01
「いだぁっ!」
電車中の視線が私を刺す。その痛々しいほどの視線に思わず身を縮こまらせて、鞄を握りしめた。誤魔化すようにマスクの下で鼻を啜り、目の前の女性に踏まれたつま先を見下ろす。電車が揺れた拍子だったのだろう、恐らく悪気はなく――寧ろ気づいてもいないかもしれない。
正直ヒールだからかなり痛かったのだけれど、降りる駅に着くまで何も言えなかった。
一人ジンジンと痛むつま先を見つめながら、腫れていないと良いけれど――と杞憂するしかなかった。外は初雪がハラリと空を舞っている。道理で車内も混みあうわけだ。ため息をついたら厭味ったらしい気がして、静かに瞼を落とし、バレないくらいに小さく嘆息した。
いつもこうだ。
それは普段の生活に留まらず、私の人生ってやつは、いつもこうなのだ。
至って平々凡々な人生であるというのに、平均よりも少し運が悪い。加えてそれを大々的に笑い話にもできない、妙に優柔不断だというか、曖昧な性格が重なって更に悪い結果をもたらした。浮気されたことを言えないままに浮気相手の女から「泥棒猫」呼ばわりされたりだとか、休日出勤を押し付けられた挙句残業の限界に達し繁忙期に残業することができなくなり役立たず扱いされたりだとか――。
大きな不幸はない。しかし、幸福ばかりの人生でもない。ヤケに損な役回りをする――そんな人生を送ってきた。
友人がいないわけでもなかったが、幼いころはそれなりにいじめられたものだ。
己を変えたくて、なんとか一歩踏み出そうと意気込んだものの。
「あっ、傘!!」
振り返ったところで電車のドアが閉まった。足の痛みに気を取られて、傘を立てかけていたことなどすっかり忘れていた。無情にも小さくなっていく車両を見送って、頭を抱える。これから大切な面接だというのに、まさかここから面接会場まで濡れながら行くしかないのか。
改札を出ると、車窓から眺めていたよりも雪が強く降り始めている。
「ま、まあ体育会系の人も多いしね……。ちょっと濡れてくることくらいあるでしょ」
なんて一人言い聞かせて、結局会場内ぐっしょりと濡れ犬になっていたのは私だけだったのは、言うまでもない。――正直に、落ちたと思った。そんなことはない。このやる気を見出してくれる上官が一人くらい――いれば。いればの話だ。肌が冷えてクシャミばかりしてしまったし、髪も乱れていただろう。面接室から出るときにパンプスが滑って綺麗にすっ転んだので、印象には強いかもしれないが。ちょうど次の面接を待っていた男と目が合って、笑いを堪えられたのは言うまでもない。
――で、あるからして。
恐らく、今目の前にある寮に足を踏み入れることができるのは、きっと人生の運をすべてここにつぎ込んだからに違いあるまい!
「や……ったぁ〜……!!」
あまり大声を出すのも恥ずかしいので、ボストンバッグ片手に固く拳を握りしめる。思えば、不運の重なりに加えなあなあな人生であった。それは私の性格も一枚嚙んでいるのを知っている。
だからこそ、今これは己が勝ち取ったものだという実感が強くあったのだ。
私が一歩踏み出そうと選んだ道。私が、努力をした結果。この、私が――!
そう考えれば考えるほど、嬉しくてしょうがない。良し、良しと何度も喜びを噛みしめていると、何か固いものが背を押した。軽い衝撃ではあったが、思わず体勢を崩す。爪先の痣が痛んで(――ちなみに試験の後日は、真っ赤に腫れていた)、引き攣った声が溢れだした。
「いだっ……」
その声を受けてかそうでないのか、その衝撃が今度は脇腹側から訪れる。――どうやら、私と同じような荷物を持っているのだ。今日から入寮するらしい大荷物――ということは、きっと同期の一人であろう。
「……なんだよ、人いたのか」
男だった。その声色と、背格好からは察したが、この時にはまだ顔を見ていない。それよりもつま先の痛みに蹲っていたからだ。男の声は、どこか不機嫌そうに鼻を鳴らしてため息をついた。
「突っ立ってるの邪魔なんだよ、早く退け」
――一瞬で感情がブワっと昂った。
なんて失礼な奴だと、人にぶつかっておいて謝罪の一言すらないとは。私は顔を上げ、今日こそその想いを口にしようと思った。一瞬ぶつかっただけの人間相手であるのに、まるで積年の恨みをぶつけんという勢いで。今日のこの運勢ならば、それができるのではと――心のどこかに自信が湧いていたのもある。
「あのねっ…………」
それが叶わなかったのは、顔を上げた先にあるぶっきらぼうな表情が、ジトっとこちらを睨みつけていた所為である。私と歳も近そうだ、別に強面というわけでもないのに、どこか声が掛けづらい雰囲気が男にはあった。勝ち気そうに歪んだ口元が、私が言葉を飲み込んだのを見て益々歪んでいく。
「……あぁ?」
「あ、いや……その、なんでも」
「言いたいことあんなら言え」
鼻を鳴らすように先を促されて、私の姿勢は猫背になっていく。妙な汗が背中を伝った。結局そのあとも何も言えないまま、私は首を横に振り足早に寮へと駆け込むしかなかったのだ。
――自分のことが、嫌いだった。
この不運さもあるが、なによりも不運の所為にしてばかりで、何一つ成し遂げることのできない己に嫌気が差す。ああすれば、こうすればと後悔ばかりが着いて回る。採用試験に受かったは良いが、そんな簡単に人間の本質は変わらない。――知っていた、そんなことくらい、気づいていた。
さっきだって、もしかしたら男は荷物がぶつかったことに気づいていなかったのかも。
電車のなかでも同じことを思った。だのに、行動一つ変えることができないのだ。
「折角、警察になったのになあ」
私は新しい部屋で荷物を降ろすと、先ほどまで零せなかったため息を盛大に零した。このままではいけないというのも分かっている。いつか、いつかは乗り越えなければならないのだ。
「いつかって、いつくるんだろう」
ひとりごちた言葉が、狭苦しい寮室にはよく響いた。
それに答えることができるのは、自身しかいないのに。いや、今日はまだ始まったばかりではないか。これから変わる機会はたくさんあるはずだ。
気を取り直し、荷物の整理を始めた。そう、きっと大丈夫。
『わ、わたしもなりたい!』
幼いころに、なれるよと明るく笑った声を覚えている。ただの子どもの一言を、笑うこともなく、きっとできると励ましてくれた。まさかその一言を信じて、本当に警察官になろうとは、あの子も思っていなかったかもしれない。
あれはいつであったか――確か、小学生、まだ低学年の頃だ。
桜はすでに緑がかっていて、足元には雨で落ちた花弁が敷き詰められていた。そうだ、確か雨が降った次の日だったのだ。だから、春の陽気にしては少しばかり肌寒かった。そんな日に、私は彼と出会ったのだった。