10


 少し遅れて、血の匂いがあたりを満たした。
 彼は一つ微笑を落としてから、振り返って長い脚を大きく振りかぶり、男の側頭部に当てた。続けざまに拳を握り、ボディブローが決まると、今度こそ男の体が大きく傾いて倒れ込む。
 まるで映画のワンシーンのように惚けていたが、そんな場合ではない。私は慌てて安室の傍に駆け寄った。どうして、銃なんか。暴漢だとしても、ここは日本だ。やすやすと銃など手に入るのだろうか。分からない。私の知る日本ではなかったから。

 でも、私の玄関に滴り落ちていく血だけは現実だった。そこだけ色が付いたみたいに、目が離せない。
「あ、安室さん、病院……」
「――ああ、いや、大丈夫……。鍵をしっかりしめて、部屋に入ってなさい」
「でも、血が出て……」
 ちょっとやそっとの切り傷ではない。応急手当の心得など微塵もなかったが、私にもそれが大した怪我だということは分かった。彼の着ているシャツが、どんどんとその赤色で滲んでいく。傷跡が見えない分、思いのほかグロテスクではなかった。
 安室はゆるりと口元を今一度緩めて、男の首根っこを引っ掴むと私を見下げ、笑いかけた。

「もう大丈夫だ。僕も今から病院に行くから、君も服を着て、休んでいて」

 有無を言わさない強い声色が、幼い子どもに言い聞かせるように言った。安室はそれから、思い出したように「すみません、あと一日ハロを頼みます」と言い残し、玄関を重たく閉めた。
 ――どうしよう。本当に大丈夫なのかな。
 いや、でも彼の立場上、下手に通報とかしたほうが迷惑なのかもしれない。安室は大丈夫だと言っていたし――。本当に――? あんなに、血が出ていたのに。
 振り返ると、玄関とリビングを区切る扉のすりガラスが粉々に割れて飛び散っている。玄関の床には、消えることのない赤い染みが零れ落ちていた。私はそれを見遣って、パンツとズボンを乱雑に上げると、玄関の扉を大きく開け放った。赤い血が点々と彼の部屋に向かって続いている。

 玄関の扉は、半分開いたままになっていた。
 
 そんなはずがない。安室が、扉を開けっ放しにするわけがない。
 私は慌てて彼の部屋まで走った。先ほどいた男は、ガムテープでぐるぐると体を巻かれて転がっている。暗い部屋の灯りを手探りで探す。自分の住む部屋と同じ間取りなので、スイッチの場所は分かっていた。

 廊下を明るく照らし、奥へと続く血痕を辿る。恐ろしくはなかった。それよりも、安室のことが心配でしょうがなかった。リビングの扉を開けて、息を呑んだ。フローリングで途切れた血痕と、顔色を悪くして倒れ込んだ彼の姿が、目に入る。

「――安室さん!!」

 その体に触れると、鈍い声が唸った。ああ、動かすと痛いのか。どうしたら良いんだ。やっぱり、病院――? 彼の携帯が傍に転がっていた。私の世界のものと同じなら、緊急連絡はロックを解かなくても大丈夫なはずだ。
「な、なんだっけ、イチイチ……ゼロは警察だし……」
 パニックになって震える指先を画面に滑らせていたら、大きな手ががしりと私の手首を掴んだ。「安室さん」と呼びかければ、彼は途切れ途切れに何かを訴えている。耳を寄せると、小さな声が――駄目だ――そう呟いていたのが分かった。

「警察も、病院も、駄目だ……。よしてくれ……」
「で、でも!」
「かざみに……」

 するっと私の手を掴んでいた大きな手が落ちる。ぎょっとして彼のほうを振り向く。息は、していた。生きてはいる。生きてはいるが――気を失っていた。痛みのショックなのか、もしかして血を流しすぎた? なら余計に病院に行かないと。
 けれど、彼が病院が駄目だというのには理由があるはずだ。
 潜入捜査員として、拒む理由が。ならどうしたら良い。風見、というのは確か彼の部下の名前だった気がする。映画にも出ていた、眼鏡の気難しそうな公安警察。けれど、彼の電話番号なんて知らない。彼のロックの掛かった携帯の連絡先を覗くこともできない。ダメ元で車のナンバーも入れてみたが、弾かれてしまった。警察まで――警察なんか、行ったことがない。交番じゃあ駄目だ。


