「及川、誕生日おめでとう!」
「前日だけどな」
「前夜祭?」
「イブ?」
「プレ?」
「もう何でもいいべ」
「どうでもいいな」
集まった面々がそれぞれ祝いの言葉らしきものを口にしながら、及川のグラスに自分のそれをカツンと合わせていく。気安さも相まって力加減だとか合わせるグラスの位置だとかがおざなりになっているものだから、なみなみと注がれていたビールの細かな泡もその下の琥珀色をした液体すらも、乾杯の度にグラスの縁から勢いよくあふれていた。一口も飲んでいないのに中身が半分ほどに減ってしまったグラス、しとどに濡れた手のひら、何気なく手元に視線を落とすと不意に笑いが込み上げてくる。腹にたまる澱は相変わらずなのだけど、こうして気の置けない仲間に誕生日を祝ってもらうのはひどく嬉しいことであった。扱いが雑!と文句を垂れながら減った中身を一気に飲み干す。
毎年岩泉や及川の誕生日前日は、花巻の勤めるスポーツ観戦や食事もできるバーに集まって祝うのが恒例となっていた。及川が高校、大学、社会人と出会ってからそれなりに深く濃い付き合いをしてきた仲間は、意外なことにそこまで多くない。浅く広く付き合う友人であればそれこそ掃いて捨てるほどにはいるけれど。浅いや深いは置いておくとして、そんな友人たちの中でもとりわけ素に近い自分を晒せるのが高校生時分のバレー部の面子だろうか。及川の中身がとんでもなく面倒で残念だということを知ってなお、変わらずに付き合ってくれた。バレーと岩泉のことしか頭にないとわかっていてなお、ゆるく力強く支えてくれた。もちろんそのバレーの中には今でも何かとつるむ松川や花巻のことも入っている。絶対的な信頼を寄せる仲間として、友として。
岩泉を想うことと同じかそれ以上の精神的熱量で及川そのものを形づくっていたバレーを諦めなければならなかったとき、何も言わずただ共に酒を飲んでくれたことはきっといつまでも忘れない。松川も花巻も慰めの言葉は一言だって言わなかった。
諦めさえしなければ、努力さえし続ければ、自分が納得するまでバレーができると思っていたあの頃。及川にとってバレーを取り上げられるということは、半身を失った己の輪郭までもがほろほろと崩れ、ぼやけて見えなくなってしまうことと同義だった。今ではもうすっかりなくなったのだけど、絶望と悲嘆をない交ぜにした悪夢にうなされ、同時にひどく膝が痛むような感覚に身体を強張らせながら耐える夜があった。夢で見せられる崩れていく自分は、はじめはぱらりと少しずつ表面が剥がれていき、徐々にその欠片が大きくなって最終的には自身の形がなくなってしまうのだ。
無価値であると誰に思われたって構わない。けれど岩泉に哀れまれ、見限られる、それだけはどうしようもなく悲しくて恐ろしかった。だから岩泉が俺の想いを舐めるなと玻漓のようにきらめく涙をぽろぽろこぼしながら、殴って蹴ってあまつさえ頭突きまでお見舞いしてきたときには。そのまま骨が軋むほど抱き締めてきたときには。なくなってしまったと思っていた自分が、寸分違わず元通りに形づくられるのを確かに感じることができた。まるで逆再生みたいに。
及川徹は岩泉一によって形づくられている。及川徹は岩泉一がいなければ息もできない。これはありがちな愛のメタファーでも何でもなくて、そのまま言葉通りの意味を持つ。そしてこの逆で、岩泉もまた同じ想いなのだと言った。だから及川の執着など何ともないと、自分だけが欲しがっていると思うなとも。灼かれるようなこのしあわせに、何と名前をつけたらいいのだろうか。やっぱり及川にはわからなかった。
「……おい、一応主役なんだからぼけっとしてんな。次は何飲みたいの?」
バーカウンターのハイスツールに座り黙って煙草をくゆらせている及川へ声をかけたのは、すっかりバーテンダー姿も板に付いた花巻。花巻の後ろでは形も色もとりどりな洋酒が、カウンターバックの淡い間接照明にやわらかく照らされていた。皆のいるカウンター席の後ろのテーブルは変わらず賑やかで、時折楽しげな岩泉の声も聞こえてくる。きっと一応主役がしばらく抜けても咎められることはないだろう。
「一応じゃなくて立派な主役!マッキーの今日のおすすめは?」
「モヒート」
「モヒートこの前も散々飲んだし。マッキーはそれしかおすすめないわけ?」
「うちのはオーガニックのミントだからな。及川だって美味い美味いって飲んでただろ」
結局出てくるのはモヒートらしく、花巻は及川が口を尖らせている間にもタンブラーにミントの葉やライム、砂糖をなめらかな動作で放り込んでいった。確かにこの香りは嫌いではないけども。深く吸い込んだ煙草の煙をゆっくりと吐き出しながら花巻の手元を見つめる。
「それ、飲んだら次はベリーニちょうだい」
「女子力高えな。けどイライラしてる及川さんはモヒートでリフレッシュしたほうがいいんじゃないですか?」
訳知り顔でにやりと笑った花巻は、とりあえず飲んどけとフルート型のシャンパングラスに入った少し甘めのスパークリングワイン、ゼクトを目の前に置いた。絶え間なく立ち上る細やかな泡にその質のよさが窺える。
「……なに、お前の旦那はおしゃべりだね」
「ホウレンソウは大事だろ。俺のダーリンはできる子だから」
ぱちんとウインクする花巻の視線の行き先はテーブル席にいる松川なのだろう。それくらい振り返らなくてもわかった。この二人は何を言うでもないのだけど、少しでも及川の澱を減らせるよう、その果てに岩泉が傷付かぬよう、手を尽くしてくれる。いつまでたっても支えられるばかりだ。ここには女子が騒ぐ明るくて面倒見のいい、優しい及川徹はいない。けれど世間のイメージとはかけ離れた素の及川がいいと言ってくれるひとがいる、今はその喜びをただ噛み締めるだけだった。
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