27
時は少し経ち、緑の柔らかな若葉が日差しを透かす。木漏れ日がアスファルトを跳ねる朝、荷物を手に伸びをした。おおよその生徒もまた、私と同じように荷物を片手に堅苦しいスーツを羽織っている。世は大型連休――今日から、学校外での外泊が許可されるのだ。もちろん、私たち自身に長い休みが与えられるわけではないが、この外泊時期が一つの山場。ぎゅうぎゅうに締め付けられた規則の中、唯一羽休めをできる今日まで、よくぞ耐えたものだと己を褒める機会である。
教官には散々「くれぐれも羽目を外さないよう」と念を押されたが、ベッドの上で怠惰に過ごすつもりなので心配には及ばない。寝て起きれば母が料理を持て成してくれる。風呂にもゆっくりと好きなだけ浸かれる。いまから思い浮かべてもニヤニヤと頬が綻ぶ休日ではないか。
「なあにニヤニヤしてんの」
ふと頭上が翳る。頬を軽く押さえて見上げると、黒い長髪が垂れた。ニコっと愛想の良い表情に、思わず先ほどまで緩んでいた口元が引き攣った。その表情を見て、太い眉が意地悪そうに吊り上がる。
「おいおい、嫌そうな顔するなよ」
「……もう良いって言ったのに」
「遠慮なさらず」
言うなり、彼はその場にしゃがみこむ。そしてどうぞと言わんがばかりに頭を下げるのだ。私がげんなりとしてその姿を避けようとすると「えっ」、と――さも心から傷ついたとでもいうような声色が零れる。
『……もしかして立てないの?』
――例のコンビニ強盗事件の後だ。上官たちに事情を聴かれる同期たちを横目に座り込んでいると、萩原が心配そうに尋ねかけてきた。恐らく軽く挫いただけだと笑えば、彼は甲斐甲斐しく背中を差し出してきた。
『や、い、良いよ』
『良いから。お姫様だっこが忘れられないなら、それでも』
『……』
揶揄うような口ぶりに、広い背中にそっと跨った。人におぶられるのなんて、いつぶりだろう。私の体よりも一回りと広い体つきに、おずおずと手を伸ばす。上に持ち上がる感覚にぐらっと上半身が揺れ、支えるために肩にしっかりとしがみついた。
ジャケットからは香水の匂いが強く香る。普段それほど感じたことはなかったから、私服だとよく嗜むのかもしれない。あまり嗅ぐのもなあ、と顔を背ける。それが背中越しに伝わったのだろう、少しだけ肩が揺れた。
ゆったりとした歩みに眠気が瞼を重たくした。ぼやけた視界の中、街頭や赤色灯がポツポツと光る夜であったのを、強く覚えている。
彼と――萩原と、妙な誤解を挟んだままにならなくて良かった。彼だけでない、松田も、降谷も諸伏も伊達も、私の言葉を聞いてくれた寮の仲間も。以前の私であれば、諦めていたものが傍にあるような気がするのだ。
『――良かった』
ぽつ、と一言零れ落ちた言葉に、萩原が何か言うことはなかった。
――そこまでは、良いのだ。
怪我をしたことに心配してくれたのは確かであったし、恐らく彼も少しの後ろめたさがあったのだろう。それでも、仮にも萩原が助けてくれた方であり、更に言えば携帯電話の画面は割れてしまっていた。寧ろ呵責を感じるのは私の方だ。
にも関わらず、だ。彼は毎週のように、休みになると私を迎えに来た。最初こそ平日も来たのだが、さすがに上官にどやされるからと懇願した結果だ。足を捻ったといっても肩ほど大した怪我ではなかったし、歩けないわけでもない。
だが、萩原曰く、悪いと思っているならおぶられて欲しいと。――うぅん。
「……やっぱり、いやがらせだったりする?」
「えぇ。なんでそうなるのよ」
「だって、今もニヤニヤしてるでしょ」
