09


 次の日も、懲りずに安室は私に料理を教えに来た。
 教えに来たのは相変わらず味噌汁と、手でちぎるだけのサラダ。それじゃあご飯にならないと言えば、彼はあとはコンビニやスーパーで惣菜を買えば良いと笑った。――そんな適当で良いんだろうか。
 
 自分で作る味噌汁は、安室が作るものよりちょっとだけ味が濃い。教えてもらったままなのに何が違うかは分からないのだが、何かが違う。教えられたままにお玉の中で味噌をクルクルと溶かしながら、私は唸った。

「どういう声だい、それは……」
「そんな変な声出してないよ」
「犬みたいな声してましたよ」

 エプロンを解きながら、彼は訝し気に眉を顰めた。私の作った味噌汁を椀にうつして、おかずはその間に焼いてくれた生姜焼きだ。相変わらず美味しそうな匂い。お腹がすく匂いをスウっと大きく吸い込みながら白米をついだら、いつもより少し多めになってしまった。まずい、太ってしまう。

「そういえば、ハロは? 預かりますけど」
「ああ――。知人に頼むつもりでしたが、君がいるならそうしようかな」
「やった〜。ハロと一週間!」

 機嫌良くリビングのテーブルの前にクッションを置いて、その上にぽすんっと座った。盛り付けたものをトレイに乗せて、安室がテーブルへ食事を運ぶ。両手を合わせて、まだ不慣れに挨拶をすれば安室も同じように手を合わせた。

「にしても一週間なんて、大変ですね。探偵のお仕事ですか」
「はい。個人の探偵業は中々厳しいですからね、毛利先生みたいに安楽椅子探偵というわけにはいきませんよ」

 おお、急に安室フェイスを全開にしてくるなあ――。
 饒舌になった安室の口元を見つめて頷いた。小ぶりな口だと思っていたが、さすが男というか、一口は大き目だ。綺麗な顔と、この男らしさのギャップというものが女心を擽っていくのか。
 その口元を見つめていて、改めて思う。どこをとってもフィギュア――もはや彫刻のように造りが綺麗な男であると。普通、一見してのイケメンだって毛穴やら歯並びやら、よくよく見れば粗が見つかるだろうに、彼の顔にも体にも、そういったものが一片とないのだ。恐るべし二次元キャラクター。

「……何か?」

 先ほどまでにこやかに微笑んでいたその瞳の色に、僅かにピリリとした警戒の色が浮かんだ。鈍感な私にも分かるくらいにそうだったので、きっと態とだろう。暗に探るなと言われているような気がする。

「イケメンは生姜焼き食べてもイケメンだなーって思っただけ。あと一枚貰っても良い?」
「どうぞ」

 最後の一切れは、脂身が多めだった。それを口の中で溶かしながら、私の作った味噌汁を辛いとも何ともいわず、ズズっと飲み干す顔を見つめた。後から私の分も味を確認したけどやっぱり相当に辛くて、綺麗な顔と引き換えに味覚をどこかに飛ばしてしまったのではと一人危惧していた。

 彼の淹れてくれたコーヒーはそんな味を吹き飛ばすくらいに美味しくて、ガタガタと窓ガラスを揺らす風の音を聞きながら、ぼんやりと外を眺めていた。



 安室が部屋を空けると言って出て行ってから、私はハロと二人のんびりと日々を過ごした。今までと何も変わらなかったけれど、ハロがいる分少しだけ規則正しい生活になった。朝には起きてハロにご飯をあげるし、そのあとは着替えをして散歩に行く。

 そのまま近くのスーパーに買い物をして、惣菜を買った。コロッケとか、エビフライとか。いつもの弁当とおかずは変わらないけど、家に帰ると味噌汁を作る。昨日より少し味噌を少なめにしたり、粉末だしの量を変えてみたり、一食ずつ味を変えてみた。
 ネギの切り方も、ちょっとずつ上手くなってきた気がする。時々調子に乗ってると全部繋がっちゃってるし、手はネギ臭い。でも、日々が暇で満ちていたから、いくらでも試みる時間はあった。

 続けているうちにちょっとずつ、安室が作る味噌汁の味に似ていくと、なんだか嬉しいと思えた。案外料理の才能あるんじゃないの、なんて調子に乗りながら。皿を片付け終わると、ハロと一緒に昼寝をする。目を覚ましたらボーっとテレビを見て、カーペットにコロコロを掛けて、夕食の準備をした。
 
「……暇」

 ぽつりと呟きを落とす。
 別に行動制限なんてされていないのだから、好きな場所に行けば良かった。この辺りにも大分慣れてきていたし。けれど、安室がいないから、何かあったときに対処ができないのが怖かった。もし補導されたら、事件に巻き込まれたら――。その不安を感じて初めて、私は彼がいるということに安心していたのだと気づく。
 寂しいとか、そういうことじゃない。
 突然知らない土地に来たという時に、安室という男がずっと傍にいることに、知らないうちに安堵していたのだと思う。

「きしめん食べたいな〜……」

 そろそろ見慣れてきた、他人の部屋の天井を眺めてため息をついた。
 今日で丁度七日目になる。もうすぐ、帰ってくるだろうか。今回の仕事がどういう仕事かも分からないが、もしかしたら長引くかもしれない。

