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「な、何それ〜ッ!?」
キィンとした声が部屋に響いて、私は苦く笑った。
いつも通りの一間だが、今日はテーブルを囲う人数が一人多い。先ほど駐輪場まで自転車を運んでくれた男だ。明るい電気の下で見ても、やはりお人好しそうな、少し冴えない顔をしていた。彼は苦く「声が大きいよ」と告げる。
「あ、ご、ごめん。やだ、もっと早く言ってくれれば良かったのに!」
「スズさんなりに気を遣ったんだよ。そんな責めちゃダメだ」
「気にしないでください。知り合いなのは確かなので……」
三池の買ってきてくれた幕の内弁当を有難く突きながら首を振る。向かいにいる男は唐揚げ弁当の特盛を美味しそうに頬張った。見ているだけでも食欲が刺激される食べっぷりだ。感心して眺めていると、ふと三池の視線がジイっと男の顔に注がれていることに気が付く。
「なるほど〜。こういうところが好きなんですね」
「えっ」
彼女の幼い顔がみるみるうちに赤くなった。
以前二人で買い物をしているときに姉妹かと間違われたものだが、三池の顔つきはその年齢に比べて幼い部分がある。年齢詐称の度合でいけば、降谷ともいい勝負だ。まるで少女が初恋をするような表情で、男が頬を膨らませているところを見つめていた。
彼は千葉という、三池の同僚でもあり、兼恋人だ。
あれほどデートじゃないと言い張っていたが、やっぱり付き合っていたのか。紹介を受けたときはそう呆れたものの、シャイで少し我儘な三池にはしっくりとくる温厚な男だ。何度見ても父とよく似た雰囲気があって、不思議と初対面にも関わらず傍にいると安心した。三池から私の話を聞いていたらしく、彼もまた優しく笑いかけてくれたものだ。
「兎に角、帰りはもう少し明るい時間にしてもらうのが良いと思うけど……」
「そうですよ! 私も仕事さえ遅くなきゃ迎えにいくのに」
「自転車買ってくれたじゃないですか。よっぽどのことがなきゃ自転車に追いついてくる不審者なんてそうそういないってば」
能天気に笑いながら言うと、彼らはグルンと雁首揃えて振り向いた。
「そのよっぽどがあっただろ!」
「そのよっぽどがあったでしょ!」
まるで両親かのように私を叱りつけるものだから、つい肩を縮こまらせて頷く。正義感に厚いところは、そっくりのようだ。
その後、千葉を見送って今日は泊まるという三池に布団を引っ張り出した。久しぶりに隣に人が寝ているという事実に、その日はぐっすりと熟睡できた。
◆
小さく欠伸を零す。運転席で千葉が笑った。
あの日以来、時間さえ合えば千葉か三池がバイト先に迎えに来るようになっていた。隣にいる男ともすっかり顔なじみで、傍にいると力が抜けてしまう。彼の性格を表したようなゆったりとした運転に睡眠欲がぐんと増す。
「千葉っち〜、すっごく眠たい……」
「その呼び方やめろって……」
「やばい。家着くまで寝ても良い?」
最初はふざけて呼んだ愛称であったが、今では口に馴染んでしまった。
この世界で唯一の頼り所である三池の繋がりだということもあり、もとより警戒心があるほうでもないが、それでも心を開くのに時間は掛からなかった。三池の同期だと言っていたから、恐らく以前の私とさして変わらない齢だろう。彼らからすれば私は保護するべき未成年かもしれなかったが、私からすれば良き友人のように感じる。
私は彼の返事も待たずに瞼を落とした。
ハンドルを握る男は呆れたように私を呼んだが、決して揺すり起そうとはしなかった。
――赤井の夢を見た。車に乗っていたからだろうか。
彼も、先ほどの千葉と同じようにハンドルを握り、煙草を軽く食んでいた。深く息を吸い、煙を窓の外に燻らせる。私はその横顔を見てこっそりとほくそ笑んだ。格好いいと直接投げかけても嫌がることはないだろうが、恥ずかしがると煙草を消してしまうからだ。
恥ずかしいことを言うくせに、恥ずかしいことを言われ慣れない男だった。
