18
「ありがとうございました」
一礼をして病室を出た。怪我の経過観察として、自習の時間を使い近くの整形外科に訪れていた。まだ少し時間はかかるだろうが、あまり無理をして動かしてはいないので治り具合は順調らしい。あたたかな声に見送られながら病院を後にする。陽の傾いた空は夕焼けというにはくすんだような、宵との狭間のような色をしている。軽く背筋を伸ばしてから、歩みを進めた。
街路樹もすっかり若々しい葉を揺らしていた。まだ深くない緑の葉は、きっと柔らかいのだろう。入校式前に歩いたときは、桜吹雪に町が華やいでいたというのに、時の流れは早いものだ。
せっかく外に出たのだから、ついでに買い物でも済ませてしまおう。規則が厳しい学校内ではあるが、先日より平日でも一時間のみの外出が解禁された。要は、コンビニや軽い散歩程度なら敷地外を歩くことが許されているのだ。もうすぐ外泊が許可されるということもあり、生徒に試験的な外出をさせているのだろうと降谷が言っていた。――きっと生活態度を律したまま私生活を送る試験、といったところだろうが。
コンビニに立ち寄ろうとした時、その隣にあるタバコの自販機で見知った癖毛が跳ねた。別に無視をする気もなかったのだが、つい「あ」と、先に声が零れてしまい、気まずく視線を逸らしてしまった。
「んだよ、その面」
「いや……。ちょっとビックリしただけ」
思い返せば、松田に声を掛けたのは例の食堂での一件以来だったかもしれない。
何と声を掛けて良いのやら。戸惑っているうちに彼から話しかけてきた。いましがた買ったばかりなのだろう煙草を手慣れた手つきで一本押し出し、軽くフィルターを噛む。校則で煙草が禁じられているわけではないが、よく明日も長距離を走るのに煙草を吸う気になるなと感心した。
松田はコンビニの壁に軽く凭れ掛かると、ちらと自動ドアを見遣る。「行かねえの?」、そう問われて、「行くけど」と一言。また短く「ふうん」とだけ返事をした横顔は、再び煙を深く肺へと溜めて、ゆっくりと空に放した。どうやら彼はまだ煙草を味わっている様子なので、その横を過ぎてコンビニでの買い物を済ませることにした。
彼は実に悪ガキのようで、別に静かな男というわけではない。
しかし何故か、彼の持つ空気はどこか静かだ。良くも悪くも淡々としていて、それが落ち着くと思う時がある。休日用の食料を籠に放っていると、ふと冷凍コーナーに並ぶアイスに目がついた。暖かくなってからは外出の機会もなく、いまや一種の嗜好品だ。アイスが「食べてくれ」と懇願せんばかりに、そのパッケージに霜をおろさせている。
「……う」
食べたい。ものすごく食べたい。
食べてなかったなあ、と思えば思うほど、その欲求が強くなった。無駄遣いだったかと考えるも、結局そのパッケージを掴んでしまった。会計をしながら、きっと寮で自習に勤しんでいるだろう同期のことを考えて胸が痛んだ。
どのみち寮には冷蔵庫しかついていないので、アイスは食べながら帰るしかない。パッケージを開けながらドアを潜ると、ちょうど一本煙草が終わりかけた松田が灰皿にその頭を擦り付け、ふと私のほうを見る。
「うまそ」
「あ……えっと、食べる?」
「ん、食う」
やり、とその口元に小さく笑みが浮かんだ。
板状のアイスを半分に割って彼に手渡せば、その切り口の汚さに「へたくそ」と笑いながらも、松田は機嫌よくアイスを頬張った。
「ん」
アイスを咥えたまま、不愛想に手が伸ばされる。私は目を丸くしてその手の先を見下ろした。これは何を訴えているのだろう、彼は言葉すくなで、たまにその本心がわからない。きっと萩原がいれば横から通訳してくれたのだろうが、今日はそのノッポ男の姿はなかった。
