09
「さむっ……」
もう四月とは言え、夜中になれば外を歩くには薄手の上着が一枚必要なくらいだった。ひとまず指定のジャージを寝間着の上から羽織って、寮の階段を降りる。私は誰が聞くわけでもないため息を大きく零した。
――無視できなかった。
するかどうか考えたものの、結局教場も同じ、席も近い彼らと剣呑な関係になることを恐れてしまったのだろう。きっとそんなことをネチネチというタイプでもないだろうに、一度考え始めたら目が冴えて、気になってしょうがなくて、一度はベッドに入った体を起き上がらせてしまった。今一階、指定の廊下まで行く最中にも「やっぱりやめようか」と悩む程度には、決まりきらない心である。
ボヤボヤと考え事をしながら一階に降りた時、コン、と固い物音がした。
一瞬寮母かと思い肩を跳ねさせたが、その音はノックにも似たリズムで数度繰り返される。ふと音のほうを振り返れば、見覚えのある癖毛の先が窓から覗いていた。
窓を開けてその下を覗き込めば、まさに悪ガキだと言わんがばかりの表情で松田と萩原がしゃがみこんでいる。私と視線が合うと、萩原がニコニコと愛想良く「おはよ」なんて揶揄った。
「うわ、本当に寮抜けだしたんだ……」
「今から同じことするヤツが何言ってんだ」
松田が笑う。誰のせいだと、と頭を掻きながら内心文句を垂れる。外の空気は爽やかで、風に桜の花が落ちていくのが、ポツポツと僅かに灯った灯りに照らされて見えた。びゅう、と吹き込んだ風に、花弁が数枚窓から舞い込む。
「ほら、早くしろ。窓開けてっと音でバレる」
松田が腰を鳴らしながら立ち上がり、私を手招いた。渋りながらも、確かにこの状況で見つかるのも拙かろうと桟に足を掛ける。すると、目の前に大きな手が差し伸べられた。手の先を辿れば、ふと優し気な目つきとかち合う。萩原は肩を竦めて「どーぞ」と深々辞儀をした。
「なにそれ……」
「いーや? ちょっとお姫様にサービスを……」
「よ、よく言うよ……」
顔を引きつらせながら、確かに窓から地面まで多少の高さがあったので有難く手を借りる。恐らくこの風の中私が来るまで待っていたのだろうと思うのに、萩原の手のひらは妙に温かい。
「……」
思わず地面に降りた後も、その温かい手をジっと見つめていると、わざとらしく萩原が「照れちゃうな〜」なんて言うのでその手を捨てておいた。満月だ。灯りは少なくとも、外は真っ暗とは言い難かった。その白んだ灯りで、松田と萩原の表情さえクッキリと見える程度だ。
「なんか、変な感じする」
「……あ? 何が」
「ううん……。ほら、寮は消灯してるし、すっごい静かだから」
私は自分が後にしてきた寮の窓をチラと振り返った。少し歩いただけだというのに、随分遠くまで来てしまったような感覚になる。寮母室以外の一切の灯りは消えていて、普段は活気ある声で溢れている教棟も当然ながらシィンと静寂で満ちていた。
桜吹雪のなか、三人だけの足音が響くのがやけに不思議な感じなのだ。松田は私が零した言葉に、軽く鼻を鳴らした。相変わらず小馬鹿にするような仕草ではあったが、意外なことに彼は小さく頷いたのだ。
「ま、なんかミョーな感じだよな。静かで良いけどよぉ」
「とか言って、実は話し声しないの寂しがってんだろぉ」
「誰が! お前のおしゃべりな口と一緒にすんな」
萩原がケラケラと笑いながら松田の口元を軽く突けば、松田は至極鬱陶しそうにそれを振り払った。そういえば、彼らはずいぶんと仲が良い。一か月も経っていないのに、従来からの親友でもあるようだ。思わず「仲良いね」と感慨深く呟くと、癖毛をむしり掻きながら松田が歯をむき出した。
「仲良くねー!!」
「おいおい、声がでけぇよ。陣平ちゃんとは小学校からの付き合いなんだ」
「え、そうなの? だからそんな感じなんだね」
「まあね。昔からお世話係ってワケ」
かわいそうだろ?、萩原はヨヨヨ、とわざとらしい泣き真似をしてみせた。私はそれにジトと呆れた眼差しを向けながら、乾いた笑いを零す。確かに松田の性格も難ありではあるが、どちらかといえば確信犯である萩原のほうが性質が悪い。この友にしてこの男あり、だ。決して同情できるものではなかった。
