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「店長、お先に失礼します!」

 厨房へと声を掛けると、気の良い返事が返ってくる。私はリュックを背負いなおし、バイト先を後にした。バイト先までは、タイヤの小さな自転車で通うようになった。週一のリハビリを乗り越えた私への、三池からのプレゼントである。

 少しだけ薄暗くなった空を見上げる。
 ついぞこの間まではまだ明るかった時間だが、日が過ぎるのは早いものだ。まだ蒸し暑さは残るとは言え、風はずいぶん涼やかなものになったと思う。小さく欠伸を零した。坂道をのぼるには、まだ少し足に負担が掛かる。なるべく緩やかな道を選んだので、やや遠回りになった。

「うぅ〜……坂道キツい……」

 途中で根をあげながら、漕ぐのは無理だと自転車のハンドルを引く。家の前の坂道は、普段は日差しが長く伸びる感じがして嫌いではないのだが、こういうときには厄介だ。それでも、家賃抜きで住居を得られるだけ儲けものではあるが。以前よりも痛みこそ減ったものの、突っ張った足の違和感を覚えていると、ふと手元が軽くなった。
 ハンドルが自分の指を離れていく。――誰かが、それを引いていた。
 私は薄暗さのなかにある一つの影を見止めて、その名を呟いた。彼は私の声に反応して、にこやかに振り返る。

「沖矢さん……」
「いえ、辛そうでしたので。お節介でしたか?」
「あー……いや、ありがとうございます」

 私は曖昧に笑って頷いた。
 先ほどまであんなに重たく思えていた自転車を、彼の手がするすると運んでいく。以前も足の具合を案じて声を掛けてくれたっけか、お人よしなものだ。

 ――本当に?

 彼の冷たい視線が脳裏を過ぎる。本当に、彼はただの人好しで声を掛けてくれたのだろうか。あの獲物を射抜く獣のような眼差しを思うと、もしかすると他の意図があるのではないかと思ってしまう。狩りをする獣が、獲物が罠にかかるのを待っているみたいな。

 それでもまさか、直接本人に告げるわけにもいくまい。
 結局その好意に甘えて自宅の前まで自転車を引いてもらった。彼は背が高く、自宅に着いたとき首がやや疲れていたことに気が付く。その感覚は赤井以来で、なんだか懐かしくも感じた。

「でも、どうしてこのあたりに? 最近よく見かけますよね」

 知り合いでも、と尋ねれば彼は「そんなところです」と読めない笑顔で返した。
 穏やかな顔をした沖矢は、実に話しやすい男だ。正直なところ、例の一件さえなければ私は彼にそれなりの好感を抱いていた。話しやすかったし、好きな作品の好みも合ったからだ。それに――その衣服に染みついた煙草の匂いが、赤井と同じであったから。懐かしくて、いつもより少し穏やかな気持ちになれる気がしていた。

「そっかあ」

 あまり自分のことを語らない主義なのだとも思ったが、そんなところも赤井によく似ていたので気にすることはなかったのだ。

 彼と再会してギクリとはしたものの、根に持ちすぎだろうか――。元より直感的な性格だとは思うので、どうにも自分の勘から離れて物事を考えられないのは私の短所だ。自宅前で「ここで大丈夫なので」と自転車を受け取ろうとした。彼はその場に足を立てて、自転車を留める。

「この間は、大事な電話に間に合いましたか?」
「あ、はい。急に切り出しちゃってすみませんでした」
「とんでもない。もしかして、例の人探しの件で」

 沖矢は調子を変えないまま、世間話のように尋ねかける。少しだけ指先が強張ったが、気にすることはないと小さく頷いた。「そんなところです」、沖矢の真似をして答えると、彼はクスクスと上品に笑って見せる。

「まさか新一くんと連絡がついたんですか」
「あはは……その、この間幼馴染という子に会いまして。偶然ですよ」
「ああ、毛利蘭さんですね」

 彼は眼鏡の位置を直しながら、ポンと軽く手を打った。
 なんだ、知り合いか――。私はそうそうと相槌を打つ。そういえば、彼は工藤新一の自宅を借りているのだから、多少周囲に面識があっても可笑しくはないのか。