目元の皺が柔く寄って、困ったように笑うのが好きなのだ。どうしようもなく胸がギュウと締め付けられて、愛おしくて、しょうがない。
「……会いたいな」
夢だと分かりながらつぶやくと、ふとそのうつくしい翡翠がこちらを向いた。
「ホォー……誰に?」
「そりゃ、赤井さん以外いないですけど」
「不思議なことを言うな。こんなに近くにいるのに」
彼は笑いながら煙草の頭を灰皿に押し付けた。ほら、今恥ずかしがったのだ。カワイイ。私の中の彼の想像があまりに鮮明なものだから、私のほうまで恥ずかしくなってきた。
「これからずっと一緒かは分からないのに」
「今日は意地が悪いことばかり言う。嫌いになったのか?」
「……なってませ〜ん」
フン、と軽く鼻を鳴らした。
一瞬弱気そうになった眼差しに言葉が詰まった。悔しいが、物凄く可愛い。口を軽く尖らせたら、彼は喉を鳴らすようにして笑った。
「俺はどこにいても君を見つける自信があるのにな」
「そうかな? 赤井さんの手の届かないトコに行っちゃったらどうすんの?」
「例えば? 宇宙とかか」
どうしたものかな、彼は揶揄うように考え込んだ。それからふと口角を持ち上げて、ハンドルに顎を載せ私を見遣る。
「――案外、近くにあるもんだ。きっと君も近くにいるに違いないさ」
パっと明るくなった瞼の先に目が覚める。
ドアを開けた拍子にランプがついたのだ。ぐっと伸びをしながら千葉に礼を述べると、彼は苦笑いを浮かべながら後部座席にある荷物を持った。私もそのうちに助手席を降りる。
「ずいぶん幸せそうだったけど、そんなに良い夢だった?」
「あー……うん!」
ニコと明るく笑みを浮かべたら、彼は満足げに笑った。
――やっぱり、今度もう一度新一に連絡を取ってみよう。
彼は何やら心当たりがありそうだったし、もう少しまともな情報が掴めるかもしれない。
この生活に馴染んではいけない。
これは本当の私の姿でもないし、求めるべき場所でもない。三池も千葉も実に良い恩人たちだが、情が湧きすぎると帰ろうという気力がなくなってしまう。駄目だ、もっと必死になって見つけようと思わなければ、見つかるものも見つからないのかもしれない。
私にとっての本当の生活とは、愛するべき家族がいて、その家族に愛する人が加わった穏やかな世界だ。この姿だって、本来の私のものではない。未成年だからと案じてくれる周囲の人々に、甘えすぎてはいけない。――言い方こそ悪いが、私は彼らに寄生しているも同然なのだから。
「難しいこと考えてる?」
「……なんで分かったの」
「そういう顔してる。苗子ちゃんにソックリだなあ」
千葉は可笑しそうにふっくらとした頬をさらに持ち上げて笑った。
この世界が、もっと私に厳しければ。いっそ放り出してくれれば、死にたいと思わせてくれれば。私はその優し気な声になんだか泣きそうになりながら、一緒に階段をあがった。カン、カンと馴染む音がする。
「……?」
背中がチクリとする感覚に、ふと背後を振り返った。
暗い坂道に人影は見当たらない。誰かの視線であったように思ったのだが――。さすがに考えすぎか。きっと良い夢ばかり見て、それを失うのを恐れてしまっただけだ。そんなに案じなくとも良いのに。
「じゃあ、戸締りはしっかりね」
「はあい。あ、明日はバイトないからね! おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
私は手を振って扉を閉めた。彼の言う通り鍵とチェーンロックを掛け、窓の鍵が掛かっていることを確認してから部屋着に着替えた。鼻歌を歌いながら風呂掃除でもするかと考えていたら、ふと玄関からインターフォンが鳴った。
ギクリとした。インターフォンが鳴るなんてことが、ほとんどなかった。
当たり前だ。この世界に友人はいないし、訪ねてくるのは三池か千葉しかいない。心当たりはなかったが、こんな時間に一人で出るのもと思い無視を決め込んだのだ。