09
「どうしよう、マジもう顔見れない……」
ぐずぐずと鼻を啜りながら布団に蹲ると、スピーカー越しに苦笑いを零したのが、息交じりの「まあまあ」という声で分かった。昼過ぎからは赤井にカフェを誘われているというのに、未だにこのざまである。
赤井からすれば酔っ払いの行き過ぎた絡みかもしれないが、実は思春期ヤンキー真っただ中の私からすればセカンドキス――この人と一緒にいると楽しい、人生のパートナーになれば嬉しい――というだけの感覚であった心に雷を落とすような出来事だった。
その雷にボロボロの黒ずみとなった私の羞恥心が、私をベッドの上から逃してくれない。早く準備をしなくてはと思っているのに、どんな感情で彼と顔を合わせれば良いのか。お洒落をすることすら恥ずかしく思えてしまう。
『そんなこと言わずに。――ああ、僕もそろそろ』
「あっ、ありがとう。お仕事頑張ってね」
『ええ。また話は聞きますから』
では、と通話が切れて、私は両腕をベッドの外に投げ出した。
以前酔いつぶれてしまった赤井をタクシーに押し込んだ彼は、私に電話番号が書かれたコースターを手渡してくれた。あのバーのロゴが入ったそれに走る文字は、赤井とは違う大振りながら読みやすい、教科書のような文字だ。
「出れるかは分かりませんが、いつでも電話して」と彼は言った。なんでもメッセージアプリだとかはあまり好まないのだと言う。普段メールしか使わない赤井と重なって、やはり根っこは似ているのかもしれないと思った。
以来、こうして私の着信に気づけば折り返してくれる。いつも十分もないくらいの短い電話ではあるものの、気が付けば彼に懐いている自分もいた。歳の離れた身内ができたみたいな気持ちだ。
――いや、そんな思いふけっている場合ではないのだ。
家を出るまであと一時間。この格好では会えない。赤井も大人の男だ、こちらが気にしていない素振りをすれば、きっと覚えていても覚えていないフリをしてくれるに違いない。しかし、お見合いということは結婚が先にあるというわけで、結婚をしたらまあキスくらいは待ち受けているわけで――。
この間、あれほど見惚れた降谷の顔がもう思い出せない。
顔に優劣をつけるようなことはしたくないが、二人とも負けず劣らずの美形であることは確かだ。なのに、彼らの何が違うのか、赤井の顔を思い出すと見惚れるというより腹の内にある感情がブワっと溢れそうになってしまう。
どうしよう、と心の内は晴れないままに、私はクローゼットを開けた。結局、いつも以上に気合が入ってしまうのはしょうがないと思いたいのだ。
◇
「やあ」
ちらりと肩を竦めた男は、傘を差した片手を軽くこちらに差し出した。私はギクリとしながらその傘の中に入る。外は小雨が降っていて、まだ明るいはずの昼下がりすら夜のようにも感じる。日の差さない街並みは、普段以上に彼の姿を際立たせた。
いつも黒い服を着て目立たない風に思うのに、どうしてだか日の当たる穏やかな昼下がりより、夜に輝きを増す男であったからだ。
「元気だったか」
「あ、はい……まあ……」
貴方に振り回されたこと以外はね!
