35

 コーヒーの香りで目が覚める。
 見覚えのない天井に身を起こして、シーツを見下ろした。私の部屋のベッドではない、真っ白でシンプルだが、シングルより何周りか大きなベッド。僅かに残った煙草の香りに、昨夜のことを思い返した。
 そうだ、沖矢の家なのだ。
 今までリビングとキッチンくらいしか行き来していなかったので、見覚えがないのも当たり前だ。部屋を見ると、あれほど散らかっていた床は幻だったようにきっちりと整えられていて、名残があるのは吸殻だらけの灰皿だけだった。

 ――あのまま寝たのか、私。
 ある種昨夜の自分を尊敬した。家に入り込んで挙句ベッドの横で寝こけるなんて単なる不審者じゃないだろうか。しかも、その、キスまでしておいて。
 今までも恋愛面では流されっぱなしだったので、自分からキスをしたのは初めてのことだった。私自身、驚くくらいだ。でも、確かに溢れるくらい彼を好きだと――揺れる瞳を愛おしいと思って、止まらなかったのだ。

 ぼすっと横たわり、彼の香りが残った枕に軽く埋もれた。
 意外と、布団とか干さない性質なのかも。見た目に寄らずズボラな面があるし。ちょっとだけ湿っぽくて、苦いような煙草の煙と、その奥から僅かにシャンプーの匂い。それがもうクラクラするくらい良い匂いだった。
 沖矢が隣にいるみたいだなあと枕を指でなぞっていたら、扉が開く音がして私は慌てて目を瞑った。さすがに枕の匂いを嗅いでるのは、見られたら死んでしまう。

 スリッパが絨毯をなぞるように歩く。独り言のように「寝てるか」と呟くと、椅子を引く音。どうやらすぐ隣の椅子に座ったらしい。コーヒーの香りが強くなった。彼が持っているのかも知れない。
 どのタイミングで起きようか迷いながら、チラリと薄く瞼を持ち上げた。

「お、沖矢さっ……!」

 薄く持ち上げた先に、沖矢が覗き込むように腰を屈めて数センチ先に顔があった。彼の顔を見る間で、そこにいる気配が一筋もなくて、ときめきというよりはホラーだ。ドックンドックンと大きく鼓動が鳴った。
 私が声をあげて枕に後頭部を押しつけるように仰向けになると、彼はククっと喉を鳴らした。
「すみません。ぐっすり*ーっているようだったので、起こしては悪いかと」
 嘘だ。私にも分かるくらいには露骨な嘘をついた。
 だって、覗きこんだ顔はほんのりと笑っていたし、確実に確信犯だ。こうも近くに顔があっても、彼の肌は作り物のように綺麗だ。寝起きなのが恥ずかしくなって、私は手櫛で自分の髪を直した。

「八時ですが、今日は何か予定が?」
「あ……夕方からバイトが……」
「ならまだゆっくりできますね」

 沖矢は意に介した様子もなく、腰を起こして椅子に腰を掛けた。となると、先ほどの
椅子を引いた音はわざと立てたのか。口惜しく思いながらベッドの縁に腰を掛けて、彼と視線を合わせる。
 沖矢はまだ湯気を立てたマグカップを手渡した。客人用らしい汚れのない白いマグカップ。私はそれを受け取って、ごくりと口に含む。インスタントの味がする。
 もともと拘りのあるほうではないのだけど、紅茶もそうだがバイト先の飲食物が美味しいので、確実に舌が肥えてきたみたいだ。

「昨日はみっともないところをお見せしました」
「あ、いえ……。私こそ、すみません。鍵が開いていたとは言っても上がり込んで……」

 そうだ、すっかり頭から飛んでいたが、確かにこの部屋に女のシルエットが見えたのだ。
 もし沖矢の恋人――とかだったら、尚更あんな風にキスをするなんて、間女そのものではないか。私がマグカップに唇をつけながら一人考え込んでいると、沖矢は可笑しそうに少し笑った。

