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 血の気が引けるのを感じて、その体に近寄る。暗くて見えづらいが、確かに沖矢だ。くったりと顔をシーツに預けて横たわる体の枕元には、ウィスキーボトルが転がっていた。バーボンウィスキー――……彼のキッチンにあったものと同じ銘柄だ。

 大学で習った救命措置を思い返しながら、彼の心拍を確認する。厚い胸板からは、やや早いもののドクドクと音が鳴っていた。それから、呼気の確認を――。
「……お酒の匂い?」
 すん、と鼻を動かすと、彼の口元からは酒気を帯びた呼吸が繰り返されていた。もしかして、脈拍が早いのもその所為だろうか。えっと、つまるところ、酔っぱらっている、とか。

 私はへなへなと、足の力を抜いてベッドの横に座り込んだ。――良かった、こんなにも部屋が荒れていたのは予想外だが、ただの酔っ払いだったら何よりだ。見る限り顔もしっかり横を向いているし、問題ないはずだ。

「じゃあ、私本当にただの不法侵入者じゃん……」

 あまり酒ではしゃぐような性質には思えないが、もし誰かと飲んでいたのなら悪いことをしてしまった。彼の無事は分かったし、勝手に入ってしまったことは明日来て謝ろう。ふー、と息を長くついて立ち上がろうとした時、腕をぐいっと引かれた。私の手首なんて、軽く一周回ってしまう大きな手。


「――百花さん?」


 掠れた声、珍しく眼鏡の外された瞳が、こちらを向いていた。窓から僅かに漏れ出した月灯りと、部屋の中のノートパソコンが照らすブルーライトだけが、そのしっかりとした輪郭を映し出していた。その色素の薄い瞳は、光を跳ねて不思議な色に煌めいた。
 私はすっかりその顔に見とれてしまって、返事をするのを忘れてしまった。沖矢は起き上がろうとして、しかし頭痛がひどいのか再び体をベッドへ埋もれさせる。私の手首はがっちりと握られたままだった。

 まるで子どもかペットと話すように目線を彼の前に合わせるように移動すると、額を手の甲で押さえながら沖矢が薄っすら目を細めるのが分かった。
 彼は、掠れたままの低い声で、零すように話した。

「何か、あったのかと――思いました。君は、律儀な人だったから」

 急に来なくなることなんて、ありえないと。
 沖矢の悔いるような声色に、胸が痛かった。ひどい罪悪感だ。こんな気持ちにさせるのだったら、文面など考えないでさっさとメールでもなんでも送れば良かった。「ごめんなさい」と私が謝ると、その頭痛を堪えるように、彼はふるふると首を横に振った。

「違う、ちがうんだ」

 どことなく回っていない呂律が、彼のいつもの知的さを半減させている。もどかしそうに、彼は「アー」と何度か唸った。「そうじゃない」、三度ほど唸った後、手の甲が彼の額から外される。

「君が危ないかと思ったのに、すぐに動けなかった自分が憎らしかった。案じるばかりで、なにも、なにも――」

 ぎゅう、と私の手首を掴んだ手の力が強くなる。亜麻色の髪は、月の灯りにはやけにパサパサとして見える。気のせいだろうか。

「失うことが怖いと、危険を感じて初めて気づくんだ。いつも、そうだ」

 沖矢は、その色素の薄い瞳から、何かをポロっと零した。
 それが何か理解できなくて、数秒固まってしまう。今の何だ。青みがかって見えるその目から零れたのは――涙なのか。頬を伝うというよりは、ぱたりとシーツに零れ落ちた。

「またやってしまったと、思ったんだ。また、俺は、そうやって」
「……沖矢さん」

 私が名前を呼ぶと、その瞳はハっとしたように見開かれて、暫くして瞼を閉じた。やや窪んで見えるアイホールは、陰影がしっかりすると尚更暗く見える。その大きい手を、私はもう片手を使って握りしめた。見た目は血の気を失ったようなのに、熱が籠った指先。まるで沖矢そのものだ。

