19
そわそわと落ち着かない指先をなんとか言い聞かせ、私は扉へと名乗りを上げた。奥から聞こえたなあなあな返事に扉を開ける。あまり馴染みのない上官が小さく敬礼をした。私はそのまままっすぐに、目的の席へと足を向ける。
「鬼塚教官、先日の病院の診断結果です」
「ご苦労」
警察学校は学校とは名付けられているものの、入校した時点で公務員の一員だ。今この時間でさえ給料が発生している――職務中なのである。で、あるので当然ながら休みをもらうには申請が必要であった。私の提出した書類に目を通すと、厳つい目線がこちらを見上げた。
「手も、平気か?」
「あ……はい。重いものを持てば痛みますが、それ以外は特に」
「そうか」
下がって良いぞ、と鬼塚は受け取った書類をデスクに置く。私は口元を僅かにもごりと言い淀ませて、踵を返せないままでいる。しばらくその場に留まっていると、鬼塚が怪訝そうに「なんだ、帰って良いぞ」と今一度言い聞かせるように告げた。
『そりゃ、俺じゃなくて、言う人がいるだろぉ』
『礼を言う相手が違うよ』
同期たちの言葉が頭を過ぎ去っていく。分かっている。私が礼を言うべきなのは、受け止めてくれた萩原よりも、縄を切ってくれた降谷よりも――。あの時、落ちてきた私の姿を見止めてなりふりかまわずに両腕を伸ばした、目の前の男だということ。教場の担当上官なのだから、あれから幾度と顔を合わせていたというのに、それを切り出す勇気が少し欠けていた。
だが、どうだ。
目の前の男は普段訓練場にいる姿より僅かばかりに柔い雰囲気を纏っていて、しかもおあつらえ向きに診断書を渡したばかりだ。
――もしかすると、あの時落ちたのが私であったことは関係がないかもしれない。
降谷がそうであったように、鬼塚もまた彼なりの警察官の使命を全うしただけかもしれない。だが、それでもあの時、確かに私のことを呼んだ。あの瞬間だけは、私のために伸ばされた腕だったのだ。ならば、それには応えたいと――そう、思うのだ。
「小林?」
それは、たとえば松田に声を掛けた時や降谷と話をした時とは少し違う勇気だった。恐らく、それを言葉にしたとて鬼塚が怒鳴ったりだとかはしないことは分かっていたのだ。ならば何故言いあぐねたのかと言えば――。ひとえに、少しむずがゆかった。それを言葉にするのが気恥ずかしかったのだ。
引き結んだ唇を少し震わせながら、彼に今一度敬礼をした。着校時からさんざん叩き込まれた姿勢だ。背筋をしゃんと伸ばし、足の角度は六十度。顎を引き、親指と人差し指は必ずつけたまま額へと持っていく。脇の開きは九十度――もう片手は中指がズボンと平行になるように下ろす。
「せ、先日は、ありがとうございました」
そう告げると、鬼塚は普段顰め面ばかりする表情をキョトンと固まらせた。そして、彼は大口を開けて笑う。今まで見たことがないほどに、見た目の通り豪快な笑い方であった。ふと鬼塚が立ち上がる。ずっしりとした体はまるで熊のようだ。背丈は伊達や萩原のほうがあるように思うが、妙に大きく見えるのは体格の問題だろうか。
「こちらこそ、縄を緩めようとしたこと、降谷たちから聞いている。感謝する」
鬼塚は私と鏡合わせになるように、答礼を返した。
じいんと胸の内に滲むような感動を覚えながらも、私の頭はパニックに陥っていた。普段の訓練であれば、私たちの敬礼に鬼塚が答えて終わるのだが、この場合はいつ切り上げるのが正しいのだろう。今相手方から感謝を受け取ったのだから、もう一度敬礼したほうが良いのだろうか――。しかし、既にこの体勢であるのに、もう一度やり直すのも妙では。
云々と考えを巡らせてだまりこくっていれば、再び鬼塚が笑った。まるで私の考えなど見越したように「もう良いぞ」と言われ、私は少し顔を赤らめながら腕を下ろすのだ。
◇
