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 先日の一件から、安室と少しだけ距離が近づいた気がする。
 今まではシフトが重ならないこともあって(――というか、そのために私が採用されたので)、どこか他人行儀な部分があったが、本格的にバイト先の同僚、といった感じだ。墓参りについて詳しいことは尋ねもしないし語らなかったが、あれ以来私がユキのことを話すと、「そうなんですね」とどこか懐かしむように相槌を打つ。彼が祈る相手もまた、大切な人なのかもしれない。

 バイトが終わってから、いつものように道場へ向かおうと、デニムをジャージに履き替えた。バックヤードを出ると、ちょうど出勤してきたらしい安室と出くわした。あれから一週間と少しばかり、私もだいぶ彼に対して馴染んでいて、自然と笑顔を浮かべながら挨拶をした。

「また道場ですか。熱心ですね」
「この年齢から習い始めたので、ちょっと頑張らないといけなくて」
「そういえば、どうしてまた格闘技を」

 安室はふと、ディナータイムの仕込みをしながら尋ねる。片手間の質問文であったし、別に深く聞いたつもりはないのだろう。私は「まあちょっと」とあいまいに誤魔化す。

 これは一種の願掛けのようなものだが、警察学校に受験することは、沖矢と両親にしか伝えていなかった。あまり容易く口にすると、叶うものが叶わなくなるような――完全な感情の問題なのだが、そんな気がしたのだ。
「へぇ、そう言われると気になるなあ」
 と、笑い交じりに返されたのは少し意外だった。安室は自分のことを多くは語らないが、同じくらい人へも関わりの薄いイメージがある。別に人当りが悪いということでなく、広く浅いの印象があったからだ。
 それだけ、知り合いから同僚へシフトされたということだろうか。よく心配をしてくれる良い人だとは知っていたので、少し嬉しい。

「そういえば、新メニュー美味しかったです」
「それは良かった。会社員の方の昼食用にと思いましたが……結構ガッツリしたものがお好きですね」
「え!? あー……はい。そうですね……」

 安室がレシピを考えた新メニューの唐揚げボウル、唐揚げといっても油淋鶏風に仕上げてあって、玉ねぎの辛さとよく合っていた。最近道場通いや筋トレのせいでお腹が空いているのもあったが、いざ指摘されると恥ずかしいものである。しかも、安室のような華やかで若い男だと尚更だ。
 ――沖矢さんの前では気を付けよう。
 間違っても、沖矢にそんなことを指摘されたら今後肉類が食べられなくなる自信がある。どうでも良い決意を新たにしてから、私は安室と入れ替わりにポアロを後にした。





 
「ありがとうございました」
「明日は筋トレを休むこと。一度休まないと筋肉がつかないからな」
「はい。あ、月謝も渡して良いですか」

 タオルで顔を拭い、私はリュックから取り出した封筒を手渡す。正直大学生にとっては痛い金額であるがしょうがない。必要経費だ。汗に濡れた道着をサブバッグに畳んで入れていると、同じく練習を終えたらしい蘭が声を掛けてきた。
「お久しぶりです、どうですか」
「おかげ様で、ちょっとだけは体力がついてきたかな……。ホラ、もともと居酒屋バイトで手の筋力はあったんで」
 ぐっと拳を握って見せると、蘭もつられて笑った。彼女はまだ高校生なので、こちらに顔を見せるのは大会前の休日くらいらしい。長い髪を掻き上げて首の後ろを拭う姿は、女の私から見てもヘルシーな色気があった。
「蘭さんは……」
「はい」
「遠距離の彼氏さんとは、上手くいってますか?」
 女子高生ながらに女っぽい立ち姿を見て、ふと思い出すのは初めて新幹線のなかで会った時のことだ。最近安室にユキの話をしていて、思い出した。確か、そんな話を二人でしていた気がする。
 運動のあとで多少赤みを帯びていた頬が、分かりやすいほどにカアと赤く染まっていった。口元が引き攣って、蘭は「え」だの「あ」だのと繰り返す。
「う、上手くとか……分かんないんですけど……」
「あはは、すみません。柄でもないこと聞いちゃいました」
「いえ! あ、アイツ、相変わらず連絡寄越さないのは、そうなんですけど……」
 随分とけど≠続けてから、彼女はもじもじと人差し指同士をくっつけて、「付き合うことになりまして」とぼやいた。

