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「すみません、結局ごちそうになってしまって……」

 カフェのテイクアウト品を受け取って頭を下げると、沖矢はニコと笑って首を振る。
「いえいえ、子どもたちもいることですし。この間はラムネをいただきましたから」
 沖矢は特に気にもしてない様子で、受け取ったジュースを順番に子どもたちに渡す。映画館の近くにあったポップなカフェは、すっきりとしたフルーツジュースが売りのようだ。 

 レモンサワーをコナンに手渡すときに、沖矢がニコニコと笑みを濃くして「貸し一つですよ」と言っていたのが気になった。案外、大人気ないところもあるみたいだ。まああの少年も、少し大人びたところがあるからか、つい話しやすく思ってしまうのは分からないでもない。(人見知りの私は、子どもらしい歩美たちのほうが断然話しやすいのだが――)


 駐車場で子どもたちと別れ、ストローをくわえながら車へと向かう。先ほどまでのワイワイとした喧騒が嘘のようで、子どもたちと会う前は何を話していたのか、私は必死に思い出そうと頭を捻る。一番に思い出したのは、車の中での探偵ごっこだった。
 ジュースの水滴を軽く拭いながら、彼を見上げる。私が提案をすると、意外と興味深そうにうなずく。
「良いですよ、次は僕の番ということですね」
「まあ、行きの車で寝起きが悪いことは当てられちゃいましたけど……」
「あれは携帯を見たので、少し反則技です」
 沖矢が茶化すように肩を竦める。しっかりとした広い肩は、大学生らしいニットの上からでも十分に窺える。彼はコホン、と一度喉を鳴らした。
「では、失礼」
 細い目つきが私の姿をつま先から髪までジーっと見回した。気まずくて視線を逸らして戻すと、まだ凝視しているその瞳が、日本人特有の茶目よりも色素を薄く光らせていた。じっと見つめる作業が終わると、今度は顎に手を当てて考え込む。

「今日、本当は違う服で来るつもりでしたか」
「え、すごい。どうして分かったんですか」
「このレースのブラウス、背中に折り目がついていますし。もし着る予定なら吊るして皺を取るのではと思って」
「へぇ〜……、本当よく見てるんですね」

 いよいよ当てられることも当然に思えてきてしまって、私はただただ感心にため息を漏らした。こういう人って、やっぱり他の人より視野が広かったりするのだろうか。というか、考え方が広いのか。よく、折り目一つでそこまで考えが及ぶことだ。
 ユキもここまで露骨に探偵らしくはなかったが、色々なことに気づく子だった。もしかすると、頭の中は似ているのかもしれないなあと思う。そう思うと、沖矢にほんのりと親近感を感じる気がする。私は鞄の中に入ったパンフレットを、そっと布の上から撫でた。

「その、パンフレットもありがとうございま……」

 す、と言い切る前に、体が傾くのが分かる。コンクリートの割れ目にパンプスのトゥー部分がつっかえたようだった。
 自分でも立て直せるくらいの崩れようだったが、つい言葉が止まった。――それに気づいたのか、そうではないのか、大きな手が肩をがしりと掴む。私の肩をまるまる包めるくらいに、その掌が大きいことに驚いた。やっぱり、煙草の匂いがする。
「す、すみません」
 意に反して、顔に熱が集まる。赤面症というわけではない。けれど、何故か顔が熱い。触れたのは初めてではなかったし、何ならこの間はおぶられたことすらあるのに。私は顔が赤くなるのを隠すように、髪を耳に掛ける仕草をした。
 沖矢は、私の傾いた体を直してから「いいえ」と首を振る。特に意識もないのか、すっとすぐに歩みを進める姿を、半歩程後ろから追った。

 
 多分、驚いただけなのだ。彼の大きな手だとか、煙草のにおいだとか、意外にフレンドリーに話す姿だとか、大人びたミステリアスな雰囲気に反したちょっとした少年らしさだとか。そういうものが混ぜこぜになって、頭がパニックになっただけだ。
「……ハァ」
 言い聞かせているのも虚しくて、勝手に口からため息が零れた。助手席の扉を開けた沖矢が、それに気づいて首を傾げる。
「何か、悪いことでも」
「ま、まあ……。あはは、なんというか……自分が情けなく……」
 紳士的なエスコートにお礼を述べて、丸っこい車の中に乗り込む。行きでは気づかなかったが、車内に入ると沖矢の煙草の匂いがほんのりと香った。今日は私が見ている限り二本しか吸っていないが、普段から喫煙者なのだと思う。