教官室からの帰り道は、いつもよりも空が広く見える。なんとも心が軽やかな感じで、呼吸すら楽だと錯覚した。鬼塚の纏う雰囲気は、どことなく父に似ている。あそこまで手厳しい男ではなかったが、その笑い顔は殊更だ。そうであったから、父に認められたような気分になり、すっかり浮かれていたのだ。敷地は街中ではないから、星の瞬きがよく見える。星座など、せいぜいオリオン座程度しかわからなかったが、チラチラと視界を刺激する小さな明かりたちについつい顔が上を向いていた。
「よぉ」
「いやーっ!」
「い、いやーって……」
いつのまにやら止まった足並み。突然に肩をポンと叩かれて、私は思い切り体を跳ねさせた。天敵に出くわした草食動物のようにパっと飛びのく。私の姿を見て苦く笑う男が、行き場を失った手を軽くひらりと振った。
「ビ、ビックリした! 先に声かけてよ」
「先にかける、ってどうやって」
「今からしゃべりますって言って」
バクバクと脈打つ鼓動を押さえるように胸を押さえて、ため息交じりに告げると萩原が「なんで!?」と笑いながら声を上げた。笑うと揺れる黒髪は、夜空には映えない。むしろひっそりと溶け込んでしまいそうなほどに、彼の髪は真っ黒だ。恐らく染めたこともないのだろうなあ、何となくそう思った。
「いや、昨日が通院の日って聞いてたからさあ。今日報告にいくだろうなって待ってたワケ」
「あ、ありがとう。順調だってさ」
「そーお? なら、良いけど」
「そっちこそ。頭大丈夫?」
一瞬、彼がギョッと目を丸くした。何を言い出すのやら、と言う風に私を見るものだから、慌てて額を指さし「ほら、逮捕術の」と付け足す。萩原も納得したのか、幾度か頷いてからあっけらかんと広い額を擦った。
「や、怪我ってわけじゃないしね」
「すっごい良い一本だったもんね」
「言うなよ。カッコつかねえじゃんか」
萩原はその口元を尖らせ、ぶすっとむすくれて見せた。
「あはは、不細工」
そのベソベソとした眉の下げ方が妙にツボで、笑ってやると萩原が「は!」と大声をあげた。私はその声に驚いて、寮に向かっていた歩みを再び止めた。
「ぶ、不細工ゥ?」
「え……あ、いや、ごめん。冗談だったんだけど」
「怒ってるとかじゃないけど……初めて言われた。うわぁ〜、マジかぁ」
「…………萩原くんのソレって天然なの、わざとなの」
ぺし、と輪郭を両の手でなぞりながら嘆く男を横目に、呆れながら息をつく。確かに美形ではあるが、改めて言われると反発したくなるものだ。ふと、萩原の大きな手が私の両手を纏めてぎゅうと握りしめた。彼はずいと私の鼻先がぶつかるほど顔を寄せ、ジィ、とこちらを見つめ、瞬いた。甘く垂れた目つき。高い鼻先と、形のよい唇が目の前にある。
「ウッ」
「やっぱ効いてるよなあ……」
「顔面の調子私でチェックするのやめて……」
ぶわっと体中に血が巡るのを感じ、解放された両手でパタパタと頬を扇いだ。これでは私が本当にただの面食い、のようではないか。いや、美形を嫌っているわけでは勿論ないのだが。
「あ、まさか降谷ちゃんの顔のが好きになった!?」
唐突に降谷の話を振られて、私は「えぇ」と呆れて眉を顰めた。くだらない、と一蹴する傍ら、萩原は同期の名前を連ねていく。別に、それが原因ではないのだけれど。まあ、萩原もそれは分かっているのだろう。冗談の延長戦みたいなものだ。
「んじゃあ、大穴で陣平ちゃん!」
萩原がにこやかに、教場の男をすべて並べ立てた。大穴、とは松田に失礼な気もするが。私ははいはいと軽く笑い飛ばそうとして――。
「あれ?」
――自分でも、今浮かべている表情が可笑しいことに気づいた。明らかに笑おうとした口元は引き攣ったし、眉間の皺も寄った。それに、隠しきれないほどに、先日のフラッシュバックを起こしたように顔やら首やら耳やらが、沸騰しそうなほどに熱かった。きっと、目の前で「え」と口を半開きした男の目からは、茹でだこのように映っているだろう。
――いやいや、なんで!?
思わずそれを隠すように頬を両手で覆ったものの、時は既に遅かったように思うのだ。