28


「ちょっと、未桜。いい加減起きなさいよ」

 自室の外から普段よりも少し強い口調が転がるが、私はなあなあな返事をして布団から頭を飛び出させた。せっかくの休日だ。まだベッドの上を転がりたい気持ちが大きい。もう一度頭を引っ込めようとすると、今度は扉が叩かれた。

「ねえ、ゴロゴロしてるだけなら買い物に行ってきてくれない? ちょうど重たいものを買い足したかったのよ……」
「えぇー……」
「良いじゃない」

 ね、と諭すような声に、のそのそと体を外に出す。実家に置いてもらっている身ではあるので、強く文句は言えない。間延びした返事を返して、適当な服に着替えなおした。無駄な体力があるのは昔からのことなので、大きな荷物を買いに行くのには慣れていた。大抵少しだけ離れた隣町のホームセンターで買い足すのだ。さすがにジャージで行くのは憚られたから、動きやすいようパンツスタイルで、髪は寝癖を直すのが面倒なので結ってキャップを被る。母からメモ書きを受け取ると、高校時代から使っているボロっちい自転車に跨った。

「あつ……」

 まだ五月とはいえ、陽ざしが強い日であった。
 髪を結った項がジリジリと照り付けられ、熱を孕む。自転車を漕ぐと風が肌を撫でてちょうど良かった。坂を下り、上り、もう一度下る。街中を抜け公園を横切り、木々が揺れる影を通り過ぎた頃、目的の店が見えた。駐輪場で一息つき、店内に入るとカートを押す。

「えっと、トイレットペーパーと、水と……」

 日用品が書かれたメモを片手に気だるくカートを押していると、ふと立ち止まったらしい男にカートの頭が当たった。私が驚いてメモから顔を上げるのと、その男らしき声色が「うお」とこぼすのはほぼ同時であったように思う。

「あ、ご、ごめんなさい!」

 つい、大きな声が飛び出た。
 目の前にいた男は怒るわけでもなく、ただフっと鼻を鳴らす。――「デケー声」。聞き覚えのあるものだ。私と同じようにキャップを被り、うっすらと色の入ったサングラスを掛けているが、その反応で誰かはすぐに判断がつく。

「……松田くん?」
「荷物までデッケー。実家のパシリ?」
「そっちこそ。何してるの」

 店に来ているのだから買い物だとは思うが、確か萩原の実家へ行くと言っていなかったか。「萩原くんも一緒?」と尋ねれば、彼は首を振った。

「泊ったからって一日ベッタリでいられっかよ。こっちは自分の用事」
「あ、そうなんだ……」

 話しながら、彼は私のほうへと歩み寄ると押していたカートを手に取った。松田の手にあった籠も、カートの下段に入れ込む。どうやら買い物に付き合ってくれるつもりらしい。そういえば以前コンビニで鉢あった時もそうだったか。案外面倒見が良いというか、付き合いが良いというか、そういうところがある。

 彼は荷物が増えて重苦しくなるカートを押しながら、時折興味があるらしい工具を手に取って見ていた。私にはまるで分からなかったが、彼のサングラスの奥の眼差しが、いつになく輝いていることだけは分かる。

 広い店内を暫く進んだところで、松田はふと口を開いた。

「……仲直りしたか」

 ぽつ、と独り言のようにぼやく。はてと目を瞬かせ、暫く考え込んでしまった。煮えを切らしたように、松田が「萩とだよ」と付け加えた。

「あ……ああ〜……」

 なんとも、情けない声が漏れ出てしまった。ここ暫くが平穏であったから、そんな時期もあったと思い出す。別に喧嘩をしたわけでもなかったし、松田も特に触れてはこなかったから、なんだかずいぶんと前のことに感じた。

 気恥ずかしく頷けば、彼は「ならいい」とあっさりした反応で済ませ、再び視線を商品棚に戻す。そこからは他愛ない話をしながら、時折萩原の家族や地元の話をぽつぽつと交わした。まるで己のことのようにするすると漏れ出す言葉に、本当に仲が良いのだと感心したものだ。
 
