18

君が夏を連れてきた
「つっかれた〜!」

 ぼすん、と敷かれた布団に体を沈める。散々泳いだあとは潮が引いてできた潮だまりで魚やカニを見に行った。イソギンチャクや小さなカニが水たまりのなかにいるのを、陣平が子どものように捕まえて喜んでいた。私も一緒になってイソギンチャクを突いたりしていたのだが、途中でフナムシが這っていたことに気づいてヒエっと足を上げた拍子に転んで膝を擦りむいてしまった。
 そこからはバタバタで、やれ医者だなんだと騒ぐ陣平と萩原をよそに、桜が近くのコンビニで救急セットを買ってきてくれた。部活で慣れているからという彼女の手つきは優しく手際が良い。全員で感心しながら傷口を眺めたものだ。

 夜には旅館で海鮮料理を食べて舌鼓を打ち、桜と温泉にも入った。部屋に集まって四人で七並べをして(ちなみに、負けたのは私だ)今に至る。さすがに朝から遊び通しだったので体力も残り僅かだ。冷えたシーツに足を乗せながら寝返りを打つと、桜が笑った。

「でも楽しかったね。学校行事以外で男の子と旅行きたの初めて」
「そういえばそうかも。でも良いね、荷物持ってもらえるし」

 いひひ、と悪戯に笑うと彼女も声を上げた。
 ――萩原のことが一瞬頭に過るが、かぶりを振って追い払う。彼は内緒にしてほしいと言った。桜も、フラれるくらいなら今の関係でいたほうが良いのではないだろうか。それとも、それはあまりに残酷だろうか。

「ううーん、私も眠くなってきた。電気消すね」
「……うん」

 ぐっと体を伸ばす桜の背を、寝ころんだまま見送った。どうしたら、一番幸せな未来が訪れるのか。彼女に何を伝えるべきなのか、私はこの先どう生きるべきなのか。決めなくてはいけないことがたくさんある。こんなに楽しい日々なのに、終わりが見えることが嫌だった。
 だが、どんなに嫌だと思っても明日は来るし、明後日も来る。私たちは十代じゃなくなる時がやがて来る。その時も、私の横には陣平がいると良いと――今はただそう願った。



「――ひな」

 うつろに目を開ける。ぼやけた視界を何度か瞬いてピントを合わせると、生意気そうな目つきがすぐ目の前でパチンと瞬いた。私はギョっと目を見開いて後ずさる。シーツに皺が寄った。

「……じ、陣平くん⁉」
「なにそんな驚いてんの」

 ふ、と片側の口角が持ち上がった。黒い癖毛が枕に散らばる。ドッドッ、と鼓動が跳ねた。今日旅館で借りた浴衣が、ゆるりとはだけている。水着姿の時に見えた厚い上半身が薄く涼やかな布地から覗いていた。

「……あ」

 顔が赤く染まる。自分でも吃驚するくらい視線が逸らせず、彼のことを見つめていた。
 瞳の中は魚のウロコのようにキラキラと反射していて、私を見て僅かに小首を傾げる。なんで此処に、と目をうろうろさせる私に対して、ずいぶんと余裕ぶった表情をしていた。大きく熱い掌が頬に触れる。火傷してしまいそうだった。

「な、さ、桜は……」
「んだよ、お前……俺ァ木原じゃねーんだけど」
「そんなの知ってるよ! なんで、部屋に入ってきてんのって……」
「なんでって――」

 唇が頬にふわりと乗った。彼は確かにいつも掠れた声をしていたけれど、二人だけの部屋にいるとそれがよりセクシーに鼓膜を揺らす。しっかりした指先が首から鎖骨をなぞって、その下にある乳房のほうへと降りていく。

「俺、お前に隣にいてほしーもん」

 だめ。彼はちゅうと耳たぶにもキスをする。駄目じゃないけど、そうじゃなくて。私も上手く喋れなくて、彼のよく分からない理論に流されて瞼を落とす。「なんで目ェ閉じンの」。
 陣平が尋ねた。恥ずかしいのだと告げれば、ククと可笑しそうに笑った声が小さく「かわいい」とぼやいた。掌が、ぐっと乳房の下を持ち上げるように柔くつかむ。
 どうしよう、そんな場所にあったらこの鼓動の音が丸聞こえではなかろうか。それともそんなことすら、彼は楽しんでいるのだろうか。
 
 それでも幸せだと思えた。
 部屋の中は暗くて、私と陣平だけで。脅かすものも考えなければいけないことも、時計の針の音さえ聞こえなくて。ただ、体温だけが伝わる。なんて幸せなのだろうかと――そう、思った。

