08
あれから一週間、あれやこれやと安室曰く「知り合いから譲り受けた」家具が置かれるうちに、部屋のなかはだいぶ鮮やかになってきた。知り合い、家具要らなすぎでしょ。断捨離生活でも始めたのか。
与えられた大き目のソファは、寝転がるのにちょうど良い。小さめのテレビを眺めながら、足のむくみを取っていたら、インターフォンが部屋に響き渡った。正直私を訪ねてくるのなんて一人しかいないので、私はボサボサになった髪の毛を直して、ゴミ袋をそっと端に寄せてから扉に駆け寄った。
「はいはい」
ぱっと扉を開けると、可愛らしい瞳がぴょんっと此方を見上げた。リードをつけているところを見ると、散歩帰りだろうか。白いショートジャケットを羽織った安室は、私の姿を眺めて少しだけ気まずそうに視線を逸らした。私が部屋着のままだったからだろうか、裸も見た仲だというのに、案外律義なのだなあと思った。
私はその視線に気づいてから「ちょっと」と断りカーディガンを取りに帰った。安室が羽織っていたものと同じ色のものを、この間出掛けたときに買ってもらったのだ。いやあ、やっぱり顔の良い人が着てると欲しくなっちゃうんだよなあ。
「ごめんなさい、だらしない恰好して」
「いえ……この時間まで寝てたのかい?」
「一応起きてましたよ、ゴロゴロはしてたけど」
安室がちらっと腕につけた時計を見遣る。昼の十一時を回ったくらいだろうか、学生ならばとっくに学校に行って勉学に励んでいる(――かは分からない)時間だろう。何もせずにゴロゴロと昼間のテレビを眺めることに、罪悪感はないが、安室は少し考えるそぶりをした。
「学校、行きたいですか」
と、そう尋ねる安室の表情を窺うように見上げた。その真意は、表情を見てもよく分からない。感情として聞いてみただけなのか、行かそうと思ってくれているのか、行かなくて良いだろうという諦めなのか。
ただ、彼の表情は決して険しいものではなかったので、私も正直に頷いてみた。
「行きたい」
私は、学校という場所が好きだ。
友達と他愛なく話し合うのも、教師を面倒だと思うのも、窓から先輩の後ろ姿を見つけてほんのりと喜びを感じるのも好き。もちろん安室の綺麗な顔を眺めているのも好きだけど、行きたいかと問われれば行きたい。
安室は何か責め立てるわけではなく、少しだけ眉の形を柔らかにして笑った。
「……戸籍が手に入れば行けるから、そんな顔をしないでください」
「え、どんな顔してました?」
ぎゅっと頬を押さえると、安室は少しだけ意地悪そうに口端を持ち上げた。大きな目の片方をキュっと細めて人差し指が唇にそっと当てられる。
「内緒です」
その笑い方は、下手なホラー画像よりよっぽど心臓に悪くて、頭にかーっと血が昇ってしまう。さすが顔の良い男――、自分の表情をよく分かっている。ときめいてしまったことを悔しく思いながら、私は彼を家に上げた。
彼が散歩帰りに私の部屋に寄った理由――。それはただ一つ、昼食である。
相変わらず、二日か三日に一度は食材の確認に来るのだが、おかげで私の冷蔵庫は彼の作り置きにより潤っている。コンビニやファストフードも不味くはないが、彼の味付けを知ってしまうとそうもいかないのだ。
今日のごはんは何だろうな〜と思いながら機嫌良くソファに座り込んだら、安室が私の部屋着の首根っこをヒョイっと掴んだ。「へ」という口の形のまま固まってしまう。背後を振り向けば、ニコニコとしたわざとらしい笑顔がそこに貼り付けられてる。
「今日はお客さんじゃあありません」
「……と言うと?」
「実は明後日から、暫く家を空けることになりまして。多分、一週間くらいになるでしょうか」
はあ、と私は相槌を打った。
確かに一週間分では、今ある冷蔵庫に入れてるぶんでは足りないと思う。やっぱり、ポアロとかで住み込みで働かせてもらおうか。キッチンはからっきしだけれど、フロアだったらバイトの経験はある。
「ですので、今から料理を教えます」