 買いだしたものを自転車の荷台に乗せて、しかし松田はどうやら歩きで来たそうなので(それだけ萩原の家が近いのだろうが)分かれ道まで車体を引いていくことにした。松田がすんなりとハンドルを取ってくれる。普段の彼はヤンチャで、別に紳士的なわけでもないが、良い人なのだろう。時折そうやって、無意識に取る優しさは松田の魅力であると思う。

 鳥が囀る。緑の茂る枝の上にできた巣が影を落としていた。
 心の奥は、安堵していた。もし萩原との喧嘩の理由を聞かれたらどうしようかと迷っていた靄が晴れた気がする。軽い足取りで歩いていると、ふと横目に公園が見えた。――思わず、足が止まる。

「……この公園」

 目を細めた。妙に既視感のある遊具の並びだ。記憶の欠片が風景に重なって、あたりをきょろきょろと見渡した。ブランコやジャングルジムの位置、あの子がランドセルを置いたベンチの形。

『――なれるよ!』

 風が吹いた。
 若葉がその強い風に攫われて、はらりと目の前を過っていく。あの時に見たのは、薄い桜色であったけれど。私はふと頬を緩めて、それと同時に涙の線が緩んだ。じわじわと浮かんだ涙が、瞬きをした拍子に一粒だけ地面を濡らした。

「な」

 数メートル先、私が足を止めたことに気が付かなかったのだろう。松田がふとこちらを振り返り、目をまん丸にして踵を返した。ずかずかと歩み寄り、自転車を停めると、彼は驚いたように肩を大きく揺らして呼吸する。

「っに、泣いてんだよ!」

 住宅街に響く、よく通る声に目を瞬いた。感情とは別に、先ほどまで浮かんだ涙が睫毛に押し出され、もう一粒頬を伝う。松田が焦ったようにイっと歯を嚙みしめたのが可笑しくて、私は眉を下げて笑った。

「ごめん、その、松田くんのせいじゃないから」
「……周りから見て百パー俺の所為っぽい台詞吐くな」
「ごめんって……。その、ちょっと思い出の場所で……」

 公園に視線を遣ると、松田はつられるようにして視線の先を辿った。

「――寄るか」

 躊躇いなく自転車を引く、その足並みはやはり優しい。後をついてベンチに腰かけた。風の音に紛れて、子どもの声が飛んできた。傍に小学校があるのだと、松田が言った。

「じゃあ、そこの子だったのかな」

 殆ど独り言ではあったが、松田が聞いてやると言わんがばかりに煙草に火を点けたものだから、不思議と口裏を突いて言葉が零れる。誰に話そうと思ったこともないのに、何故か彼といると心地よいと思った。警察官になった理由までは言わなかったが、幼い頃に同級生の意地悪を助けて此処へ走ってきてくれた少年の話をした。

「子どものときはどれだけ探しても見つからなかったし、もっと遠くだと思ってて……。こんな近くにあったのにビックリしたっていうか……、それで、つい」

 苦笑交じりに頬を掻く。爽やかな青空に不釣り合いな煙が、ゆらりと揺れて消えていった。

「でも、良かった。なんだか得した気分」
「……あ、そ」

 松田は別にどうこう言うわけでなく、いつものように淡々と頷いた。――それで、良い。それが良かった。言及されるでもなく、ただ傍に立っていてくれる彼の存在が心の音を緩やかにするのだ。ニ、と歯を見せて笑えば、彼はそれを真似るように片側の口角だけを持ち上げた。噛みしめた煙草は、いったいどんな味がするのだか。

 さてと、と腰を持ち上げた。松田が携帯灰皿に煙草の先を擦り付けるのを見て、自転車を引き取ろうとする。
「お前さ」
猫のような悪戯っぽい目つきが、色の薄いサングラスのレンズの奥で細められた。やけに重苦しい瞬きと視線を合わせて首を傾げれば、松田が視線を逸らす。


「……なんでもねー」


 少しばかり笑い交じりの言葉はなんでもない――という色には聞こえなかったが、肩を竦めた松田に私も彼を倣ってただ頷くことにした。


prev モナムール next


Shhh...