08


 降谷は不思議な男だった。
 それは赤井のように見た目とのギャップが大きいというわけではなくて、不思議な雰囲気を持った人だという意味だ。チープに一言で言い表すなら、ミステリアスな人だと思った。
 悪い人ではない。酒を嗜みながらも度を過ぎることなく気を遣ってくれるし、赤井に憎まれ口を叩いても心底嫌っているわけではないのが見て取れた。ただ、彼は自らの素性をまったくと言っていいほど明かさない。
 秘密だと言われているわけでもないが、そういう話になるのを避けているように思う。赤井とはどういう関係なのかと尋ねると「仕事仲間」だと言った。ということは、FBIに関わるような仕事なのだろうか。だとしたら、秘密主義なのも不思議ではないのかもしれない。

 結局三時間弱飲み明かして、分かったのは彼の名前と、料理が得意だということくらいだった。
 しかし話してみるとやはり落ち着いた口調が際立って、二十代後半ほどだろうかと思う。もしかしたら三十も近いかもしれない。バーカウンターに置かれたコースターを眺めながら、降谷は笑った。

「熱烈な視線ですね。またコイツが馬鹿言いますよ」
「あ、いや、ごめんなさい」
「あまり見ないほうが良い。日本の若い女はこの顔に弱いらしい」
「そんな呪いみたいに言わないであげてよ」

 拗ねたように自分のグラスを傾けて、赤井が喉をゴクリと大きく鳴らした。よく水のように飲み干せるものだと感心する。先ほどから店に並んだウィスキーを制覇せんという勢いだ。

「ただ、降谷さん大人っぽいから……いくつくらいかな〜と思ってたんです」

 ノンアルコールのフルーツカクテルを一口。爽やかなのど越しに満足しながら告げると、降谷が私の言葉を真似るように「大人っぽい」と復唱した。私はそれに頷く。揺らしたグラスの中で氷がカロンと溶けていく。

「だって、私とそんなに離れてませんよね? すごい高そうなものつけてるし……すごいなあーって思って。尊敬するっていうか……あ、別に赤井さんがそうじゃないって言ってるわけじゃないですから!」

 降谷さんの方が歳が近いから言ってるだけですよ、とフォローを入れておく。また先ほどのようにあらぬ誤解を受けては堪らないと思った。それなのに、なぜか笑いだしたのは赤井本人であった。
 しかもここぞとばかりの大爆笑だ。
 アルコールが回っているということもあったのだろうが、この間車内で笑われた時と同じくらいには大口を開けて笑っている。何か失言をしただろうか。笑われたと思うとなんだか無性に恥ずかしくなってきて、私は項を掻きながら困惑を顔に浮かべる。店の中に彼の笑い声が響いて数秒、降谷がにこやかに手元にあったコースターを赤井のほうへと飛ばした。――飛ばした。こう、手裏剣のように、シュっと。
 額にべちっとそれが当たって、赤井はようやくのこと笑い声をひっこめた。しかし未だに尾を引いているのか、輪郭をなぞりながら「そうか」「なるほど」と呟いている。

「ニヤニヤしてないでなんか言ってくださいよお」
「すまない、あまりにその……」

 ククク、と喉を鳴らし、その笑い声をなんとかウィスキーで流し込むと、赤井は私を挟んで降谷のほうを指さした。それからゆっくり、指先を赤井自身のほうへと向き直させる。

「三つだ」

 ピン、と指が立つ。親指と、人差し指と、中指。真ん中の三本じゃないのは変な感じがする。アメリカではこうやって数字を数えるのだろうか――さすがにそこまではドラマや映画の知識では補えなかった。
 長い指先を見下ろして、きょとんと瞬く。「三つ?」なんのことか分からないまま首を傾けると、赤井は頷いて指先を軽くバラつかせる。


「三つだよ、俺と降谷くんの年齢差」
「み……え? 三十代ってこと!?」


 ぎょっとして反対側を振り返ると、降谷は気まずそうに視線を落として頷いた。確か赤井が三十九になるといっていたから、彼は三十六歳ということか。
 ――三十六!? 改めて顔をジィと眺めてみるけれど、どう見ても十歳は若く見える。落ち着いているから年上だとは思ったが、黙って立っていたら本当に判断がつかないくらいだ。目は大きいのに皺など一つも寄っていないし、気持ちふっくらとしたような輪郭や、染みの一つ見当たらない肌。どこを取ってもまるで二十代――。