「……リョウリ?」
「初めて聞いたみたいな反応をしない」
ああ、知っているよ。料理ね、料理――。料理? 教えると言うと、私が料理をするということだろうか。ついこの間までまな板の存在すら朧げだった私が、料理。
唖然としてその表情を見つめていたら、安室はプっと噴き出すように笑った。そんなに間抜けな顔をしていただろうか。パチパチと瞬けば、今までにないくらい彼が腹を抱えている。
「ぷ、くくっ……あははは! す、すみません。ちょっと……」
「いや、こちらこそ……?」
「あは……ふふふ……。失礼、ああ……。見覚えのある反応でしたので」
――見覚えがある。
成程、以前もこういうふうに料理を教えたことがあるのか。私と同じ反応ということは、ソイツもよっぽど生活力がない奴だったんだろうなと思った。デジャヴを感じたらしく一しきり声を上げて笑い終えると、彼はいつもより優し気な表情をして、首根っこを解放した。
そしてキッチンへ向かうと、私のことをちょいちょいと手招く。
別に嫌というわけじゃない。ただ、本当に馴染みがないのだ。何をしたら良いか分からないし――そう思いながらも、手招かれたまま彼の傍に近寄った。
「何、作るの?」
「初めてだから、とりあえず味噌汁かな」
「ミソシル……」
「だから初めて聞いたみたいに言わない」
安室が苦笑いしながら、豆腐と味噌、ネギ、油揚げをスーパーから出した。それから、最後にふりかけの粉みたいな小さな袋。それが何か分からなくて、思ったそのままに「ふりかけ?」と聞いたら、彼は驚いたようにこちらを見下げた。
「ふりかけ……フッ」
口元を押さえて、肩が小刻みに震えていく。私はそんな彼を、ジトっとした目つきで見咎めた。恐らく、笑っては失礼だと思っているのだろう。いつものような愛想笑いでないのは貴重で眼福ではある。複雑な気持ちだ。
「これは粉末だし、いれると味噌汁が美味しくなります」
「本当に?」
「まあ、ほぼほぼ。じゃあ実際に試してみましょう」
用意してくれたまな板の上に置かれた材料をジッと見つめた。包丁って、間近で見るとちょっと怖いな。指が触れたらスパっと切れてしまうのだろう、そう思うとそれを握る手がぷるぷると小さく震えた。
「大丈夫、包丁の背中は切れません」
「わっ、何してんの! 危ないよ」
安室が急に私の手の上から包丁に触れてきて、ぎょっと目を剥いてしまった。彼は笑顔のまま、包丁の丸みを帯びたほうにスウっと指を滑らせる。
「俗に言う峰です。ほら、峰打ち……とか聞いた事はありませんか」
「ああ〜。なるほど、こっち側だと切れないんですね」
「そういうこと。切れるのはこっちの真っすぐな部分です」
そう思えば、案外持つ場所は広いのかも。彼は私の指を動かして、正しい包丁の握り方を教えてくれた。先ほど手を洗ったらしく、触れた指先はヒンヤリと冷たく、固かった。少しだけ乾燥しているのが、格好いいと思えてしまったのは謎だった。
「そう、こっちは拳にして、ぎゅうっと材料を押さえます」
「……これ、指の皮切らない?」
「きちっと握っていれば肉は削げませんよ。さあ、力を抜いて引いてみて」
ネギを大振りに切って、安室の手が促すままにスウっと手前に引いてみる。するとネギはしっかりと、私が押さえた大きさに切れていた。こんなに大きなネギが味噌汁に入っていたら驚くけれど。
「すご、マジで切れた! 見て、安室さん!」
調理実習でも、そういうものには触ったことがなくて、無難そうな食器洗いや鍋の中をひたすら掻き回す作業に回っていた。初めて切れたネギはドキドキとして、ぱっと振り返って明るく彼を呼んだ。
彼は一瞬驚いた顔をしたけれど、呆れることもなく、優しく背を叩いてくれた。
「そう、その調子です」
そう笑う彼の声は、アニメで見るよりよっぽど魅力的で、柔らかかったのだ。
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