「お〜い、そんな顔しないでよ。昨日のこと怒ってる?」
「怒ってないよ。萩原くんへの評価は塗り替わったけど……」
「俺チョー優しいのに。ショックだねぇ」
と言いながらも、やはり目は笑っている。松田が「うわ」と声を零すのと、私がため息をつくのはほぼ同時だった。
「勘違いすんなよ、コイツ誰にでもこんなだから」
「だろうね……」
「だろうね!? あっははは!」
萩原が口を大きくして笑う。既に同期生一のモテ男として名を馳せつつあるが、その実特定の誰かとずっと一緒にいるところを見たことがない。ついでに言えば、誘いを断るところも。天と地の差はあれど、私と同じかなどと皮肉めいて笑えた。
「はー……小林ちゃんホント面白い。良い子と同じ教場になったわ〜」
「絶対どの女の子にも言ってるでしょ」
「そんなことねえって。これでも人を悲しませる嘘はつかない主義さ」
「フーン……」
信じられないままに適当に相槌を打つ。しかし、そこにフォローを入れたのは松田だった。「まあ、確かにそういう嘘はつかねえよ」、と事も無さげに告げるのだ。ううん、そういうものか。さすがに根拠もなく疑ってしまったのは悪かったかもしれない――悠々と歩く萩原のほうを見上げる。彼は少しだけ眉毛を下げてほんのり切なげに笑った。
「……あ」
私は言葉を飲み込んだ。
淡い月の灯りがその頬の出っ張ったところや鼻筋を照らしつけて、余計に儚い笑顔にも見えたのだ。すぐにごめんねと言えれば良かったが、また悪い癖だ。散々言葉を探しあぐねて、軽く下唇を噛んだ。
たった一週間だ。彼の何を知るわけではないのに、さすがに図々しかったのでは。
様々な想いが頭の中をグルグルと巡って、私はひっそりと足を止めると、先ほどの手のひらのぬくさを思い返す。ぎゅ、と軽くそれを握りしめた。
「あ、あのさっ!!」
「…………ぶふっ」
萩原が口元を押さえて勢いよく噴き出した。私が開いた口をそのままにしていると、大きな体が震える。松田はその隣で欠伸を零していた。
「嘘つき!」
「嘘はついてねえってぇ。マジで小林ちゃんのこと好きだもん、なんか、ふれあい動物園みたいで……」
「な、なに言ってんのこの人!」
わー、松田のほうへ身を寄せると、彼は鬱陶しそうに「そういう奴だから放っとけ」と肩を竦める。少なくとも私の知る優しい男とは、人を動物園の展示扱いしないのである。恨みがましく長身を睨みつけていると、先頭を歩いていた松田の背にドンとぶつかってしまった。
「いたっ!」
「声デケーっつの。……おお、すげー……」
「ポルシェのスピードスター! さっすが陣平ちゃん。見る目あるゥ」
松田の背から顔を覗かせて、萩原も同じように覗き込んだ車体を見る。私も思わず、「おぉ」と声を漏らしてしまった。確かに車に疎い私でも分かるほどに光り輝くボディに、さすがに見たことのあるエンブレムが光っていた。少しレトロなヘッドライトに、多少なりと車が好きなら感動するのだろうなと予想はつく。
「知ってたの?」
「ああ、入校式ンときに見た。多分上官の誰かのじゃねーかとは思ったが」
「見たって……」
私は周囲を見渡す。彼らが案内するままに着いてきたが、教棟からも入校式を行ったホールからも、そこそこの距離はある。よくもチラと見ただけで車種まで特定できるものだ。本当に車が好きなのだろうか。
彼らは一通りの車を眺めると、その場に座り込んだ。思わず二度見する。そして当然のように、先ほどまで感動して見入っていたポルシェの下に潜り込んだのだ。
「は!?」
「わりー。ちょっと見張り頼むわ」
「見張りって」
私は周囲を見渡す。今のところ人の気配はないが――彼らは二人で楽し気に私の分からない専門用語をツラツラと並べていた。
――ぜ、絶対このために連れてきたんだ……!!
クソ、このヤロー! 私の僅かばかりの善意を無下にしやがって! 心の底ではボロクソに罵倒をしたが、この状況で誰かに見つかったら私も共犯であることに違いないので――そしてこんなことで説教されるのは御免なので。虚しく車の前に立ち見張り番になるしか道はなかった。もう絶対にこの二人の休日の誘いになど乗らないと、固く心の奥底に決意をしたのだ。果たして守られるかどうかは別の問題であるものの。