「あ……」

 私はふと頬杖をついた手元を見た。
 その指の節々にだけ、確かに若くはない皺が寄っている。てっきり職業柄皮が固いのかと思っていたが、節々がゴツと浮かび上がっているのが分かった。

「ごめんなさい! 私何も知らなくて……」

 勢いよく頭を下げると、降谷が「そんな」と慌てたように肩に手を置いた。
 その手が、決して楽をして生きている男とは思えなくて――。彼の人生まで否定してしまったような、どうしようもなく罪悪感に駆られた。

「気にしないでください。会議じゃ嘗められたことばかり言われるので、慣れてます」
「馬鹿にしようとしたわけじゃないんです……。本当に」

 腰を折り曲げた私に、降谷はフっと息を零すように笑った。
 一度肩を竦めると、笑いながらポンポン、と軽く肩を叩かれる。顔を上げて、という意味だと思い、私はチラリと降谷を見上げた。

「あはは、分かってますよ。おかしな人だなあ」
「おかしな……」
「失礼、悪口ではないですよ。可愛らしいという意味ですから」

 唇に指を当てながら笑うと、ふにりとした弾力が目に見えて分かった。小麦色の肌は、バーのオレンジがかったランプでほんのりと血色を帯びて輝く。荒れた皮一枚見当たらない唇も動揺に、濡れたような艶が光っていた。吊りあがっていた眉がふと下がって、ますます幼い顔に拍車が掛かる。笑うと睫毛の束が目元に影を落とした。

 一言弁明したいのだが、これは浮気心ではないのだ。

 なんというのか――美しいものに目を奪われてしまったというか。
 もう少し俗っぽい感情だったかもしれない。ただ、赤井の言っていた「日本の若い女はこの顔に弱い」という言葉が頭を過ぎって、その言葉をようやく理解してしまった。

 小さく口を開けて身を固まらせた私の肩を、グイと大きな手が引いた。ハっと我に返って顔だけを振り向かせると、ジトリと機嫌悪そうに猫に似た目つきが細められた。降谷とは異なる、目元に寄った皺と隈が、ぐっと深くなる。

「……呪いを受けたな?」
「イイエ……滅相も……」
「正直に言えば許そうか」
「だって、降谷さんメチャクチャイケメンだったんです」

 最早イケメンなんて言葉で表して良いものか。
 つい何時間前かに「違う」と言い切ったものだから、その後ろめたさたるや。視線を逸らし続けて暫く。カウンターの上でたたらを踏む彼の指先の音に、目の前の不機嫌そうな男を窺い見る。

 しっかりと付け根から通った鼻筋が、彼の顔に濃く陰影をつけている。
 そりゃあ、赤井だって美形だとも。そんなことは分かっている。何度見たって見慣れない。ただ、先ほどの表情が反則級でついつい見惚れてしまっただけであり――心の中でぐちぐちと言い訳を続けていたら、彼の視線が数センチの距離に近づいた。

「うわっ!?」

 驚きのあまり腰を浮かせかけた、押さえたのは赤井の腕だ。
 飲む前に、酒には強いほうだと降谷が語っていた。アルコールの匂いは強く香るけれど、酔っているわけでは――ない、のだろうか。分からなかった。覚えているのは彼が私の顔を瞳に映した時、長い睫毛をうっそりと、ゆったりと下げて瞬いたことだ。

 ウィスキーの味がした。
 あと、皮膚の表面についた煙草の苦味。

 私が口を引き結んだまま固まっていたら、赤井は満足そうに小さく口角を持ち上げて、そのまま上半身をカウンターに預けて倒れ込んでしまった。

「――……」
「僕、帰った方が良いですかね」

 はあ、とわざとらしく聞こえるようにため息をついた降谷を振り返って、私は感情を整理できないままブンブンと首を横に振った。この口を次に開いたら、恐らく恥ずかしさのあまり火を噴いてしまうのではないだろうか――それほどの熱が、顔に集まっているのが分かるのだ。