「そう思うと、私すごい遠回りをしちゃったんですね」
「ですから、連絡先を置いていけばと聞いたのに」
「あはは……。あの時はちょっと。それに、あまり人づてにはしたくなくて」

 自然と指先がペンダントをなぞってしまう。不安なときにしてしまう、最早クセのようなものだった。この無機質さが、唯一私の靄がかかったような不安を拭い取ってくれるのだ。靄がかかったような――とは、この世界についての、と同義に等しい。それくらいしか、縋れるものがなかったのだ。
 沖矢はそうですかとにこやかに頷いた。小さな笑顔に背筋がゾっとしたのは、薄暗い道中、街灯がチカチカと点滅しはじめたからか。その光の下、伸びる彼の影が恐ろしく――表情が見えないのが、また不気味だった。窺えない表情の奥には、またあの冷淡なまなざしが眠っているのではないかとさえ思った。


「それで――その誰か≠フことは、分かりましたか?」


 別段、世間話から浮きもしない話しぶりだったと思う。
 だが、妙に神経を逆なでするように感じてしまった。彼は以前ストーカーを警戒したと言っていたが、だとすれば何故私に声を掛けるのだろうか。そして、どうして誰を捜しているかに、ここまで固執するのだろう。私は数歩先にある自転車を取れないままでいた。

 僅かに眉を顰めて、じりとスニーカーの踵を鳴らした。
 喉が鳴る。男の顔が逆光で真っ黒だ。何を思っているのかも分からない。この男こそ――もしかすると、赤井秀一という存在がこの世にはいないと証明する悪魔なのではないか。そんなくだらない被害妄想さえ過ぎった。

「……怖い」

 僅かな息と共に、言葉が空気を震わせる。
 彼に対して告げたわけではなく、ほとんど独り言ではある。しかし沖矢は驚いたように「怖い?」と聞き返した。私はついと顔を背けて、彼の手元にある自転車を引っ掴むと踵を返そうとした。

「待って」

 この間よりも、僅かに乱暴さには欠ける力加減で手元が掴まれる。
 チリチリと、彼が見つめる私の頬が焦げてしまいそうだ。好意の熱ではない、敵意を孕んだ熱であることは、さすがに私にも感じ取れた。――理由は分からないが、彼は私の何かを仇のように思っているのだと分かる。だって、本当にストーカーを危惧するのなら、寧ろこの場は放っておけば良いものを。

「――乱暴な真似はしませんから」
「もうしてます。手、離してください」

 視線を合わせないまま断った。振りほどこうとすればほどけたかもしれない。
 だが蛇に睨まれた蛙だったというか――ひたすらに沖矢という男の顔を見ることができずに、体を固めてしまっていた。

 それから何分かが経ったろうか。私が長く感じているだけで、それほどには過ぎていなかったかもしれない。その手が離れたのは、私と彼の間に人影が入り込んだからだ。見覚えはない背中だった。


「――嫌がってますよ、離してあげてください」


 冷静な――しかし人の良さが滲むような柔らかな声をしていた。
 彼は私の自転車をさっと引っ掴むと、体を強張らせたままの私の背を軽く押す。優しく、暖かな手のひらに、ようやくのこと息が吹きかえる想いだった。

 男は暫く駐輪場のほうへ歩みを進めてから、ふうと息をつく。広い背中をしていた――縦にではなく、横に。まろやかというか、ふっくらというか。「ああ、ごめん!」慌てたように自転車を返してきた表情の冴えなさが父に似ていて、初対面だというのに妙に安心した。

「急でビックリしたよな。その、怖がってるように見えたから……」
「ううん、ありがとうございました。一応知り合いなんだけど……でも、その、帰りたかったし」

 苦笑交じりに言うと、あまり高い位置にない顔つきが大口を開けて笑った。なんというか、棘のない男だ。安室透(――降谷のときは違ったので)の愛想の良さともまた異なる――やけに温かな表情に、少し遅れて、ぎゅうと握りしめていた拳の痛みに気が付いた。