10
ずび、と冷えた体に鼻を啜った。目の前には真っ白な陶器。ため息をつきながらブラシを握りしめる。屈んで軋む腰を、ぐっと伸ばしなおした。消毒液の匂いにうんざりしながら、ゴム手袋のはまった手を見遣る。
『――何してる!』
――松田らと寮を抜け出した昨夜。
あの後従順に見張りを続けていた私のもとに訪れたのは、上官ではなかった。眠気に欠伸を零してぼんやりとしていた手首を掴まれ、私は驚きのあまり「ぎゃー!」と叫ぶ。それに向かいの男もずいぶん驚いたようで、体が跳ねた。
私の声に驚いたのだろう、松田と萩原も慌てて顔を出した。
暗くてその姿が一見では分からなかったが、高鳴った心臓の鼓動が落ち着くころ、ようやく男の姿を認識できた。松田が手にしていた懐中電灯が、眩いブロンドに光を跳ねる。
意志の強い瞳がこちらを見つめた。
降谷は私たち三人の姿を見とめると、いよいよ口調を強くして「何してるんだ、こんなところで」と言及を始める。その後は、地獄絵図である。当然のようにソレに言い返したのは松田で、降谷もまた言葉尻へ噛みついた。私は萩原と視線を合わせて、これはまずいのではと顔を引きつらせる。
「小林ちゃん、ここは二人に任せてドロンといこうか」
「あ、やっぱり……?」
「あーなったら陣平ちゃんは無理。降谷ちゃんには犠牲になってもらわねぇと」
ギャンギャンと犬の威嚇のように口喧嘩をやめない二人に、ひっそりと頷き踵を返した。そろっと足音を消して萩原と振り返った――先に、世にも恐ろしい形相が待ち構えていたのだ。思わず萩原の腕をギュっと力強く掴み引いてしまった。
「お前らァ……」
「きょ、教官……」
「全員整列ッ!」
――警察学校の上官は、決して常駐なわけではない。のだが、やはり生徒を野放しにするわけにもいかないので、順番に宿直があるのだ。我らが教場の鬼――もとい鬼塚は、校内でも随一の厳しさだと有名だというのに。最悪だ。顔を青ざめさせながら横並びになり、私は小さくクシャミを零した。
そして、こってりと絞られた翌日。まさに今、折角の日曜日を棒に振り、罰当番としてトイレ掃除を行っている真っただ中である。唯一の救いは女子トイレの担当だということだろうか。いくらなんでも、あの険悪なムードの松田と降谷がいる中便器を磨いていたら気がおかしくなりそうだ。
ため息とともに水を流して、ようやく最後の一か所の掃除を終えた。さっさと教官室へ報告に行って、今日こそ惰眠を貪るとしよう。どのみち、明日からは再び訓練が始まるのだから。
と、掃除道具の一式を片しトイレから顔を覗かせたおりに、入れ違いになった女生徒とぶつかった。長い髪を後ろにひっつめた女生徒には、見覚えがない。別の教場の生徒だろうか。反射的に謝ると、ぶつかった生徒は驚いたように私の姿を頭からジロリと見下ろす。
そして、何も言わないままにトイレのほうへと歩いて行ってしまった。その去り際の言葉がやけに響いたのは、狭い室内だったからだろうか。
「……きたな」
別段、面と向かって言われたわけではない。
だが、確実に私が聞くことを想定して零したのでは――と、そう勘ぐれるような言い方をした。バタン、と個室のドアが閉まる音がやけに大きく体を揺らして、急に胸の内からブワっと感情が溢れそうになった。
確かに、汚かったかもしれない。
今掃除を終えたところで、先ほどまで膝をついていたから、多少なりと汚れていただろう。しかし態々口に出さずとも。久々の悪意にやるせない想いを抱えながら、足取りが少し緩慢になった。
「……ハァ」