 彼は暫くそうして瞼を下ろして、「忘れて」と静かに言い放った。電話を掛けてきたあの時に――彼も、私と同じだったのか。沖矢がそこにいてくれればと、息を切らした、あの感情と同じだったのかなあ。
 嬉しいと思った。けれど、悲しいとも思った。私はベッドに頭を預けて、彼の手を枕にするように凭れさせる。風邪で寝込んだ子を見守る母親みたいだと思ったのは、心の中に仕舞っておいた。

「――少しだけ、聞かせてくれませんか。大切な人の話を」

 彼がそこまでして悔いる、誰かのことを。私が静かに囁くような声色で言うと、彼は長い沈黙を続けた。しかし、ゆっくりと瞼を開いて、酒の香りがする口元を開き始めた。

「明るい人でした。家族想いで、頭が良いのに愚かな人でした」
「その愚かっていうのは、前沖矢さんが言っていたような愚かさ?」
「ええ。馬鹿馬鹿しいと、僕は思いましたが。それを分かっていても、誰かを見捨てることができないような――。性格も何もかも違うのに、そこだけが君に、少し似ていた」

 黒いハイネック越しに、彼が息をゴクリと飲むのが分かった。厚い皮の親指が、私の目じりを軽く撫でていく。煙草の匂いがした。ベッドサイドの灰皿には、長いまま頭を潰された煙草がぎっちりと捨てられている。きっと真っ黒だろう肺から、ふう、と息が吐かれるとお酒の匂いがする――。頭がクラっとするような香りだった。

「もう二度とと思って、償いを――必ず約束を果たそうとしたのに。結局、同じことを繰り返そうとしていた自分に嫌気が差すんですよ」
「そんなに私って危なっかしかったですか」
「それはもう。僕をこんなにさせるほどにはね。おかげで家中のウィスキーが空っぽだ」

 ようやく、彼の口角が僅かに持ち上がった。私もつられて、少し笑う。
 皺がたくさん寄った大きなベッド。彼は枕にしていた手を使って、私の手をぐっと手繰り寄せた。前のめりになるようにベッドに膝を掛けた。目の前に沖矢の顔がある。
「頼むから、もうあんなことをしないでくれ」
 懇願するような声色だった。それは連絡をしなかったことか、それとも彼の忠告を聞かなかったことか――。考える前に、その唇に視線が釘付けになってしまって、上手く思考が纏まらなかった。

 あと数ミリ、厚い唇とぶつかる前に、彼はぐっと私の肩を押した。そして、いつもの沖矢のように「なんて、すみません」と苦笑する。

 私はその手を振り払って、彼に食いつくようなキスをした。
 
 覆いかぶさるようにして、私の髪の毛をカーテンにするように、唇を重ねる。ウィスキーの匂いに喉が引き攣った。けれど、嫌ではなかった。沖矢は、もう「出て」とは言わない。意表をつかれたのか、きょとんとした目つきが私を見上げた。綺麗な瞳だ。


「分かってるなら、ちゃんと言ってください。助けてほしいときは助けて、って。逃げてほしいなら逃げて、って。ちゃんと言ってください……じゃないと、私だって嫌なんです。沖矢さんが、心配なんです」


 どうか突き放して、それで終わらせないでほしかった。彼の言葉で聞きたい。彼の想いを知りたい。壁を作るのだったら、そちら側に入れてほしい。だって、こんなに彼のことが――好きだと、心が叫ぶのだ。
 その指が伸ばされて私の後頭部を、軽く引き寄せる。キスかと思ったら、彼は私の頭をぽすんと胸元に押しつけた。どくどく、と早い脈拍。お酒に強いとは言っても、限度というものがあることも、今度機を見て話しておきたい。

「本当に、いつからそんなに強い人に――」

 ぱたん、と彼の手が頭からベッドの上に落ちる。暫くすると、スウ、スウと規則正しい寝息と、やや落ち着いてきた心臓の音が耳を震わせた。彼のゆったりとした声のように、心地の良い音だった。
「沖矢さん」
 私が呼ぶと、彼の心臓が少しだけ跳ねるような気がする。好きだ、好きだ。私は沖矢昴という男のことを、好きなのだ。それが分かると、私は嬉しくて、その心臓の音に瞼を落としていた。