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「これでおわり……っ」

 からからと乾燥する喉に、無理やり唾を飲み込んだ。
 元から体を動かすのは嫌いじゃないが、大学に入ってからはグンと減っていた体力を取り戻すのはなかなかに困難だ。道場の師範から与えられた課題は、なんとかこなしているものの、そろそろ脹脛が悲鳴をあげている。
 今日は木曜日。道場は休みなので、ジョギングを終えると、早々に外着に着替える。道場が休みの日には、行くところがある。私はほんのりと足取りを軽くする。バイトとの行き来のために新調した腕時計を巻いた。



 このインターフォンを押すのは、二度目になる。
 古めかしい音が響いたと思えば、すぐに玄関の扉が薄っすらと開く。中から顔を覗かせた男は、私を目を合わせると、扉を大きく開けた。穏やかな顔がニコと笑う。
「こんにちは、今日はお世話になります……!」
「はい、こんにちは」
 どうぞ、と促されて門扉を潜る。住宅というわりには厳かで広い玄関の隅に靴を寄せると、沖矢が笑った。
「そんなに端に寄せなくても」
「でも、分からなくなりません? ……真ん中に置くのも、ちょっと」
 といって玄関を見渡すと、真ん中に堂々と男物の靴が置いてある。以前も沖矢が履いているのを見たことがあって、私はぎょっと目を剥いた。

「すみません、沖矢さんのことじゃあ……」
「お気になさらず。思った通りの、無神経な男なもので」
「だから、違うんですってば……」
 
 顔を引きつらせて、渡されたスリッパをつっかける。未だに肩を揺らしてクツクツと笑う沖矢に、「違いますからね」と念を押すと、彼も小さく頷いた。

 リビングに通されると、アンティーク調なソファへ腰をおろす。どう見ても、量販店で買ったわけではないだろう、ヴィンテージ感のあるソファだった。大きなテレビと、棚にはトロフィーや贈答品らしい置物が飾られている。工藤優作――と彫られた名前には、いつだか聞き覚えがあるような気がした。

 そのトロフィー一つ一つに視線を配っていると、トレイにティーカップとポットを乗せて、沖矢が向かい側に座った。これもまた、安くはなさそうな上品なティーセットで、目の前の男が無遠慮になみなみと紅茶を注ぐのに血の気が引いた。
 紅茶が入ると、がちゃっと不穏な音を立ててテーブルに置かれるカップを、私は冷や冷やしながら見守った。そんな私の視線に気づいてか否か、沖矢は不思議そうに此方を見返した。

「沖矢さんって……本当に紅茶とか飲まないんですね」

 以前紅茶を手土産にした時に、冗談で嗜まないと言ってはいたが、あれは案外冗談でもないらしい。言うと、沖矢は苦笑いして首の後ろを掻いた。
「十代ごろまではよく飲んだのですが」
「私も、見た目で手土産を選んで申し訳なかったです……」
「はは、情けないところをお見せしました」
 あっけらかんとした笑いとは正反対の、ほとんど香りの飛んだ紅茶を口に含む。最近飲んでいたポアロの紅茶が美味しかったので、尚更にそう感じるのだろう。二杯目からは私が淹れようかな、と考えながら、私は本来の目的へ話を戻した。


「えっと、本当に良いですか?」
「ええ。勿論、教養くらいなら教えれますから」


 手に持ったテキストとノート――それが、私がここに訪れた理由だ。
 何せ、今年の冬までに試験対策をしなければいけないのだ。本当は私塾に通うことも考えたが、バイトと道場に通いながらうまく勉強できるだろうかと迷っていたら、沖矢が声を掛けてくれた。家であれば、空いた時間に連絡したら、ある程度の勉強を見てくれると言うのだ。
 正直に、嬉しかった。勉強のこともそうだが、不純な理由として、彼の家を訪ねることができるから――そしてそれが、沖矢からの誘いだというのが益々嬉しく思えてしまう。以前訪ねたときは、彼との間には分厚く壁があったように思うから。何のことのないように、サラリと言われたのに、心が躍った。