ああいうときこそ、反論すれば良いのに。自分がこれほど落ち込むくらいだったら、最初から言えば良いのだ。もう少しは心が晴れるだろう。松田に誘われた時だって、早々に断っておけば巻き込まれることなどなかったというのに。
「小林ちゃん」
ぽん、と肩を軽く叩かれる。
その呼称で呼ぶ心当たりは一人しかいない。自然と見上げるような形で振り向くと、どうやら彼もまた教官室へ向かうところなのか、ジャージ姿の萩原がにこやかに手をヒラリと躱した。
「災難だったね」
「……それは」
――君たちの所為じゃない。
直接口にするのも酷いかと、語尾をごにょりと濁した。萩原は「まあね」と察したように苦笑した。
「面白がったのは謝るよ。まさか教官に見つかるとは思わなかったし」
「思わなかったら見張り立てないじゃん……」
「あ、バレた?」
彼はクツクツと喉を鳴らすようにして笑った。きっと掃除をした後だろうに、その表情にはマイナスの感情は見当たらない。余程楽観的なのか、心に余裕があるのか。私との会話を心から楽しむように、萩原は穏やかな態度を一貫していた。
最初こそ昨夜のことも先ほどのことも心の奥にこびりついて、笑うのも気怠く思えた。のだが、萩原があまりに暢気に笑いながら隣を歩くものだから、話しているうちにほんの少しずつそれが解れるのが分かった。
「でもほーんと、もうちっとで逃げれたと思うだろ?」
「ふ、あはは。うん、思った」
自然と口元が綻んでしまう。萩原の不思議なところだ。あんなにも揶揄い屋で、いつも腹が立つと思うことばかりするのに、妙に接しやすい。悔しいと思いながら肩を竦めて笑うと、萩原も満足そうにニコっと頷いた。
「松田くんと降谷くんって、なんであんなに仲悪いの?」
「さあ……。食ってかかってるのは陣平ちゃんってカンジだけど」
「萩原くんでも分からないんだ」
「そりゃ、まあ。付き合いが長いってだけでずっと一緒なワケじゃないからね」
萩原が言うには、松田がそこまで固執するのも珍しいことなのだとか。きっと何か理由があるのだろうと、彼なりに松田のことを案じているようにも――否、面白がっているようにも見える。
「そういえば二人は? 一緒だったんだよね」
私は女子トイレだから別行動であったが、教官から罰則を言い渡されたときには少なくとも萩原がぶすくれた二人を引きずっていたはずだ。ふと背後を振り向きながら尋ねれば、萩原は飄々として「さあ?」と首を傾いだ。
「まあた喧嘩してんじゃないの。俺は俺の分終わったから、知らねえ」
「えぇ〜、一緒に行ってあげれば良いのに」
「やだよ、ヤロー相手に」
と、露骨に大きな手がシッシと振られる。よく分からない関係だと思いながらも、先ほどまであれほど長いと思えた廊下が、多少なりと短く感じられたのは彼のおかげだろう。教官室の前に着くと、私は一度身なりを整えた。まさかとは思うが、もう一度説教が始まっては堪ったものじゃない。
萩原も私の横で髪を耳に掛け、先ほどまでずり下がっていたズボンをぐっと上にあげなおすと、ちらっとこちらに垂れた眼差しを向けた。私が見上げた視線と絡まると、彼は凛々しい眉を可笑しそうに歪め、口角を小さく緩めた。
「元気、でたみたいで良かった」
普段の揚々とした声色とは打って変わり、小さく囁くような穏やかな声色がぽつと呟く。私は目を丸くして、先ほどのことを思い返す。まさか、考え込んでいるのが分かっていたのだろうか。だとしたら、益々末恐ろしい男である。
「……あ、ありがとう」
けれどどうにも悪い気はせず、私も彼と同じほどの声量で小さく零した。萩原はそれに返すことなく、声を大きくして教官室へ名乗りを上げる。私もそれに続き、声を張った。気恥ずかしくて、思わず少し裏返ってしまったけれど。