そんな語尾でもつけたくなったが、ぶんぶんと首を振る。ほら、彼だっていつも通りじゃないか。私が一人うだうだしていたってしょうがないのだ。
「紅茶が美味しいって聞きました」
「ティーカップも本場のものを集めているそうだ。きっと気に入る」
「へえ〜、このあたりにあるなんて、全然……」
知らなかった、振り返った時に私の肩と彼の傘を持つ手がぶつかる。
瞬間、ばさっと傘が足元に落ちた。殆ど霧のような小さな雨粒が、頬を湿らせる。私は傘を見下ろして、それから赤井を見上げて――毛を逆立てるような勢いで頬を染めた。
彼の顔色もまた、今まで見たことがないくらいに赤らんでいたからだ。
風邪ひいたのかな、なんて初心に鈍感に恋の迷宮の中にいられれば良かったのに。
普段から赤井があまりに愛おしそうな視線を送るから、彼が顔を赤らめている意味まですぐに辿り着いてしまった。平然な素振りをしていたくせに、全部覚えているではないか。
「ていうか、意識しまくりじゃん!!」
「あまり大きな声で言わないでくれ、自覚はあるんだ」
つい零れた心の声に、彼は視線を俯かせて睫毛を僅かに震わせた。すっと高い位置にある腰を屈めて傘を拾い上げる。その間にも、ぐんぐんと彼の顔が赤くなっていくのが見て取れた。
それから私のコートについた小さな雫たちを、ぱっぱとその手で払う。襟元の雫を落としながら、彼は静かに「悪かった」と囁いた。
「まさか自分でも、あそこまで酒に弱くなっているとは思わなかったんだ」
「お酒飲むの久しぶりだったんですか?」
「止められていた。現実から逃げるのに酒は良くないと……」
医者かと尋ねると、彼は「医者に言われたくらいじゃ止めないが」と小さく笑った。車の音が聞こえて、私を道の端へと手招く。
「だから久しぶりだった。酒は好きでね……しかし、悪かった。反省はしている」
「あ……その、別に嫌とかじゃないんですが……」
彼の声色が落ち込んでいるように思えて、私はもにょもにょと口篭りながら言葉を続けた。別に嫌だったわけではない、それは確かだ。嫌いな男にキスをされたら、羞恥心より先に手が出ている。
嫌じゃないという言葉に、ピクリとその視線が持ち上がる。
傘の陰になって、いつもよりは翡翠の瞳が陰っている。それでも、レンズの奥まで透けて見えてしまいそう。中央にある深い瞳孔の色が、ジィ、とブレもせずにこちらを捉えていた。出っ張った頬骨の片側に、古い傷跡が見える。ピ、と走った傷は染みのように色素を少しだけ濃くしていた。
「何故」
「……え?」
「どうして、嫌とは思わない。兄のように慕っているからか、親から薦められた婚姻だからか、それとも――」
目が僅かにだけ細められた。
サスペンス劇場の探偵役のような、静々としながらもどこか自信に満ちた眼差しだ。だというのに、声色だけは掠れていた。喉から絞りだしたような、傘さえなければ車の音に掻き消えてしまいそうな声だった。
「その理由に、俺が理由をつけても構わないか」
――どうして、そんなに弱弱しく、遠まわしに尋ねるのだろう。
好きなのかと聞いてくれれば、私は頷くだろうに。何も聞かずにキスをすれば、昨日と同じように顔を赤くして戸惑うだろうに。彼はまるで、私に許可を取るような態度で、寒さに耐えきれない吐息を零しながらそう言った。
「私がつける」
その広い背を、僅かに屈んだコートの向こう側を、支えたいと思った。
キス一つに理由を尋ねるような臆病さを愛おしむと同時に、それなら私が彼の方に歩み寄りたい。
「私が、理由をつける。だからっ……えっと、聞かなくても良いですから!」
「――……スズ」
「あー、でも! やっぱりキスとかは、恥ずかしいから一呼吸ほしいですけ、ど……」
その冷たい皮膚が、頬に触れる。煙草の匂いがした。彼の車の中と同じ匂い。
先ほどまで間近で見ていた体温が、頬を掠めて、遅れて「ちゅ」と絵に描いたようなリップ音が鳴った。
「頬なら良いかな」
笑ったのだろう、耳元を彼の息が擽る。ぴくりと肩を震わせて「赤井さん」と彼を呼ぶと、赤井はその唇を小さく目元にも落とした。
「つめたっ」
「君が熱いんだ」
「嘘、赤井さんが冷えすぎなんだよ。だからこれは……暖取りっていうか」
「理由って、そういうことか? はは、ふ、フフ……」
笑う。その顔が好きだ。
くしゃと目元や眉間に皺を寄せて、白い歯が覗く。彼が触れた頬や目元に指を遣ると、そこだけ冷たいような気がした。雨粒に濡れた彼の体のせいかもしれない。そう思ったら、胸が詰まるみたいに嬉しくて、私は笑った。雨足は少しだけ、強くなっていた。