 夕食の片づけ(片づけの仕方は教わらなかったので、洗剤をつけすぎた――)を終えたあと、欠伸をしながら風呂に入ろうと湯を沸かしていたら、ハロが高い声で吠えた。その声に、もしかして、と思った。
 トントン、と扉が鳴る。私はリビングに戻ってカーディガンを羽織ってから、彼を出迎えに行こうとした。


「うわっ、どうしたのハロ」


 今まで悪戯などしたことがなかったのに、ハロは私の部屋着の裾を咥えて離さないのだ。さっきご飯もあげたし、体調が悪そうな風でもないけれど。兎に角玄関の方に向かわせてくれないので、心を痛めながらひとまずリビングの扉を閉めた。
 ――どうしたんだろう。安室さんが帰ってくると分かって興奮してたとか。
 にしたって、きっと今までも何度か留守番の経験はあるだろう。ハロの様子が気にかかりながら、私はひとまず玄関へと向かった。まあ、彼に聞けば良いだろう。

「おかえりなさい、お仕事――……」

 どうでした、と顔を上げて、私は表情を固めた。
 ここに尋ねてくるのは、安室透しかいない。そりゃあ、そうだ。だって、私がこの部屋にいると知るのはきっと彼しかいないから。――目の前にいる男は、誰だ。
 
 漫画の知識があっても、見たこともない男だった。寧ろ、顔もよく窺えなかった。
 黒いフードに覆われて、顔の半分は影が落ちている。どうしよう、と狼狽えながら、ひとまず玄関を閉めようとしたとき、男の足が間に割って入った。

「だ、誰……?」

 恐る恐る尋ねるが、反応はない。ただ、その大きな手が私の手をぐっと掴んだ。これはまずいと思い始めたのは、その時だ。急いで玄関の扉を大きく閉め切ろうとしたが、男はその前に体を入り込ませた。

「いっ――……!」

 がたん、と後頭部に衝撃が走る。痛い。がんがんと痛む頭を押さえることもできないまま、安室の買ってくれた部屋着が捲られた。捲られ――。顔から血の気が引いていく。ゾっと寒気がした。リビングのほうでは、ハロが甲高く鳴く声がする。

「や、めて! おい、やめろってば!」

 どうして――どこで? 散歩のとき、スーパーに買い物に行ったとき。心当たりこそないが、可能性はいくらでも転がっていた。安室のものとは確実に異なる、無遠慮な手がパンツを脱がす。ひんやりとした空気が肌を刺した。

 嫌だ!
 こんなの、漫画もクソも関係ない。ただのレイプ魔だ。何が名探偵コナンだよ。なんとかその腹を蹴りつけようとしたら、足首を軽く掴まれた。それが性行為を想像させて、ますます恐怖を煽った。

「あ、安室さ……あむろさあん」

 殆ど泣き声も半分に、この世界で唯一――一時とは言ったって、彼が警戒していると言ったって――私にとっては、唯一の名前を呼んだ。それでどうにかなるかは知らなかった。でも、彼しかいなかった。

 
 ガァン! と、恐らく周辺一帯に響いた音。
 玄関が消し飛ぶのではないか、というほどの勢いで開いた。廊下の灯りが、暗い玄関に差し込む。そこに立つ男は、やはり満月に見紛うような姿をしていた。
 目の前にいる男が舌打ちをする。私の腕を容易く放ると、玄関に向かって逃げようと足を踏み出した。その足が、一瞬にして掬われて――正直、どこをどうして掬われたのかは見えなかった。男はそのまま引っ繰り返り、頭を固い玄関へと打ち付けた。

 そのまま動かなくなったシルエットを見下ろし、安室はゆっくりと私のほうへと歩み寄った。「安室さん」――小さく呼ぶと、彼は少しだけ口元を微笑ませた。指先が震えている。

「呼んでくれてありがとう」

 すっと腰を屈めて、彼は笑った。必要以上に近寄らないのは、きっと安室なりの配慮だ。それでも、柔らかなその声に安堵して、震える指先が次第に落ち着いてきた。ああ、良かった。彼が来てくれて――。

 
 そう、私も息をつこうとしたときだった。
 なぜだか、もう一度衝撃が走るような音が響いたのだ。
 でも、玄関はずっと開きっぱなしで、でも確かにその音は前方から聞こえた。煙の匂いがする。煙草――というか、蚊取り線香が燃えているのに近いような、煙の匂い。ゆっくりと顔を上げたら、安室が微笑んでいるままだ。

 煙は、その肩から出ていた。
 なんで、肩から煙なんか。ジッとその場所を観察していたら、ぼたっと足元に温かいものが落ちる。安室の表情が、微笑から苦痛へと変わっていくのがよく分かった。

「……ぐ」

 その背中越しに見える男の手に光る銃口が、背後で割れたすりガラスが。すべてを物語っている。見上げたままの私を見て、安室はぼた、ぼたと血を流しながら、しかし苦し気に一笑した。心配するな、とでも言いたげな表情だった。



prev Babe! next
Shhh...