「おー、赤葦にツッキーじゃん。お前らも飯?」


 料理もワインも文句なしに美味しいのだけど、何よりも心惹かれるのはやっぱりドルチェで、この日の食後はくるりとした筒状の生地の中にリコッタチーズ、チョコレート、カスタードなどのクリームがたっぷり詰まったカンノーリ。どれから食べようかと視線をさ迷わせていると、くすりと笑う赤葦が自分の皿からココア生地のそれをひとつ摘まんで月島の皿に乗せる。これでは余計に迷うではないかと嬉しい葛藤をしているところに、ここで聞こえるはずのない声が不意に鼓膜を揺らした。低くて甘い声音にどきりとひとつ鼓動が跳ね、それからは動悸が常より早く打ち始める。


「奇遇ですね、黒尾さん。冴子さん、お久しぶりです」


 聞こえた赤葦の声と同時に、皿に張り付いてしまったみたいな視線をべりっと剥がして見上げると、テーブルの横にはスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイもゆるめたラフな姿の、今では外で会うこともめっきり減った黒尾がいて、その両隣と後ろには女子というか女性たち。女としての魅力や武器の使い道を十二分にわきまえているだろう、色香に溢れる美しいひとばかりだった。ちらりと見ただけでわかる黒尾愛用のゼニアのスーツ、この日はライトグレーをベースにシャドーダブルストライプが入った特有の華やかな光沢のあるもので、黒尾の精悍さも甘さも、胡散臭さまでをも存分に引き立たせている。

 遠いなと思った。だからといって、近付くためにこの淀んだ心の内を晒す覚悟はないのだけれど。どうしたって縮まらないふたつの年の差よりも、手を伸ばしてもきっと届かない心の距離が、ただどうしようもなくかなしかった。やっぱり、恋などくだらないものなのだ。


「赤葦くんも頑張ってるみたいね。この前仲村さんに会ったら貴方とは二度と交渉したくないって言ってたわよ。若いのに頼もしいわ」


「ありがとうございます。あちらのチームが提示した条件では選手が可哀想ですからね。こう見えて必死なんですよ」


 黒尾たちは要請があれば大概のスポーツで代理人交渉を行っているが、自分たちが青春の全てを注ぎ込んだからなのか、日本では珍しくバレー選手の移籍交渉にも力を入れていた。他のスポーツに比べ、まだまだ待遇や年俸等の条件が厳しい国内移籍から海外のプロリーグへの移籍交渉まで。月島とて冷めているようであってもバレーは特別なものだから、そんな話を聞く度に、どこか誇らしいようなむず痒いような喜びが淡く胸に通った。ちなみに赤葦の次の仕事は、国内でも活躍している木兎を欧州のチームに移籍させることらしい。


「赤葦くーん、時間があるなら一緒に飲みましょうよ」


 顔見知りらしい黒尾の後ろにいた女性が赤葦に近付き、その広い背をするりと撫でた。含みを持たせたようななめらかな動きで肩まで辿る白くて華奢な指の先には、アートとはよく言ったもので、ピンク色をした小さな花が鮮やかに咲いている。その花が赤葦のネクタイに触れたとき、散りばめられたストーンの煌めきがやけに眩しく胸に刺さった。どうしてか物憂く、気だるい。そっと視線を皿に戻したけれど、つい今しがたまでの胸が躍るような楽しみはすっかり萎んでしまっていた。


「あら。それなら私はこっちの可愛い子と飲みたいわ」


 黒尾にエスコートされている冴子と呼ばれた女性は、声と共に視線を月島へと向ける。どうしてこの女性たちは安易に人に触れようとするのだろうか。伸びてきた長くて赤い爪に、喉がひくりと引きつるのがわかった。


「それ、浮気?俺わりと嫉妬深いんだけど」


 赤を纏う指先が月島の頬に触れる寸前、それは黒尾の大きな手にきゅっと握られ離れてゆく。頬を掠めた黒尾の手の甲の、たかだか一瞬触れただけのその感触が、どうしようもなく胸を痛めざわめかせた。やるせなく、苦い痛み。嫉妬深いなどとほざいた弧を描く薄い唇が、赤い爪にちゅっと軽く触れる。恭しく口付けるさまは王子か騎士か、あるいは悪魔か。その手のひらに包まれる指が、その唇に口付けられる指先が、羨ましいを通り越して妬ましい。本音を言えば、黒尾に触れる男も女も皆、死ねばいいのに。そうしたらこのひとは自分だけのものになってくれるのだろうか。無表情無関心を装うその下で、自分はこんなにも汚く卑しい思いを巡らせている。この浅ましい思いなどきっと黒尾は知らないし、知らなくていい。黒尾にだけは、知られたくないのだ。


「ふふっ。よく言うわね。お邪魔してはいけないから行きましょう。またね、赤葦くんと可愛い貴方」


「ありがとうございます。また今度ゆっくりと」


 にこやかに頭を下げる赤葦にならって月島も会釈をする。どの辺りが可愛いのか全くもってわからないけれど、冴子は楽しげであでやかな笑みを浮かべ月島に手を振った。


「またな、ツッキー」


 ふわりとやさしく頭を撫でられて、同時に香る黒尾の匂いに胸が詰まる。嗅ぎ慣れていると言えるほど会えるわけでも側にいられるわけでもないけれど。他の誰でもない、ただこの匂いだけは特別なのだ。一行が離れたあとも、それはいつまでも月島の中から消えることはなかった。

 頬杖をついた赤葦が、先ほどよりもずっとやわらかく笑んでいる。


「……お前は本当に…」


「可愛くないですからね」






 逢うたその日の心になって
 逢わぬその日も暮らしたい







 


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