その時に、私の頭に過ったのは今日の昼食風景だ。
色めきだった声色で、誰が好きだ、彼氏が欲しいだという会話を耳にしていた。女性の妄想とは逞しいもので、萩原の手が大きいから手を繋いだら惚れてしまいそうだとか、伊達があんな大きな手で細やかな作業をするとセクシーだとか、そういったことを話していた。
『小林さんは? 彼氏とかほしくないの?』
にこやかに尋ねられて、私は衝撃を受けた。そりゃ、欲しいとも。欲しいが、欲しいと思ってできるものなのか。柵木にも悪気はないらしく、実に穏やかな表情で問われたものだ。
『可愛いから、ちょっとアピールしたらすぐできるよ』
『そうそう。あ、今度萩原くんたち合コンするって。一緒に行ったら?』
『ダメ、ダメ! ほかの教場の子のなかいったら、ヤキモチで殺されちゃうって』
『それは確かにね……。ほかに良いなって人いない……あ、松田くんとかは!』
――ちょっとアピール。
その言葉の難しさたるや。しかし今の私の頭のなかは姦しい色めきだった声がぐるぐると渦巻いていて、差し出された手にそわそわと視線を彷徨わせてしまった。別に寒くもないし、迷うような道でもないはずだ。
「おい」
はぐ、とアイスをもう片手で齧りながら、松田が少し強く告げた。
もう、なるがままよと彼が差し出した手におずおずと手を重ねてみる。暫くの間、沈黙が二人の間を行きかった。歩道橋を降りていくカップルの笑い声がやけに大きく頭に響く。
「……ふ」
噴き出すような音のあと、松田は口を開けて大きく笑った。
「あっはははは! はは、あ、く、ははは……!」
風が過ぎる音に、その笑い声が溶けていく。私がぱっと顔を上げると、松田は目じりに浮かんだ涙を拭いつつ「それマジでやってる?」と眉が吊り上がった。
「荷物だよ。アイスの駄賃だと思って」
「あ、ああ〜……荷物……」
顔にぐんぐんと熱が籠っていく。湯気でもでてきそうだ。顔を冷ますように軽く扇ぎ、乗せた手をぱっと離そうとした。松田の指先が、それを軽い力で引き留める。
「それって天然か? いちいちウケんぜ」
「恥ずかしいからもうやめてよ」
「ならやんなよ! ふ、おもしろかったから良いケド」
「最悪……一生恋人とかできない……」
頭を抱えながら片手に持ったアイスを頬張る。ああ、甘い。こんなシチュエーションでなければ、より美味しく堪能できたろうに。もったいない。少し柔くなったアイスを頬張る、もう片方の手はいまだ松田の手のなかだ。彼の手は暖かく、やや皮膚が固かった。その顔はどちらかといえば幼な顔な気がするが、手は寧ろ年上の手にも感じさせる。
「つか、あれ手握ろうとした?」
「もう言わなくて良いし……待って、ほかに何があるの」
「あんまりに控えめ過ぎてお手≠ノしか見えねーよ」
「犬じゃないんだけど!」
くく、と喉を鳴らした松田に食いつくと、彼は「声でけ」と軽く眉間に皺を寄せた。歩道橋を登りきる。強い風が髪を揺らした。松田の癖毛もふわりと靡いて、ずいぶん丸っこい額が覗いた。
アイスを食べ終わるまでの時間だ。
半分にしたアイスを互いが食べ終わるまで、何故か松田の手は私の手を捉えたままだった。嫌ではない。食べ終えたあとに理由を尋ねれば、松田はやはり意地悪そうに肩を竦めて告げた。
「そりゃ、勘違いした上にフっちまったら、かわいそうだろ」
――絶対馬鹿にしているに違いない。
確かに女にも愛想の良い萩原の姿が目立つから、際立って女生徒の人気があるわけではないが。なんて考えてしまうのも、頭の中が色めきだってしまったせいか。私はその桃色の空想を振り払い、ゴミ箱にアイスの包装を丸めて捨てたのだ。