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 一日の点呼が始まる。
 何ら変わりない日々の訓練だ。集団走を終えると、それぞれの担当の掃除場で向かう。桜はほぼ散り終えてしまって、残るのは緑の若々しい葉たちだけだ。ようやく楽になった外周掃除に、ホっとしながら箒を握る。ふと、同じ掃除場を担当する女生徒が気づかわし気に声を掛けてきた。

「小林さん、怪我してるでしょ。チリトリ持ちなよ、絶対痛いじゃん」
「……え?」
「無理しないほうが良いよ」

 小さく、その女生徒が微笑んだ。
 私は驚いて、それからジワっと目の奥から滲みそうになるものを感じる。警察学校に入校以来、殆ど初めて掛けられた同性からの優しい言葉だった。やはり入校時に問題を起こした所為なのか、着校の頃から教官にアレコレどやされた所為なのか、遠巻きにされていたのは分かっていたのだ。――認めたくはなかったけれど。

 私は口を噤む。あの時、松田が呼んだ。まるで此方に来いとでも言わんがばかりに、しっかりとした声で。促すような声色で。――私がしたことなど、ただのお節介だと思っていた。私があの時手を取らずとも降谷たちに鬼塚は助けられていたかもしれないし、首が締まっても死ぬことはなかったかもしれない。寧ろ、余計な重量を掛けてしまったのかもしれないと、思っていた。だが、もしかすると、その結果と、私がこなした過程は別物なのだろうか。

 ――崩れそうな屋根の上を踏み出したあの一歩が。
 こうして今、違う形で実を結ぶのであれば。私は顔を僅かに赤らめて、息を吸い込み、酸素を巡らせてから口を開いた。

「あ、ありがとう!」

 礼を述べると、女生徒は軽く首を振り、私の持っていた竹箒とチリトリを換えてくれた。心を躍らせてチリトリを握りしめていると、背後から「声デケーよ」と呆れたような声がした。

「目の前の奴に話すのにンなデケー声いるか?」
「……おはよう」
「はよ」

 彼は箒の柄にもたれかかるように体を預けながら、くあ、と大きな口を開けて欠伸を零した。相変わらず気まぐれそうな男であるが、彼にも少しの変化が訪れていた。それは私にも僅かにだけ関りのあることであるが――。

「松田! ゴミ袋持ったまま行くな」
「ん? おお、悪い」

 松田の後を追ってきたのは、いつものノッポ姿――ではなく、眩いブロンドを翻す、恐らく同期一の有名人である。ついぞ先日まで松田の姿を見れば降谷が険しい顔をしていたし、降谷の顔を捉えれば何かと突っかかるようにしていた松田がいた。絵に描いたような犬猿の仲であったのは周知の事実であり、私も彼らの喧嘩を二度も目の前にしたことがあった。

 だのに、目の前に広がる光景の異様さである。
 降谷に声を掛けられても松田は悪い顔一つせず、寧ろ気心が知れた風に笑みさえ見せている。私にも、聞くところによれば萩原にも、彼らがここまで仲良くなった根本的な理由は分からないらしい。

「小林さん」

 ふと降谷が私に声を掛ける。これが二つ目の変化。
 朝陽にアイスグレーの眼がキラと輝いた。小さく頬を緩めて、「おはよう」と降谷が口角を持ち上げる。太陽を背負っているのかと思えるほどの眩い笑顔に、思わず目を細めてしまった。後ずさりそうになるのを留めて、何とか挨拶を返す。

「お、おはよう……」
「怪我の具合はどう? 明日病院に行くって聞いたけど」
「うん、そのつもり。肩はまだ傷むけど、掌は大分良くなったよ」
「そうか……もうすぐ球技大会だろ。出れると良いな」

 そうだね、と私も笑いながら頷いた。
 球技大会は、五月の半ば。ちょうどゴールデンウィークを過ぎた頃にある。そのころには携帯も返却され、休みには外出許可も出るはずだ。まさか折角の休みを棒に振るのも憚られるので、何とか治ってほしいと切に願う。