「今まで片思いだったってことですか!」
「まあ、その……幼馴染なんです。幼稚園のときから……それで、腐れ縁っていうか……」

 私が目を丸くして尋ねると、蘭は言い辛そうにごにょごにょと答える。
 なんてロマンチックなことだ。それにしても、恋人ではなくて遠距離を続けるだなんて、よほど相手のことを好きなのだろう。私には想像ができなかった。例えばユキが男だったら――なんて考えもしたが、そもそも彼女は女なので、やっぱり想像はし難い。
「すごい、ロマンチックですね……」
 勝ち負けを競うものではないが、女子高生に確実に恋愛経験では負けて≠「た。羨ましいような、今自分がそうなったら恐ろしいような。そう思いながら、軽く櫛で髪を整える。可愛らしいパステルピンクの腕時計をはめながら、蘭は「そんな〜」と照れたように笑った。

「あの……年上として聞くのも情けないんですが、好き、ってどういう感じですか」

 おずおずと尋ねると、蘭は一瞬、そのパッチリとした目つきを丸くさせた。
 彼氏がいたことはあったが、それこそ燃え上がるような恋愛というわけではなかった。良い人だなあ、好きだなあ――そう思ったことこそあるし、ドキドキしたことだってあるけれど、いまいち好きという感情にピンと来ていない。
 まあ、これは私が映画ファンということもあって、ややロマンス脳なのかもしれない。だって、スクリーンの中の彼らはもっと、命を懸けるほど互いを愛し合っているのだから。

「好き……かあ。何回も、あんな奴嫌いだーって思ったこともあるんですよ。でも、結局……気づくとアイツのことしか考えてないから、きっと、好きなんですよね」

 アイツ、とは噂の恋人のことだろう。蘭は手に持った携帯電話を嬉しそうに眺めて、そっと胸の前で握りしめた。最近の女子高生には珍しい、折り畳み式の携帯電話だ。ぷらんと奇妙なキャラクターのストラップが揺れていた。
「……すごい。本当に、その、大好きなんですね」
 見ているこちらまでムズムズと照れ臭くなってしまった。蘭はにこっと私に向かってほほ笑むと「はい、大好きです」と感情をしっかり言葉に変えた。
「百花さんにも、好きな人がいるんですか?」
 先ほどより、少しご機嫌そうに蘭が聞くので、私は言葉を濁すように笑う。
「えー、なんでそう思うんですか」
「てっきり、ラブなかんじだから聞いてるのかと……。百花さん美人だから、きっとお相手もメロメロですよ〜」
 どうやら人の恋愛事情に積極的になってしまうのは、女という生き物の性らしい。それに私はお世辞にも美人というタイプではない。確かに童顔か老け顔かと問われれば老け顔の部類だが、全体的にパーツは小ぶりでパっとしないし、なんとか小ぎれいに身なりを整えて人並みになっているだけだ。
 蘭が嘘をついているとは思えないが、どうにもフィルターが掛かっていないだろうか。しかし、先ほど私も蘭のことを根ほりと聞いた身なので、あまり答えないのも失礼かと思った。

「好きとは違うんですが、ただ、その、特別ではあるんですけど」

 内緒ですよ、と人差し指を立てて笑う。すると蘭はすぐに「分かります」、と食いついてきた。

「私もそうでした。好きかって言われると分からないんだけど、でも誘われたり、何かもらったりすると嬉しいし……。危ないことがあれば、ずーっと心配しちゃうし。ぼんやり今何してるのかなあって考えたりしてたんです。ある事があって、それを聞いて本当に好きだなあって思ったんですけど……それまではずーっとそう」

 蘭は、ずーっと、の伸ばし棒をやたらと強調して、冗談めかして笑った。その瞳はキラキラと瞬いていて、女の子は恋をすると可愛くなる――という昔ながらのフレーズは間違っていないのだと認識させられる。

「でも、今思えば、その時から好き……だったのかも。だって、結局アイツのことばっか、考えてるんだから」

 恥ずかしそうに告げられた言葉が、しゃらしゃらと音を立てて降り注ぐ紙吹雪のように、私の頭に降ってきた。ふと、部屋の棚に飾ったパンフレットが、恋しくなった。