 彼女とか、いるんだろうか。いるんだろうなあ。エンジンをかける沖矢の横顔を呆然と眺める。なんというか、恥ずかしいのだ。脈もない男の一挙一動にドキマギとして、勝手に意識をしている自分を、第三者の視点で見る自分が嗤っているような恥ずかしさ。別に本気で好きでもないくせに、そういう感情になる自分への滑稽さといったらない。
「いませんよ」
「へっ」
 沖矢の声だった。紛れもなく、その端正な横顔から発せられたものだ。私が間抜けに聞き返すと、沖矢は苦笑しながらもう一度「いないんです」と言った。

 いない?何が――? 数秒の間に言葉が頭の中を駆け巡って、結論を導きだすと再び顔に熱が集まった。
「わ、私声に出しました?」
「彼女いるんだろうなあ、って。はは、いませんけどね」
「ぎゃ……。失礼なことを……」
 亀のように首を埋めながら謝る。然して気にした様子はなく、沖矢はあっけらかんとして笑っていた。
「てっきりロングの清楚系美人と付き合ってるのかな〜って……」
「どういうイメージが……。そんな風に見えますか」
 ツンと高い鼻先を、暗くなった道の街灯と道行く車のライトが照らしていた。事件の帰りに、泣きじゃくる私を送ってくれたあの横顔を思い出す。あの時よりも、纏った空気は柔らかく感じた。
「沖矢さん、優しいし、人づきあいも得意そうだったから」
「もう遊びで付き合うような歳でもないもので」
「え、でも大学だって……」
「院生なんですよ。君よりは年上ですね」
 なるほど、彼がやけに大人びて見えるわけだ。てっきり、東都大学と言っていたから浪人生なのかと思ったが、事実私よりもいくつか年上なのだ。内心納得だと頷きながら、「そうだったんですね」と相槌を打った。
「……よく、彼女いないでしょとは言われるんですが」
「分かります、それ哀ちゃんでしょ」
「バレましたか」
 妙にマセて、じとっとした視線で沖矢を見る姿を思い返す。それが可笑しくて私は肩を震わせた。レンズの奥の瞳も、弧を描いた。

 彼女のことにはそれ以上触れなかった。今恋人がいないと分かっただけで、心が少しばかり明るくなったのは、気のせいであってほしいと思う。そう、これは――吊り橋効果、なのだから。いちいち感情を動かすなんて、恥ずかしいことだ。


 マンションの前に車を停めると、私は沖矢に頭を下げる。結局お礼だなんだといって、私が払ったのは映画のチケット代くらいで、他は世話になりっぱなしだ。すみませんと言うと、沖矢は緩く手を振って「よく謝る人だ」と笑ってくれた。謝るのはクセのようなものだったので、照れくさくて頬を掻く。
 歩美に一緒に出掛けようと言われていたので、もしかしたら顔を合わせるかもしれない。「また会ったら」とドアを開けて笑う。沖矢もゆったりと頷いた。

 ドアを閉める直前、まるで忘れものを見つけたように、低い声が「そうそう」と言う。私は鞄を持って振り返る。いつもの笑顔だったが、何故か表面だけを張り付けたような笑顔に見えた。骨格に対してやや小さめの口が開く。


「――……あまり、上っ面が優しいだけの男に入れ込まない方が良いですよ」


 声色も、いつもより少しだけ固かった。どういうことかと聞き返す前に、彼はいつかのように人差し指を軽く唇に乗せる。シィ、と子どもをあやすような仕草だった。
「おやすみなさい」
 と、エンジンがかかる。私は先ほどなど比にならないほど顔を真っ赤に染めた。恥ずかしい、バレていたのだ。パンフレットを後生大事そうに抱えたことも、彼のふとした言葉にドキっとしたことも、私が顔を赤くしたことも――。それでいて、沖矢は警告したのだと思うと、恥ずかしくて死にたい気持ちだ。
 車が去る音が、その姿が見えなくなったあともずっと頭に過ぎっていた。