03



「ご、ごめん……」

 結局、鬼教官――もとい鬼塚教官から解放されたのは呼び出されてから二時間も後のことだった。男の顔は誰がどう見ても不機嫌そのもので、私は思わず肩を縮こまらせて謝る。彼は鼻を一つ鳴らしたが、案外怒鳴るようなことはしなかった。ただ、不愛想に「別に」とだけ。

 同時に退室したものだから、必然的に帰り道が重なった。お互いに何か会話をするわけでもなく、廊下には二人ぶんの足音だけが響いた。男の足音は緩慢で、のったりとしていたが、歩幅が広いのか歩くペースは揃いである。ふと、彼の欠伸でペースが乱れた。ずっと横を歩いていたものだから、つい足をとめてしまった。止めてすぐに、はたと彼と視線が合った。

「……んだよ」
「え……あ、いや」

 慌てて視線を逸らした。別に何と言うわけではなかったから、口籠ってしまう。ひとまずこのままと言うのも気まずくて、今一度朝のことに礼を述べようと思った。パっと口を開こうとしたが、声を震わせるのは彼のほうが先だった。

「大体、教官だって脅してーだけなんだから、ああいうのは適当に受け流せよ」
「あ……それはそうなんだけど」

 ――ただ、集団の中で怒鳴られるメンタルがないもので。私は言い訳がましく視線を逸らす。すると男は一度嘆息したが、ふと思い出したように頷き、小さく笑った。元より顔が大人びているわけでもなかったから、笑うとほんの少し子どもじみた感じが残る。先ほどまではジトリとした視線が印象的だったが、そうしていると厭味な印象は受けなかった。

「でも、あんなデケー声でんのは意外だわ」
「そんなにおっきかった!?」
「今もバカデケーよ」

 くく、と彼は喉を鳴らして笑う。
 良くも悪くも、野良猫のような男だと思った。つい先日会ったときにはぶっきらぼう極まりなかったのに、唐突に手を差し伸べてくれたり、かと思えば睨みつけて来たり、しがらみもなく笑ったり――。コロコロと表情が変わるものだ。特徴的な癖毛が、目の前で揺れた。
 
 ちょうど教棟を抜けたところで、ふと傍らに立っていた男が消えた――。

 消えた、というのは語弊があるか。正確には視界から――だ。同時に「うおっ」と慌てるような声がして、私は目を丸くし足を止めてしまった。代わりに視界に現れたのは、先ほどの男よりも少し体格の良い人影である。ぼんやりと見守っていると、長髪に隠れた口元がニヒっと笑うのが見えた。

「おいおい、女の子庇って罰則なんて粋なことするねえ!」
「うぜっ、乗るんじゃねー!」
「照れんなよぉ」

 声を上げて笑いながら、大きな手が背を叩く。彼は暫くもとよりクシャクシャな髪の毛を更に掻きまわしていたが、ふとこちらを捉えた。垂れた目つきがジっと私の顔を捉えて、次の瞬間にはパっと明るいものに変わった。

「君、さっきの?」
「さ、さっき」
「いやあ〜、朝から笑わせてもらったからさ。コイツに喧嘩売られてねえ?」

 体格こそ大きく、顔つきも大人びてはいるが、浮かんだ笑顔は人懐こく棘がない。先ほどまで二人でいたときの張りつめた空気が、ほろっと解けた。私は自然と口元に笑みを浮かべて、「そんなことないよ」と首を振った。

「本当かねぇ。コイツ、ぶすーっとしてるだろ」
「うるせえ」
「ほらね〜、こんなこと言ってるけど悪い奴じゃないんだぜ」

 くく、と大男は喉を鳴らした。
 先ほどまでの表情よりも一層不愛想になった表情が頭に乗った腕をブンブンと振り払った。私はあいまいに笑う。確かに先ほどの笑顔を見ると思うよりも悪い男ではないのか――と思うのだが、先日の一件が頭を過ぎるのだ。

 私の空笑いに気が付いたのか、目の前の男は太い眉を軽く下げて笑った。まるで「まあね」とでも言いたげだ。癖毛とは真逆にストンと落ちたストレートは、男にしては長く艶やかだった。一応服装規定があったと思うが、よく教官に絞られなかったものだ。

「少なくとも君に悪意があるわけじゃないさ、だろ?」
「……どうだか。警察なんてだいっきれーだよ」
「またそういうことばっかり」

 ケ、と口を曲げて吐き捨てる姿に、私はぎょっとした。思わず「えぇ」と驚きに声があふれる。

「警察嫌いなのに、警察になりにきたの?」

 その衝撃に、思ったことがそのまま口をついて出た。はっと我に返った時には、そのままに言葉を吐き出してしまったのだろう。癖毛の男が私のことをジトリと、あの眼差しで見つめている。

「悪いか」
「悪いってことないけど……」

 ――だって、それって変でしょ。
 そう思ったものの、さすがに言葉にはできなかった。私があれほど死に物狂いで勉強しトレーニングし、吹雪くなか必死こいて受けた試験だというのに。そう思うと少し腹も立った。しかしやはり言えないもので、首を掻きながら唇を噤む。

「まあまあ。そろそろ自習時間も終わるだろ、危ないから送ろうか」
「ううん、大丈夫」

 すぐそこだし、と寮を指せば、彼はにこやかに手を振った。私もそれにおずおずと手を振り、やや駆け足気味に踵を返した。ため息が零れる。

 まただ。また、何も言えなかった。ずっとなりたかったのだもの、そのために努力を重ねてきたのだから「馬鹿にするな」と怒ってやれば良かったのに。一番腹が立つのは、それを口にできない自分自身に、だ。

 これだったら、先ほどの癖毛男のほうが余程凛としていた。
 それが悔しいような――あの大男に庇われたのが、やけに虚しかったような気がする。

 入校まであと少し。次会うことがあれば、ちゃんと自分の言葉で伝えよう。――会うことがあれば、ではない。警察官への道を投げ出さなければ、同じ教場で出会うことになるのだから。

「……でも、朝は助けてくれたんだよね」

 恐らく、私がもじもじと列に入れないのを見て手助けをしてくれたのだ。それに誤解はなかったはずだ。そう考えると、やはりあの男が言う通り悪い人ではないのかもしれない。

「ううん、それでもあんな言い方しなくたって良いしさ」

 ベッドの上にごろっと寝転がりながら、ぽつりと呟く。
 警察学校という場が、警察を目指すものの集まりなのだから、大嫌いだなどと言わなくても良かったのではないか。なんだか過去に抱いた憧れを土足で踏みつけられたような気分にもなる。

 寝返りを打った。晴れない気持ちだ。
 窓から覗く空模様も、心の中を映したように重たい雲を広げていた。前髪がぱさ、と流れていく。言いたいことを言えなかったことにも、あの癖毛男へイマイチはっきりした印象が持てないのも、どちらも要因のように思う。

 枕に横顔を埋めた。いや、何にしろ、やはりあの男と話をしてみよう。
 それが自分の嫌な部分を塗りかえる一歩である気がする。この学校生活の中で、何とか直すべきなのだから、それが早いか遅いかの話ではないか。一人心の中で納得し、頷く。がばっと上体を起こして意気込むと、私はひとまず夕食の時間に遅れないよう寝ぐせを整えた。

『――なれるよ!』

 確信を持ったような、一度聞いただけの言葉が、今でも私の自信を後押ししてくれる。雲間から僅かに日差しが差した。その眩さに、ギュウと目を細めるのだ。


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