「あっれぇ、また小林ちゃんが降谷ちゃんにデレデレしてらぁ」

 松田が箒に凭れるのと同じ体勢で、大きな手のひらが私の頭に凭れかかった。ずしりとした重みに「いだ」と間抜けな声を零す。別に――デレデレしてるわけでは。振り向いた萩原の表情はニヤニヤと口角を持ち上げていたが、どこか気に食わなそうに眉が吊り上がっていた。大方、己よりもモテそうな降谷に妬いているのだろう。分かりやすいことである。

「だって、降谷くんは意地悪言わないし?」
「おぉ〜。言うねぇ、この口かな?」
「いだ、まって、引っ張んないでよ!」

 ニコニコと人の好い笑みを被りながら、彼の指先が私の頬をぐにぐにと引っ張った。振り払うように腕を振り回してみるが、萩原はビクともしない。

「ひ、ひどい……。暴君……」
「あっははは! 暴君!?」
「だって私と松田くんを僕にしてくる……」
「俺を下僕にカウントすんな!」

 松田が目を吊り上げて私の言葉に食い下がった。そうは言うものの、萩原が松田を揶揄っている様子も日常茶飯事に見かける。彼から見たら、カーストは同じ位置にあることだろう。一人でに納得していると、松田がジトリと私を睨みつけるようにした。萩原は、相変わらず腹を抱えて笑うばかりである。


「おーい、そろそろ掃除終わるぞ!」

 少し離れた場所からでもよく響く伊達の声に、教場のメンバーがまばらに返事をした。私たちも、今集めている葉をゴミ袋へ纏めると掃除道具を片付けに倉庫へと向かった。やはり話していると、何となしに萩原たちと歩くわけだが――ふと辺りを見渡す。いつもであれば苦笑いしながら後を追ってきそうな男の姿が見当たらなかった。

「諸伏くんは、今日一緒じゃないんだ」

 降谷にそう言葉を掛ければ、彼は手に持ったゴミ袋のてっぺんをキュと結びつけて頷いた。常に真っすぐに見据えるような視線が、ふと俯いた気がする。爽やかな風が木の葉を掠る音が響いた。足元には、細やかな葉の影が落ちている。

「……少し、体調が悪いらしくて。訓練には顔を見せるさ」
「そうなんだ。……うん、そっか」

 そういえば、以前も配膳される定食の量を減らしていただろうか。もしかすると病弱体質であったりするのかも――。別段、ほっそりとした印象は受けなかったが。ただ、そこから先に踏み込むのは如何なものかと思い、相槌に納めておいた。

 かくいう私も、今から始まる逮捕術の訓練は見学予定だ。
 人のことを言えた性質ではないかと苦笑した。だが朝食を済ませた後道着には着替えなければならないので、少しばかり早足になる。制服もキッチリと着こなすのには慣れが必要だが、道着となると尚更である。

「逮捕術かぁ、班長とだけは当たりませんように」
「伊達班長? やっぱり強いんだ」
「強いのもあっけど、あの人体術系の訓練は容赦ねえんだよなぁ」
「あれ正面から受けるとフツーに痛いからな……」

 松田が箒を片した手を軽くブラブラと振るようなジェスチャーをした。意外だ。確かに彼は体躯も大きい。が、普段の訓練や講義の様子を見る限り、面倒見が良く加減を知る人だ。折角逮捕術の訓練を客観的に見学できるのだ。いつもは女生徒の方ばかり見ていたが、偶には他の様子も見てみようか。

「あ! 今日の朝食中華丼がある」

 そんなことを考えながら、暢気に朝食のメニュー表を機嫌よく眺めた。餡は多めにしてもらおうと、トレイを手に取った。チラリと一瞥した掌の傷はまだ痕を深く残していたが、自分の踏み出したことへの勲章のようにも見え、こっそりと瞳を細めた。


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