19

君が夏を連れてきた
「ひなは、大学行く」

 唐突な投げかけだった。質問だとは思えないほど淡々とした口調だったから、私に言ったのだと気づくまで数秒ラグがあった。私は曖昧に頷く。どこにいくだとか、何をするだとかは決めていないが、ぼんやりと大学に行かなければという認識だけがあったのだ。陣平はどうなのだろう、私はチラと彼を覗き見る。

「まあ、そのつもり」

 明確な目標もない言葉は、情けなく空気を震わせる。陣平は「そうか」と短く返した。何か話したいことでもあるのか、妙な歯切れの悪さだ。海に落ちる声は私たち以外にはどこにも残らないような気がして、話しやすい。自然と「陣平くんは?」と言葉が零れた。

「大学行く。マ、多分ひなとは離れるだろうけど」
「えぇ、なんで?」
「工学部だから。そういうの苦手だろ」

 確かに、得意ではない。私たちのクラスは文系クラスだが、そういえば陣平と萩原が所属する隣のクラスは理系クラスなのだ。学部が異なるのは当たり前ではある。そう思うと、同じ学校内で生活できるのは残り半年か。

「やりたいこととかないからなあ」

 曖昧に眉を下げて笑うと、陣平はニヤリとしながら「んなもんだろ」と呟いた。
 そうかなあ、と返せば、そうだと頷かれる。彼曰く、高校生なんてそんなもん――とか。陣平も同い年なのに、妙に達観したように語った。普段は不器用ささえ感じるのに、そう語る彼の横顔はやけに大人びて見える。

「いいよ。好きなことやりな」

 にひ、と生意気そうに彼が笑う。その笑顔が水面の反射でキラリと光って、息を呑んだ。
 好きなこと――ずっと、欲しかった。夢中になれるもの。本気でそれだけを追いかけられるもの。結局それがないから未来が見えないのだ。そういう話になると、ブルーになってしまう。

 けれど、本当に、彼が言う通り好きなままで良いのなら――。

「私、陣平くんの傍にいたいな」

 夢中になれるものなんてなかった。結局中途半端な熱を入れたものからは、中途半端な楽しさしか得られないのだと知っていた。それでも、私は自分で見つけることができなかった。ずっと、ずっと欲しかったのに。
 初めてだったのだ。たった一つのことに死にたいと思うほどに苦しんで、たった一つのことにあれほど世界が美しく映ったのは。彼がいれば、いてくれれば――もう他に何もいらないのではないかと、一瞬でも過ってしまったのは――初めてだったのだ。

「……ば、っかじゃねえの」
「分かってるけど、だって、他にないんだもん」
「このバカひなめ。たく、そりゃ俺がお前に言ったことだろ」

 言うと、陣平は私を手招く。そして笑いながら、自らの両肩をトントンと叩く。恐る恐るそこに手を乗せると、膝の裏をぐっと持ち上げられて、彼の背に負われた。急に持ち上がった視界に「ひえ」と情けない悲鳴が出る。

「な、なんでおんぶすんの!」
「うるせ。オラ、走るぞ」
「やだやだ、ねえ速いの怖いからあ」

 きゃあという声も聞かずに、彼は足を速める。陽が少しずつ高くなっていた。
 触れた肌がじっとりと蒸しはじめて、しかし嫌だとは思わない。私と同じ旅館のシャンプーの匂いが、その髪から潮風に混ざって香った。

「俺、警察官になりてえんだ」
「……警察官?」

 背後からでは彼の表情は窺い知れない。彼のことだ、負ぶったのはその為なのかもしれない。声を潜めて、波間を眺めながら彼は笑った。

「誰にも言うなよ、萩にも言ってねえんだから」
「えっ、嘘‼ 萩原くんに話さないことなんてあるの」
「たくさんあるっつーの。アイツ、面喰うだろうなあ、この俺が警察官だぜ」

 触れている背中が揺れて、彼が笑っているのが分かった。それから僅かに歩調を緩めると、ぐっと指先の力が入る。先ほどから歯切れが悪い返答があったのは、それを伝えたかったのだろうと――彼の振り絞るような声に、自然とそう思った。

「な、なれるよ」
 あまりに稚拙なエールを投げかけると、陣平が声を上げて笑った。一通り可笑しそうに笑ってから、何度か頷きながら私の体を地面に下ろす。二人でしゃがみこんだまま、その顔がゆっくりと振り返った。

「根拠ねーじゃん。なんでそう思う?」
「なんとなくだけど、陣平くんそういうとこは頑固そうだから」
「……じゃ、お前もなれるよ。根拠はねーけど」
「なれるって……」

 私は彼のように夢はないのにと言おうとすれば、ぽんと大きな手のひらが頭に乗る。潮風で絡まった毛先を、器用な指先が解いていく。

「お前がなりたいもんに、なれる。俺の傍にいたいならそうすりゃ良い」

 できるよ、と――彼はもう一度静かな声色で繰り返した。波が立つ。ザザ、とノイズのように彼の声を紛れさせていく。

「……良いの?」

 自信なく、小さな掻き消えてしまいそうな声量で尋ねた。ほとんど息が混じって、空気を震わせる音などなかったかもしれない。陣平は私の前髪をわしゃっと掻き上げて撫でつける。

「良いよ。好きにしな」
「……でも、そんなに好きになれなかったらどうしよう。私今まで別れて泣いたことない」
「じゃあ号泣できるくらい好きにさせてやる」

 宥められるように、ゆったりとした手つきはいつになく優しく――否、彼は最初から優しかったか。少し生き方が不器用なだけで、最初から。私は小さく笑った。こんなやり取りをしていることに恥ずかしさもあった。

「いる……私、君の傍に、いる」

 そう笑った背後で波の音がしたはずだった。吸い込まれるような口づけに、何もかも見えなくなってしまっていたけれど――静かで、美しく、眠たくなる音であったような気がする。
 あれだけ美しいと思った海よりも、朝陽よりも、目の前で瞬く彼の瞳や肌の温度、髪の匂いが頭にこびりついた。触れた唇は今までの誰としたキスよりも熱くて、きっと目を開けたら彼の顔は赤く染まっているのだろうと思う。

「……ふ」
「なに笑ってんだよ」
「なんでもない」

 想像してつい笑ってしまった。陣平が明らかに機嫌を損ねたような声で私を咎めるので、目は開けないでおいてあげようと思った。

 ――静かな潮の香りに、確かに幸せを感じていた。
 彼にこの先の未来も何も、奪われてしまっても良い。ただ傍にいたいと、そう考えた。
 私の思考は若くて、瑞々しかった。愚直にそうあれば良いのだと思っていた。エゴイズムと思われようが良いと、思っていたのだ。事実そうだったのだろう。私のその我儘で、周囲がどう思うかなど想像できないほど、若く青い夏だったのだ。




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