 ――私の所為だ。


 どうしよう、このまま彼が死んでしまったら。病院に行くことで、彼の潜入捜査が終わってしまったら。
 私の読んでいた漫画には、そんな描写はなかった。彼はいまだに安室透として、バーボンとして健在しているし、映画以外に怪我をするような描写もなかったはずだ。なら、私のせいじゃないか。私が彼の傍にいた所為だ。そもそも、私のことを気に掛けていなきゃあ、安室があんな暴漢一人にやられることなんてない。

「……ふ、ぐずっ」

 じわじわと涙が零れてきた。
 病院に行く? このまま置いておく? どの判断も違う気がする。気がするけど、私にはどうしようもなかった。命の方が大切だ。私はそう思う。安室は――どうなのだろう。親友が死んで、その意思を引き継いで、日本を守るために自ら前線に立っていて――。そんな彼は、命と素性のどちらを取るのだろうか。想像は、できなかった。

 応急処置――。

 最後に浮かんだのはその文字だ。今ここで、出来る限りの応急手当をすること。血は――このまま流しておいちゃ駄目。傷跡は? 銃で撃たれたときって、そのまま塞いじゃって良いの。ああ、駄目。私ではやっぱり無理だ。かといって、銃で撃たれた時の処置だなんて、そんなものの知識誰に――。誰に。


「――……いた」


 私は鼻がかった声で、一人呟いた。
 いた。いた――いた! きっと銃のことに知識もあって、彼の素性に勘付いている人。きっと、それを知っても公言をするようなことのない人。医療の心得があるかは分からないけど、その居場所も分かる。ハロの散歩をするときにも、遠目に何度か確認していた。私は小さく息を呑んで、安室の姿を見下ろした。

「……ごめん。本当にごめんなさい」

 でも、このまま置いていくことだけはできない。
 今が私の知る漫画のどのあたりなのかも分からないけれど、安室透がいるのなら、時期としては大丈夫なはずだ。ごくんと喉を鳴らして、私は彼のシャツを引っぺがした。べり、と既に乾いた血の部分が剥がれる音がした。それからシャツでぎゅうぎゅうと傷跡を圧迫して、クローゼットをひっくり返し新しい服を着せた。なるべく分厚い生地のもの。匂いは誤魔化すために、そのあたりにあった酒をゴクゴクと飲み干した。

 それから彼の重たい体を抱えて、マンションの表に出る。
 ただでさえ大きいのに、意識がないと運ぶのは一苦労だった。というか、殆ど引きずった。足をガンガンと階段に打ち付ける安室に、内心で謝る。表の道路に出て、タクシーを捕まえた。

「すみません、おにいちゃんが酔っ払っちゃって……。乗せてもらえますか?」
「ああ、良いですよ。どうぞ」

 お金は安室に貰った三万円の残り(何かあったときのためにと持たされていた――)を使った。なんだか、死体のアリバイ工作をしている気分だ。そして辿り着いた場所のインターフォンを、ゆっくりと鳴らした。

 ドクドクと鼓動が大きく鳴る。

 自分でも緊張しているのが分かった。だって、もしこれがあのシーンよりも前だったら――私は漫画の中の彼らのストーリーを、大きく妨害することになる。それでも、私が介入したことで、彼が死ぬなんて。そんなことは、あってはならないのだ。

『――はい』
「よ、夜遅くにすみません。ちょっと、おにいちゃんが酔っ払っちゃって……運ぶのを手伝ってもらえませんか」

 やや、長い沈黙があたりを包む。
 その沈黙を破って、扉が開いた。私の姿を見とめると、少し不思議そうに、しかしその視線が紛れもなく抱えた安室に向いたのも分かった。私は彼が大きな門扉を開けたのと同時に、冷たい石段にへばりつくように頭を下げた。


「お願い……っ、お願いします。じゅ、銃で撃たれて……! 怪我してるんです。私のせいで、血がいっぱいでてて……! お願い、助けて……」
「――…………」

 
 目いっぱいに下げた頭に、視線が刺さる。
 大丈夫。悪い人ではないはずだから。きっと、大丈夫。鼓動が鳴るのを押さえながらもう一段階低く頭を下げると、頭上から声が降りかかった。落ち着いた声色は、アニメのなかのままだ。

「そう言われましても、僕はしがない院生なのですが」
「あ、えっと……」 
「はは。ずいぶんと飲んだようですね、外は寒いでしょう。中へどうぞ」

 大きな手が差し出された。安室の手より、一回りほどあるだろうか。節の目立つ手だった。鼓動を大きくしながら頭を上げると、その薄っすらと細められた視線と目が合った。眼鏡の奥の瞳が、恐ろしいほど鋭くこちらを射抜いていた。


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Shhh...