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 木曜日。いつもの服装より、つい気合を入れてしまったのは、先日の蘭の言葉が頭をぐるぐると渦巻いたからだ。やっぱり私は彼のことが好きなのだろうか、確かに嫌いか好きかの二択で言えば好きなのだけど。でも、好きと言えるほど彼のことを知らないし――。と自問自答を繰り返しながら支度を整えていたら、ついつい何時もより時間を掛けてしまっていた。

 給与明細を受け取りに立ち寄ったポアロでさえ、梓に「今日はデート?合コン?」と浮き浮きしながら追い詰められた。本当に違うんですと何度も否定したが、そうと思われても可笑しくない風貌だったのだろう。

 鞄から取り出したコンパクトで、自分の姿を見直す。
 メイクはなるべくナチュラルにしたつもりだけど、睫毛を上げすぎた? それとも、リップを少し艶っぽいものにしたからだろうか。
 スクエアネックのニットに、勉強するのだからと髪をアップしたせいで顔周りが寂しくて、いつもはしないイヤリングをつけたから?
 それとも、足が短くみられるのが嫌で、いつもより高いヒールのショートブーツを履いたからか。
 思いつく点はいくつもあったけれど、結局総合して自分の見た目が変わるわけではない。それでもやっぱり「気合入れてるな」と思われるのは恥ずかしかったので、軽くリップをティッシュオフしておいた。

 
「おや、今日は雰囲気が違いますね。どこかのお嬢さんかと」


 ――まあ、沖矢に気づかれることは九割方予想していたが。
 だって、彼の観察力といったら凄まじいのを私は既に知っているじゃないか。梓が気づけたことを、沖矢が気づけないわけがない。(これは、梓を貶しているわけではない。)
 私は誤魔化すように少し笑って、「ちょっと時間があったので」と答える。沖矢はじっと私のほうを見つめると、ニコリと口元で笑みを作る。
「とても綺麗だ」
「…………ど、どうも」
 つい、沈黙を作ってしまった。彼の台詞は、学校の人に可愛いねとか似合っているよとか言われるのとは、違う気がする。下心とかじゃあないのだけど、やはりどこか外国人じみているのかもしれない。歯が浮くような――とはこのことを言うのだろう。

「誰か、他の人と会った後ですか」
「いえ……? バイト先には寄りましたけど、ここにくるついでで」
「なら、それは僕のためのお洒落だと思って良い訳だ」
「はっ!?」

 
 声が裏返ってしまって、私はそれに顔を熱くした。沖矢は一拍おいて、ふっと鼻から抜けるような笑いを漏らす。すぐ「冗談です」と穏やかに笑ってくれたが、私としては冗談じゃないと、内心憤る。

 寝不足なのか、彼の目もとは前に増してゲッソリとしているように思える。私が寝れてますかと問うと、目頭を軽く押さえた。

「目つきが悪いのは元からなのだがね、最近どうにも?」

 私が淹れた紅茶に口をつけながら、彼は片方の口角をニヤっと上げている。
「……あの」
 きっちりとした襟元まで止められたグレーシャツとカーディガン。サイズに比べて袖が短いらしく、恐らく長袖であろうカーディガンはやや丈が足りておらず、手首が覗いていた。私が話しかけると、彼は気障っぽく片目だけを開けてこちらを見上げた。
 私はやや乾燥した唇をきゅっと結び、それから僅かな勇気を絞り出し口を開いた。

「その、面倒くさいって思うかもしれませんけど……私、前に行ったこと、嘘じゃないですから」

 沖矢があえて触れようとしないこと。しかし、ユキの墓参りをして、やっぱり黙っているのも耐えられなかった。それが彼にとって面倒な女だとしても。あの時、私を拒絶しなかったのなら――少しでも、私の言葉を聞き届けてくれたのなら。

 沖矢は頭が良い。腕っぷしもあり、恐らく自分の身を自分で守ることもできるだろう。さらに言えば、誰かを救うこともできる。ユキもそうだ。誰かにとってのヒーローである、そんな存在だ。

 ただ、それでは彼らが救いを求めたときに、誰が彼らを守るのかと思うのだ。ユキがそうであったように、沖矢だって――そう思う。

 その言葉を告げるのに、ずいぶん時間が掛かってしまった。もう少し、早くそう言えれば良かった。少し、自分の声が震えたと思う。沖矢は私の言葉を聞くと、ふっと瞳を細めた。
「……嘘だなんて、思ってませんよ」
 優しい声色だった。それからすぐに、亜麻色の髪を軽く耳に掛ける。
「この間はすみません。僕こそ、八つ当たりのようなことをした」
「いえ……。あの、お節介ですみません」
「はは、お節介はお互い様でしょう」
 確かに、と思ったことは心に仕舞っておく。沖矢は以前会った時とは似ている雰囲気で――しかし、前よりはやや暖かい印象の態度で、テキストを開きながらぽつりと漏らし始める。

「君が僕をスーパーヒーローのように扱うのが、少々痒くてね」
 
 私に問題集を差し出しながら、ボールペンの後ろをノックした。
「……守れなかった、ものですから」
 抑揚のない言葉だった。震えてもいない、怒りでも悲しみでもなく、わざと冷静に押し込めたような言葉。
 彼の過去は知らなかったが、彼の感情は読めるような気がした。守れなかった、という言葉に、ひどく後悔を感じる。それは、例えば私のように――あるいは、もしかしたら安室のように、昔に未練がある言葉だと思ったからだ。

「ただ、君が幸せにしてくれるというなら、少し期待をしようかな」

 冗談めかした言葉だったが、彼の表情は穏やかであった。
「君は思いのほか強い人だから」
 ――その言葉は、最近誰かにも言われたような覚えがある。誰だっただろう、それこそ思い出せはしなかったが。
 ただ、沖矢に「強い」と言われたのが、無性に嬉しかった。ぐっと目頭が熱くなるのを、首を掻いて誤魔化すと、沖矢は笑った。

「こらこら、泣くんじゃない。折角、今日は綺麗にしているのに……」

 君の涙には弱いんだよ、という彼の表情は、以前よりも優し気だ。大人っぽいが、決して拒絶とは異なる表情を見て、私はホっとしていた。
 案外、彼との壁を作っていたのは私なのかもしれない。彼が線を引いていると思って、身を引いていたから、彼も身を引いているのかもしれないと、思った。人は自分の鏡だとよく言ったものだ。
 そういえば、彼から明確に「近づくな」など、言われたことはない。不思議な人。優しいようで、厳しいような、だけれどやはり優しい人だ。

 彼は宥めるように私の頬に触れると、少しだけ引き攣った唇の皮膚を親指で撫でた。
「君は、もう少しはっきりした色が似合うだろうな」
 まるで私が事前にリップを落としたのを見透かしたような言葉で、ギクっと心が図星に音を鳴らした。

 ――結局アイツのことばっか考えてるんだから。

 蘭の言葉を思い出した。いつから、彼のことばかりを思い返すようになったのだろう。
「……え」
 そんなラブラブな話を聞いたばかりだからか、するっと撫でられた場所から熱を帯びていくのが自分でもよく分かった。

 彼は特別な人、憧れの人。私が、いつか守る立場になりたい人。
 それだけのはず。大丈夫、本気で好きなわけでは、ないはずだ。だって彼は私に好意を持たれるのを迷惑がっているはずで――。だから、映画館でもそうしたはずで。彼が今応援してくれてるのは、警察官を目指す高槻百花に他ならないのだと。