21


 ビルの隙間を、涼やかな風が吹き抜けていく。
 少し早くなった日暮れに、安室はブロンドの髪を軽く掻き上げた。色素の薄い髪はオレンジの光を受けて、やや黄味がかって光る。堅苦しいジャケットは脱いで、駐車場の車の中に放った。
 ピカっと光を反射する腕の文字盤を見ると、出勤時間にはいささか早い。時間を潰すにも微妙な時間で、その足をバイト先へと剥けることにした。この時間であれば、恐らくもう一人――最近できた顔なじみがいることを予想しながら。

 
 ドアベルが、カラカラと軽快に音を鳴らす。
 奥から、アールグレイを運ぶ顔が振り向いた。長く、少し茶がかった髪がふわっと揺れる。
「安室さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
 安室は、一瞬店内を見回した。時計をもう一度見るが、やはり店内の時計も腕時計も時間を違わず、安室の出勤時間より二十分ほど前を指していた。たいてい、この時間だと、生真面目な新人はまだホールの中を慌ただしく掃除している頃合いだった。

 安室が目線で探す彼女は、高槻百花と言う、近頃この喫茶店に入った新人のバイトだ。
 特別仕事ができるというわけではないが、何事にも丁寧で真面目。やや臆病で人見知りな風だが、慣れると風が頬を撫ぜるように笑う、控えめな女性だった。
 彼女曰く、次の仕事の準備ができていないのに上がるのは気が引けるらしい。いつも、自分の時間帯に出たゴミや食器をキッチリと片さなければ、中々退勤しようとしないので、後に入る安室が仕事を取り上げているのだ。


 その彼女が、見渡す店内にいない。
 安室はそれが意外で、エプロンを被りながら考えた。店内のグラスはまだ片付いていない。もしかしたら、何かあったのだろうか。

 以前――つい、半月ほど前。この辺りを騒がす誘拐犯を無謀にも一人で追いかけ、ひと悶着あったと、店長から伝え聞いていた。三日の休みのあと、案外けろりとバイトに復帰していたので、敢えて触れることはしなかった。
 しかし、この控えめな女性が、まさか一人で――(噂によると、郵便局のバイクを奪い取ったらしいが……)誘拐犯の潜むアジトに突撃するなど、安室には想像もつかないところだ。

 その記憶を辿って、しかし梓の顔色は大事を抱えているものではなかった。
 安室は中途半端に片付いたテーブルの上の食器をトレイに乗せ、バックヤードの扉を一瞥する。足音。

「わ、すみません、安室さん。やらせちゃって……」

 扉をやや乱雑に開け放つと、彼女は安室のほうを見て、目をぎょっとさせた。いつものキャンバススタイルより、明らかにラフな格好が安室の視線を奪った。メイクも心なしか薄く、健康的な頬には垢抜けない薄いシミがある。
「いえ、大丈夫ですよ。今日は何か用事でも?」
「はは、そんなところで……。あ、お皿ください。すぐやっちゃいますから」
 運んだ食器を受け取ろうとする姿に、安室はふっと笑って手に持ったトレイを上に上げる。背が高いほうとはいえない百花から、頭が二つぶんほど離れた位置にある食器は、見上げることしかできなかった。
 百花も手を挙げ試みてみたものの、ひょいっと意地悪をするように遠ざけられてしまい、指先すら届かなかった。
 安室はニコリと表情を和らげると、食器を洗うために下ろされたリュックを百花に差し出す。

「どうぞ」
「あ、あの……私一応まだ勤務時間内ですし……」
「でも、帰る用意をしていたのなら、許可はもらってるんでしょう。今ならお客さんも少ないですから」
「や、そんな……」

 百花は今一度手を伸ばしてみる。安室はわざと、ニコっと笑みを深くした。
 虚しく空を切った指先を、まだ納得いかなそうにリュックサックに伸ばす。深爪された指は、福祉科のボランティアのために切ったのだと言っていた。
「明日は、ちゃんと時間までやりますから……!」
「ええ。いってらっしゃい」
 リュックを背負うと、百花は少し照れ臭そうに「いってきますね」と返す。
 安室は、やや面食らった気持ちでそのはにかんだ表情を眺めた。まさか、そう返ってくるとは思っていなかったのだ。
 少し、晴れやかになっただろうか――。
 はにかんだ顔に、そう思った。彼女はたたっと駆け出して、軽やかな音を鳴らしていく。

 
 送り出してから梓に聞いてみると、梓はアア〜と思い出したように手を打った。
「百花ちゃん、格闘技習い始めたって言ってたから、それじゃないですか」
「格闘技ですか」
「はい。なんでも、急に入用で……とか、言ってましたけど……」
 人差し指をツン、と口元に当てて、梓は言う。そしてすぐに「格闘技が入用なものって、何ですかね〜」と呑気そうに笑った。安室も、アハハと梓の言葉に笑う。秋の風吹く、夕暮れ時だった。







「いだっ――……」

 腰骨が、ジィー……ン、と長く鈍い痛みを響かせる。
 道着越しに腰を擦ると、目の前に綺麗な掌が差し伸べられた。私は手を重ね、ぐっと引かれるままに体を起き上がらせる。

「すみません、蘭さん」
「こっちこそ、自主練つきあってもらっちゃって……」
「あは……こんな素人の動き、自主練相手になってます……?」
「筋、すごく良いと思いますよ! がんばりましょう」

 蘭は軽く乱れた帯を締め直し、私に向かってほほ笑んだ。
 
 

 ――時は、あの事情聴取の日までさかのぼる。

 握手をしたあとに、沖矢はロマンの欠片さえないような口調でツラツラと述べたのだ。

「女性の警官――しかも大学卒の枠となると、倍率はかなりのものになりますよ。そのために必要な筆記、身体能力、面接など……やることは山ほどありますが、今から何か手をつけれることはありますか」
「ア……エット、はい」

 私はすっかり泣きそうな気持ちで喋っていたものだから、その急なオンとオフについていけず、返答に詰まる。目が点になるとは、あのことだったと思う。
 しかし、そう言われると――勉強も体を動かすのも嫌いな方ではなかったが、対策を練って学んできたわけではない。特に運動は、中学の時に部活に入っていたくらいで、大人になってからはとんと経験がなかった。

「じゃあ、その……運動から」

 ようやく絞り出した間の抜けた声に、沖矢はクスっと笑いながらも、答えてくれた。今通っている道場を教えてくれたのは彼だ。バイト先の近くだし、丁度良いだろうと彼は言った。 
 私はそれをハイハイと人形のように頷いて聞いて――彼が一通り話し終わった後に、チラリとクールな表情を覗き上げる。

「雰囲気壊したの……わざとだったりしますよね」

 沖矢はパチン、と片眼を開けて私を見ると、体を揺らしてクッ、と笑う。グリーンの瞳は、下から覗くとまた違った虹彩にも見える。瞳はニィといじわるっぽく細められて、いつかのように――しかしそれよりは静かな声色で。

「……It's obvious」

 そう、笑ったのだ。