彼が何かと私を揶揄う性質であるのは知っていた。(携帯電話の修理代を今すぐ払える貯金もなかったので――)、今日とて大人しく背中に引っ付いて門まで送られていると、萩原は軽く肩を竦めた。ぷらぷらと宙にぶらつく足先の痛みは、もう殆どない。
「出たよ、モンペヤロー」
「誰がモンペよ」
「どう考えたって過保護だろ……」
呆れたようにネクタイを緩めながら、松田が私の背をポンと叩いた。真っ黒なスーツを着ていると、どうにも歳幼く見えてしまうのは――就活生のような若々しさが、彼にあるからだろうか。
「お前もサラっと慣れてんじゃネーよ」
「慣れたわけじゃないけど、萩原くんしつこいから」
「ふ、しつこいって……」
松田がクック、と喉を鳴らすようにして笑った。最初こそ散々笑われ指をさされたが、順応が早いのも彼の長所の一つなのだろう。今や萩原の荷物を代わりに担いでいる有様である。
「実家帰ンのか?」
「うん。久しぶりだし、顔見せたいし……。二人は?」
「俺はコイツの実家」
と、松田が萩原のほうへクイと顎をしゃくる。そういえば、ことあるごとに腐れ縁だとか言っていたか。仲良いね、とぼやけば二人そろって「仲良くねー」と私を一睨みした。まあ、そんなところが――。と思いはする。
「あ、もう門出るから降りるよ」
「駅までこのままで良いのに」
「冗談……視線に耐え切れなくて死んじゃう……」
松田命名『萩原タクシー』は、ようやくのこと私の足を地面に下ろした。すくりと立ち上がった彼の背丈は、私のはるか上にある。つい先ほどまで目の前に項があったことなど信じられないほどだ。
「ご乗車ありがとうございました〜」
「運賃ぼったくられないように財布絞めとけよ」
「ひで〜! 女の子は無料に決まってんじゃんよ」
――まあ、それは萩原が私を女の子という括りで見ていたらの話ではあるが。ふれあい動物園の雌にどんなおべっかを使うのだか、呆れ半分の視線を送っていたら、萩原はニコニコとした笑みを深めた。本当に、いけ好かない悠々とした笑みだ。いつか「前の借りがあるだろ」ととんでもないことに駆り出されないことを願おう。
何となしに最寄り駅まで隣を歩くと、件のコンビニの横を通り過ぎた。ずいぶんと前のことに思えるが、やはり萩原と仲を戻せて良かったと今一度思う。そして、あの日彼らと共に一歩を踏み出せて良かったと、思う。以前よりもだいぶ暖かくなった風が、前髪をふわりと靡かせた。
あれほど待ち焦がれていた休日が、僅かに寂しいとも感じるのは――その所為だ。
実家では、いつもの自分に戻るから。幼い頃からの習慣だ。そう簡単に変わるものでもない。別にそれを苦だと両親に訴えたこともない。彼らがいないと勇気を持とうと思えないのは、まだまだ未熟な所為だ。
「……なんとかしようって、思うだけ進歩かな」
踏み出したパンプスの踵がアスファルトを鳴らした。言い聞かすような独り言は、じゃれあう二人には聞こえていないだろう。良き友人だと一瞥してから、財布を取り出す。地元駅への切符を買うと、二人がこちらの手元を覗き込んできた。
「あれ、地元近いんだ」
「マジじゃん。二駅くらいしか違わねー」
私は目を丸くして振り返る。――「……ほんと?」。きょとんと首を傾げた仕草に、彼らは揃って頷いた。どうやら冗談というわけでもないようだ。私はほんのりと耳やらを赤くした。そりゃあ、同じ警察学校に通っているのだ。会えない距離にいるわけではないと思っていたけれど――。
ちょっとでもノスタルジーになったのが、馬鹿みたいじゃないか。
羞恥を誤魔化すように咳ばらいをし、切符を通す。結局、萩原たちの地元駅も同じ方面であったので、赤くなったのを「寂しくなっちゃった?」と揶揄われながら帰路についたのだった。