06


「……気持ち悪い」

 ベッドの上で目が覚めたのは、それから一時間後のことであった。
 軽い脳震盪とは言われたものの(拳骨で脳震盪になるものか――)、倒れた衝撃からか、胃の中身が空っぽだからか、妙な心地の悪さに襲われていた。ごろんと寝返りを打ち、ひとまず水でも飲もうと上体を起こした。久しぶりに与えられた貴重な自由時間だというのに、まさかベッドの上で過ごすことになるとは思いもしなかった。

 ペットボトルの水をゴクンと喉に流し込んでいる最中、カーテンが開いた。ひょこりと顔を覗かせたのは萩原だ。彼も余暇を楽しむ一人だと思ったが、私が想像していたよりもずっと心配の色を浮かべてこちらを覗き込んだ。まだ顔見知り、といった程度で友人という友人もいない寮内であったから、見舞いが一人来てくれただけでも心の支えではある。

「大丈夫?」
「うん、わざわざありがとう……」
「食欲なかったら良いんだけど、コレ。メシまだだったっしょ」

 萩原はそういうと、手に持ったビニール袋をこちらに手渡した。最寄りのコンビニ袋の中には菓子パンとゼリーが入っていて、私はついさっきまで根に持っていた『人の失態を笑いやがって』という感情をポイとどこか遠くへ捨て去った。

「ありがとう! 最高、萩原くんかっこいい!」
「あらら、そんな喜んでくれたなら調達した甲斐があったってモンよ」
「うぅ……しかもクリーム入りだ……ありがとう……」

 私はエクレアを涙ながらに開封し、頬張りながら萩原の話を聞いた。結局あの後、同じ場にいた生徒の一人が上官を呼びに行ったらしく、松田と降谷は現在も説教真っただ中なのだとか。自業自得とは言え、松田に関してはこれで二回目の呼び出しだ、一回目は私にも責任の一端があったため、やや同情はした。

 甘いクリームに、自然と食欲が満たされていく。やはり先ほどの気持ち悪さは空腹のせいだったらしい。今朝は式への緊張と、制服を少しでも見栄え良く身に着けようと朝食を減らしたからだ。体は正直なものである。今後の戒めにしよう。

「にしたって、顔に痕残らなくて良かったなあ」
「ん……そんなに酷い喰らい方した?」
「アハハ。綺麗にクロスだったよ」
「クロス!?」

 私の視界には一つ分の拳骨しか見えなかったが、萩原の証言によれば綺麗に二人分のストレートが当たっていたらしい。想像したら少し面白いような気もしてしまって、水を飲みながら鼻から抜けるように、フっと笑ってしまった。萩原は傍らの椅子に座っていたが、その笑い声にピクと視線を持ち上げた。その表情は困惑していたような、驚いていたような。

「おいおい、女の子が怪我して笑ってちゃダメだろ」
「え、あはは……。ごめん、想像したらなんかウケちゃって」
「謝らなくても良いと思うけどさ」

 彼は眉の山を柔くして笑った。私はその表情につられるように表情筋を和らげて、コクっと喉を鳴らした。彼は私よりも一層松田と降谷に腹を立てていた。前から人当たりが良いとは思っていたが、心根も良いらしい。そりゃあ痛かったし、殴られたときには腹が立たないことはなかったが――萩原が「アイツらもよ〜」と怒っている様子を見ていたら、どうでも良くなってきてしまった。

 萩原が買ってきてくれたビニールの中身をすべて平らげ終わるころ、ドアが開く音がした。――「失礼します」、男の声だった。上官にしては若い声だったので、生徒だろうか。私は萩原の垂れた眼差しを視線を合わせ、互いにきょとんと首を傾げた。松田の声ではない。

「小林さん。カーテン開けても良いかな?」
「あ、はい……」
「良かった……目覚めてたんだね。安心したよ」

 カーテンを開けて顔を出したのは、見覚えのない青年だった。ジャージからして同じ学科の生徒だということは分かるが――名札には『諸伏』と記されている。私が名札と顔を見比べるよりも早く、萩原がその名を呼んだ。

「ごめんな、傷は大丈夫だった?」
「うん。脳震盪だって……痕も残ってないし、平気だよ」
「そっか。オレも止められなかったから、まさか君に当たるとは思わなくて」

 ――それは私も思わなかったけれど。
 苦く笑って、ぼんやりと思い出した。そういえば、降谷の傍らにはもう一人生徒がいたような気がする。確かに、彼と同じような髪型の男だったような――。と言っても、諸伏の髪は黒いショートヘアで、それが彼だったという確証はないのだが。
 しかし、彼がそう言うということは、恐らくそうなのだろう。
 私は「諸伏くんが謝らなくても」と首を振った。あそこで、まさか中心に飛び出るなどと本人すら予想していなかったのだから、仕方のないことだ。

「全然! ほら、いっぱい食べたし、もう元気だよ」
「あとでアイツにも謝るように言うよ。お大事にしてな」
「気にしないで……あの、松田くんが言い過ぎた感じしてたし」
「いや、でも手をあげたのは良くなかったから。ちゃんと謝らないと」

 どこか頑なな態度で、諸伏はゆるく首を振る。それから薄ぺらな唇を軽く持ち上げ、ニコと微笑んだ。――冷たい顔つきではあったが、人の好い印象だ。笑うと氷が溶けるような柔さがあって、好青年らしい雰囲気がある。有無を言わさないような穏やかさに、私は思わず口を噤んで頷いていた。

「じゃあ、またね。小林さん」

 踵を返す男を見送って、私はチラと萩原と視線を交わした。
 彼もまた言いたいことがありげに、軽く片眉を持ち上げる。何を語ったわけではなかったけれど、言いたいことは分かるような気がした。さしずめ、『見た? あのモテそうなかんじ』――といったところだ。

 私はふっと噴き出して、口元を押さえた。
 今度は萩原がつられるような破顔する。医務室であったし、声を潜めて笑ったものだから、それが余計に笑いを誘って苦しかった。肩を揺らしながら声を押さえていると、ククク、と隣から喉が鳴った。

「……」

 大人びた風貌をしているから、笑ってもどこか色気が漂った。艶やかな黒髪が輪郭を過ぎる。思わず「萩原くんもモテそうだけど」と零したら、彼はパチンと目を大きく瞬かせる。睫毛の影が下瞼に落ちた。垂れた眼差しが上目遣いにこちらを覗き、クっとやましく弧を描いた。その瞳に映った光がやけにつやめかしく輝いて、ドキリとした。

 恋に落ちた、とかそういうわけではない。
 ただ、やけに胸が高鳴ったのは、その男の色気故だ。とても同い年には思えないような、しかし安売りでもない、独特な色をしていた。きゅっと下唇を巻き込んで押し黙ったら、彼の表情にパっと明るく笑顔が浮かんだ。――わざとらしいまでに明るい表情に、先ほどの笑い方は、恐らく揶揄われたのだと分かる。

「せ、性格悪い……」
「えぇ? ひっでぇ、なんの話」
「絶対わざとじゃん! 女の敵だね」
「まさか。研二クンはいつだって女の子の味方よ」

 頬杖をついて彼は可笑しそうに笑った。
 結局、上官が私に帰寮して良しと判断するまで、彼は隣の席に座っていた。ひとえにその人の好さからなのか、それとも喧嘩を止められなかったことに僅かにでも後ろめたさがあるのか――それは分からなかったものの。
 すでに陽が落ちかけている道を寮まで送ると、ヒラヒラと大きな手が振られる。

「また明日」

 という声に、ようやくのこと、入校できたのだなあという実感が湧いたのだった。


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