「失礼いたします」


 入り口で案内をしてくれたマネージャーがにこやかにトレーを持って現れた。そこにはドルチェの皿に紅茶のポット、カップなどがパズルみたいに上手いこと配されている。どうぞ。彼はそれを流れるような手つきでテーブルに並べてゆく。紅茶は恐らくアールグレイ。カンノーリの皿の隣に置かれたのはトルタ・カプレーゼ。チョコレートとアーモンドの甘ったるい匂いに、どうしてか淡く黒尾の影を見た。


「黒尾さんから、ですか」


「左様でございます。飲み過ぎて帰れないときには連絡するようにとの伝言を承りました」


 赤葦の問いにマネージャーがやわらかな笑みで答える。それが赤葦に対しての言付けではないことくらいわかったのだけれど。


「わかりました。ありがとうございます」


 月島の代わりにくすりと笑う赤葦が返事を返し、自分はと言うと眉間に皺を寄せて置かれた皿を眺めていた。馬鹿じゃないの。赤葦がいるのだから酔おうが吐こうが黒尾の出る幕などないというのに。女を侍らせている黒尾に連絡したところで、繋がるのかすら怪しいというのに。存在だけを刻み付けるようなやり方に腹が立つのだけれど、結果それに焦がれる自分は否定できなくて。馬鹿なのは自分だろうと、トルタ・カプレーゼの真ん中にフォークを突き刺した。そうして大きめに切り分け口へと運ぶ。ほろりとろりとほどけるそれが、咥内に纏わりつくみたいだった。


「さっきの冴子さんはね、うちのスポンサーみたいなものなんだ。上場でもしたら大株主になってくれるタイプ。俺たちもたまにああしてご機嫌伺いしてる」


「オトナの事情ってやつですか。別に気にしてませんから」


「心配しなくても大丈夫、恋人なんかじゃないから」


「気にしてませんってば。僕には……関係のないことですから」


 自分で言って勝手に傷ついているのだから世話がない。黒尾も月島もどこで誰と何をしようが、互いに咎め立てできる関係ではないことくらいわかっていたけれど。できることならば目の当たりにはしたくないわけで。甘さしか感じないドルチェを、ただ口に運んでは咀嚼してゆく。どろどろとあまくて、あまくて、何かが胸につかえたみたいに苦しくて仕方がなかった。



 黒尾とおかしな関係になったのは、月島が大学に入ってすぐのこと。黒尾を追いかけてきたわけではない、そう言い訳してみても、近くにいたいという邪な思いが少しはあったのも事実だった。上京したことを木兎や赤葦も歓迎してくれて。皆で飲もうと集まった入学式の夜から全ては始まったのだ。赤葦と月島は一応ノンアルコール、木兎と黒尾は浴びるように酒を飲んでいた。二人とも常より更に陽気でやかましくはあったけれど、泥酔はしていなかったように思う。


「なあなあ、ツッキーって童貞?」


「木兎さん。黙って」


 赤葦の冷ややかな視線になど慣れきっている木兎は、少々たしなめられたところで気にもとめず。


「えー、だってさあ、ツッキーって結構モテるんだろ?けど、そんなの興味ありませーんって顔してるからさ。気になる!なあ、彼女いねえの?好きなやつは?で、やっぱ童貞?」


「木兎さん。口におしぼり突っ込まれたいんですか」


 もう飲むなとジョッキを取り上げた赤葦は、水の入ったグラスを中身が溢れる勢いで木兎の目の前に叩きつける。静かに怒る赤葦。ぐうと黙る木兎。そしてそれを見ながら腹を抱えて笑う黒尾。高校生に戻ったみたいで懐かしくて、何よりこれからこんな時間をより多く共にできるだろうことがたまらなく嬉しかった。後輩としてだろうが、友人としてだろうが。扱いはどうであれ、目の前にいてくれることが、ただ嬉しかったのだ。我ながら気持ちが悪い。こんなことならば、恋のひとつやふたつしておけばよかった。そもそも初めて胸を高鳴らせた相手が男だなんて、笑えないし終わっている。この時点で既に詰んでいたのだけど、だからと言って気持ちをなかったことにする術など、知っていたらもっと心穏やかになれただろう。くだらないはずの恋に頭から呑み込まれ、息もできずに溺れてゆくばかりだった。