 だから拒まなかったのだろう。こんなワケの分からない中でも、彼がキスを落として、必要としてくれて――満足だった。幸せだった。人を好きになるとはこういうことなのかと。

「あっ」

 掻き消して、どの音も、誰も、未来も、過去も。その熱が、音が、全部消してしまって。

 ―――
 ――
 ―

「ひな、ひなってば」

 体を揺すられて、瞼を持ち上げる。涎が垂れていることに気づいて、慌てて口元を拭った。乱暴な手つきでこそなかったが、暗い室内で何度かきつく瞬きをするうちに彼女の気遣わし気な表情が窺えた。

「さっきからずっと携帯鳴ってるよ。大丈夫?」
「けいたい……今なんじ……」
「四時すぎかな。こんな時間だもん、何か急用なんじゃない?」

 確かに、こんな早朝にしつこく電話をするくらいだから、急を要することなのかもしれない。まだ眠りたいと訴える重たい体と、閉じかける瞼を叱咤してなんとかかんとか携帯電話へ手を伸ばした。確かに私の着メロだ。ぼんやりとしたまま手繰り寄せる。

「んん、はい……」
『……ひな?』

 全身をゆったりと巡っていた血が、急にぐぐっと上半身に集まるのが分かった。桜も再び布団に潜り直したというのに、慌てて飛び起きて正座しながら携帯を耳に当てる。先ほどまで夢で私を呼んでいた声だ。あんな夢だったから、なんだか気まずい。
 前のめりになりながら声を潜めて「陣平くん」と驚いた声を零すと、向こうから欠伸を零す音がした。

「どうしたの、朝早いのに」
『どうって……。朝、海見に行くんじゃねーの』
「……朝ってそういう」

 だって、確かに朝とは言っていたけれど。旅館で朝食を摂ってから、もう一度みんなで来ようという意味だと思っていたのだ。まさか本当に、しかもこんな早朝にくるなんて。私が驚いたあまり次の言葉を発せないでいると、陣平が呟く。


『――……いかねえの』

 零れた言葉に、先日引かれた手を思い出して、指先がぴくりと反応した。きっと彼の表情もまた、先日のようにぶっきらぼうで、精一杯絞り出したような顔をしているに違いない。そう思ったらいてもたってもいられず、大急ぎで着替えをして、ボサボサの頭を軽く梳かして支度をした。

「い、今から行くから待って!」

 慌てて扉を開ける――と、扉のすぐ横に彼は立っていた。携帯を片手に、目を丸くして飛び出た私を見る。私もそのクルっと丸まった髪を見て、思わずつんのめった。その拍子に足を半ばまで入れていただけのスリッパがすぽんっと抜けて、向かいの壁に飛びぶつかった。パシン、間抜けにぶつかった軽い音が響く。

 慌ててそれを拾い上げようとペトペトフロアを歩いていくと、背後から「ふは」と堪えられないような笑い声が零れた。その笑い声に、スリッパ片手に振り向いた。

「急ぎすぎ」
「……だ、ってぇ。あんな声で言うから、焦ったの」
「どんな声だよ。ほら、ちゃんと履け」
 
 すっと私の傍に寄って、軽く体を屈ませる青年の姿をジィと見下ろしてしまった。その肩を貸してくれたのだと気づいたのは、彼が「はよ」、と私を急かしてからのことだ。肩に手をついて、スリッパに足を入れる。このくらい、支えがなくてもできるけれど――胸がキュウっと切なくなったので、今は女の子ぶっておくことにする。

 陣平はまだ少し眠たそうだった。
 欠伸を堪えるように時折息を詰まらせたし、二重もいつもより幾ばくか重たそうだ。それでも文句ひとつ言わず、私の手を引いて坂を下りた。まだ日も登り始めたばかり、気温も高くなく、歩くぶんには心地よかった。
 店もまだコンビニくらいしか開いていない。人もまばらで、時折近くを通る車の音だけが他に人間がいるということを思い出させた。彼は少し歩いたところにある、海水浴場の近くの防波堤へと私を連れていく。その上にヒョイと飛び乗ると、波が静かに飛沫を上げた。

「魚、見えるか」
「ふふ、逆に日差し強すぎて全然見えない」
「ああー、確かに……」
「でも良いね、朝もまたちょっと違った感じ」

 昼間は空の色が映っている所為か真っ青な印象があったが、それよりも色がなく、かわりに水面に跳ね返る光と波の白さがよく際立った。昨日よりも風は静かだ。海も、人と同じように眠るのだろうか。そう思えるほどに静かな海だと思った。

 不思議と私たちの声が響かないのは、海に吸い込まれてしまっているのだろう。




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Shhh...