 沖矢は実際、頭が良かった。
 文系も理数系も基本的にはすんなりと答えてくれたし、教え方もうまかった。意外と口を挟むタイプではなく、私が最後まで解くのを待っていてくれるのは有難い。特に論文問題の教え方が上手く、テーマに沿って簡潔に書いた論文に分かりやすく添削してくれる。
 
 青色のボールペンを使って、私の書いたものにペンを走らせる姿を眺めた。斜めに上がりやすいらしい癖字は世辞にも読みやすくはなかったが、沖矢らしい文字だ。
 高い鼻頭にかかった眼鏡の橋を、くっと長い指が押し上げる。うつむきがちだと、彼のアイホールが大きく窪んでいるのが分かりやすく、つい顔を見つめてしまう。睫毛の密度は薄いが、その下にある色素の薄い瞳がよく覗けた。
 その彫りと言い、瞳と言い、どこか外国の血が入っているのだろうか。


「……百花さん?」


 ぱち、と片眼が大きく開き私を捉える。
 私はついていた頬杖を外し、慌てて背筋を正した。別に、責められたわけでもないが、少しの罪悪感が心をむずむずとさせた。『何かあるでしょう』――と言いたげに、いぶかしく彼の瞳が細められて、私は咄嗟に心の中で二択を選択した。
 外国の血が入っているかと気になったことを正直に言うか。
 沖矢の――顔に、その、ただ単に見惚れていたと言うか。
 そんなもの殆ど一択も同然で、やや失礼かとは思ったものの、ままよと尋ねてみる。

「その……沖矢さんって、ハーフとかだったりするのかなって……」
「ああ――なるほど」

 彼は然して気にする様子もなかったので、ほっと胸を撫でおろす。するりと大きな手が、自身の輪郭をなぞる。

「分かりやすいですか」
「いや、最初は全然。よく見ると、ですけど」
「ハーフというか、まあ、向こうの血が入っているのは否定しません」

 そういえば、安室も瞳や髪の色が日本人らしくはなかった。知り合いにいたことはなかったが、最近は多いのかもしれない。薄いグリーンアイが、軽くあっかんべえ、とするように指によって開かれる。
「やっぱり、目でしょうか」
「一番はそうかも。綺麗な目ですよねえ」
「母に感謝しておきます」
 ふ、とニヒルに、彼の片側の口角が持ち上がる。その笑い方も、近頃慣れてきた。最初こそミスマッチだと思っていたが、案外、彼の性格のままな気もする。





 携帯の通知音で、夜の入りを知った。
 アっと声をあげると、沖矢もリビングの時計を振り返る。ちょうど、最後のテーマを書き上げたところで、二人顔を見合わせてフウとペンを下ろした。
 沖矢も「じゃあ、これだけ」とサラサラペンを滑らせ始める。私はそれを待っている間に、ポットの中を覗いた。

「紅茶、淹れましょうか。キッチンあっちです?」
「ああ、ありがとう。茶葉もカウンターに」

 確かリビングへ通されるときに見た気がする。指をさした方も特に否定されなかったので、トレイを持ち記憶を辿って歩く。広いといえど、家なので、さして苦労することもなくキッチンを見つけた。
 ただ、沖矢の言う茶葉が見当たらない。閉まってしまったのではないか、と閉まってありそうな棚を僅かに開けて見上げてみる。中には酒のボトルが数本、なるほど、普段からストックされているらしく、同じ銘柄ばかりだった。
 酒には詳しいほうじゃないが、ラベルには見覚えがある。コンビニにも売られている銘柄だった。

「バーボン ウィスキー……」

 ウィスキーか、あまり飲まないなあ。二つ目の棚を開けると、赤いラベルのウォッカ、その隣に前贈った茶葉が置いてあった。

「案外、麻雀とかも嗜んでたりして」

 グラス片手に牌を並べている様は、案外用意に想像がついて、私は一人でクスっと笑った。