「で、ツッキーの好きなやつって?」


 赤葦が木兎を従え帰る際、黒尾に月島を送り届けるよう頼んでいた。ひとりで帰れると言ってみても、当人の言葉は受け入れられることはなく、しかもどうしてか帰りついたのは黒尾の部屋。まだ飲みたいからもう少し付き合ってと、文字通り連れ込まれた。部屋に行くのは初めてではなかったし、身体を包んでくれるやわらかなソファも嫌いではないので、その誘いを断ることはなかったけれども。リビングに置かれた大きめで肌触りの良いソファ。それにふたりして座り、出された甘いココアで、じゃあ一杯だけ、ビールの缶と乾杯をした。甘さがじんわり沁み入る。そうして聞かれたことは、先ほど赤葦のおかげで流れたはずの問いだった。童貞かどうかの話から更に踏み込まれたような気はしなくもない。


「……黒尾さんまで何言ってるんですか。僕が童貞なうえに好きなひとでもいないと何か不都合でもあるんですか?」


 あなたのことですけど。言えたら苦労はしない。


「別に、何もねえよ。けど好きなやつがいるんだろうなとは思ってる」


「得意の観察眼とか勘ですか?いたら何なんですか?まあいたとして、黒尾さんに教える義理はないですよね」


 あなたのことだから。だから、言えない。

 黒が、深い黒が見つめている。やさしげな笑みを浮かべて見つめている。塗り潰されそうになるから、もう見ないでほしかった。


「あー、勘とかより興味?お前みたいな難しいやつが惚れるってよっぽどいい女なのかなとかさ」


 だからあんたのことなんだけど。言えない代わりにすうっと息を吸い込み、それを吐き出しながら言葉をいっぺんに並べ立てる。


「……いますよ、好きなひと。見た目も外面もよくて優しい振りの上手いひとです。でも人のこと平気で振り回すし、恋人だって自分から動かなくてもよりどりみどりだし、しかも処女なんかめんどくさいって言ってしまえる、まあ最低のひとですけど。意外ですか?僕が一番認めたくないんで、これ以上触れないで下さい」


 そう言葉にすると、本当にどうしようもない男のことみたいで少しだけ笑える。明らかにそんな男に惚れたことに対する自嘲なのだけれど。ビールをあおる黒尾の、上下する喉仏に鼓動が跳ねた。


「なに、ビッチ好きな男なのか。意外といえば意外だけどツッキーらしいのかもな」


 ふはっと吐息混じりの笑みをこぼす黒尾の思うところがわからない。自分が男友達からそれを言われたら引いてしまう自信があった。むしろドン引きする自信しかない。なのに黒尾の顔に浮かんでいるのは嫌悪や蔑みではなくて、チョコレートケーキみたいな甘さの笑みばかり。


「じゃあさ、俺がお前をビッチにしてやろうか」


「っ、酔ってるんですか?馬鹿にしないで下さい。別にそのひととどうこうなろうなんて思ってな……」


 かつん、音を立てて缶をテーブルに置いた手に手首を掴まれる。自分の手のひらよりも熱くて大きなそれ。いま、黒尾が触れているのはこの身体の末端なはずなのに。ぎゅうっと握られたのは、普段からは考えられない激しさで鼓動する左胸の中だった。


「俺もね、処女はめんどくさいと思うタイプなのよ」


 お前の好きなやつと一緒だな。薄い唇が弧を描いた。締め上げられる心臓が痛い。ついでに手首も痛い。酒など飲んでいないのに、酔ったみたいにぐるぐると世界が回っていた。


「けど、お前が俺の手でぐずぐずになるところはさ」


 見たいと思う。


 もう僕を見ないで、辛いから。もっとぼくをみて、すきだから。もう僕に触れないで、痛いから。もっとぼくにさわって、みたされるから。本当に言いたいことだけは、悲しいかなどうしたって言えなかった。






 戀という字を分析すれば
 糸し糸しと言う心






 


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