「いえ、あまりに考えていることが顔に出ているものだから」
「そ、そんなにですか」
「あまり隠し事は向いてませんね。彼女はそういうのではなくて――……」

 沖矢がマグカップを置いて、もう一度話を切り出そうとしたとき、パタパタと軽い足取りが聞こえた。沖矢の落ち着いたものとは違う、足音だけでも女のものだと分かるような。階段を上ったその誰か≠ヘ、足音を潜めることもなく一直線に部屋の扉を開けた。

「あら〜、起きたのねん。お腹すいてない? 大丈夫?」

 ――私は頭が真っ白になった。
 ぱっちりと華のある顔立ち、小さくツンっとした鼻に、瞬くたびに音がしそうな上向きの睫毛。愛らしくふっくらした唇は少女のように綻び、外国人と見間違うほどのスタイルに、くるっと巻かれた栗色の髪。
 沖矢が隣にいることも忘れて、私は漫画のワンシーンのようにばたばたとベッドの上を後ずさった。正直腰が抜けたとも思う。
「アレ……やだ、怖がらせちゃった? ひっそり登場しようか迷ったんだけど」
「そういうことで驚いているのではないかと」
 いやーん、と両頬を押さえる姿に、沖矢は苦笑いしながら一つ椅子を差し出した。女性は「ありがとう」と彼に微笑み、それから優雅に足を揃えて腰を下ろした。
 彼女はニコっと笑って私のほうを向き直る。

「初めまして、工藤有希子っていいまーす」

 まるで大学生の飲み会かのように名乗り出た彼女に、私はこれが夢なのだと確信した。危うくマグカップを落としかけて、それを慌てて持ち直した熱が、私の意識を現実に引き戻す。

「ふ、藤峰……有希子……!? 本当に!?」

 こくりと当然のようにその小さな顔を頷かせた、綺麗な姿にそっと近寄る。藤峰有希子。テレビの向こう側でしか見たことのない、伝説の大女優だ。なんだか怖くて、私はもそもそと沖矢の傍に近寄った。現実だとは思えない。
「やだ……ベッタリ寄り添っちゃって〜、やっぱラブラブなんじゃない!可愛い〜!」
「え、沖矢さん。アレ本当に藤峰有希子!? 本物ですか!!」
 藤峰有希子は手入れの行き届いた指先で沖矢の肩をぺちぺちと叩いていて、私はその反対側の袖を引っ張った。広い肩幅がぐらぐらと揺れる。
 彼は苦笑いをしながら「そういえば、映画がお好きでしたね」と体を揺らされていた。


 沖矢をやじろべえのように揺らすこと十分ほど。
 ようやく藤峰有希子も、私も言うことが尽きてきて静まったあたりで、沖矢はフウと息をつきながら「説明しても?」と尋ねてきた。私はそのはしゃぎっぷりにようやく自覚し、軽く咳ばらいをして衣服の乱れを直す。

「彼女はこの家を貸してくださってる有希子さん。今は結婚されて工藤有希子さんですね」
「あ、そうか……工藤優作って……」
「そう、私のステキな旦那さん。アチコチで仕事するからね、空いてる間のお留守番をお願いしてるのよ」
「まあ、殆どご好意みたいなものです」

 まさか無自覚のうちに藤峰有希子の家に出入りしていただなんて、今度ユキの墓参りにいったら報告しなくては――と悶々と考えていると、有希子はそのよく整った顔立ちをこちらにずいっと近づけてきた。口角が、機嫌良さそうにニンマリと持ち上がっている。
「昴さんに聞いたわよ。警察官になるんですって?」
「は、はい! あの、まだ受験前なんですが……」
「きっとなれるわ。真っ直ぐに彼のもとへ駆けつけたあなたならね……」
 にこっと、澄んだ瞳がほほ笑んで――私は頬を赤くした。その一言で、たぶん、昨日のことを知っているのだと分かったから。私が彼の名を叫んで、駆け寄ったあの瞬間を――。
「分かるわ。知的な男って良いのよねん」
「え! あ、そ……そうですね」
「おいで、肌が荒れてる。そのまま寝ちゃったからね」
 私は彼女に誘われるままにベッドを立つ。沖矢のほうを振り向くと、彼もニッコリと笑って頷いた。