしてポケットからスマートフォンを取り出すと、誰かに何やらメッセージを送るのだろう、慣れた手つきで画面を軽くタップしていった。






 


prev|next
ALICE+