06


 教官室は、私にとっての鬼門である。
 自ら飛び込んだは良い物の、やはりこの薄っぺらい扉一枚、目の前にすると物怖じしてしまうのが現実だ。優男は、手慣れた風に自らの所属を名乗る――ハギワラケンジ、と聞こえた。私も背筋を伸ばし踵を合わせ、扉の向こうに声をあげる。
「並びに、高槻百花!! 鬼塚教官はいらっしゃいますか!」
 数秒の間があった。ドキドキと鼓動が早く鳴る。ややあって、扉が開くとまさに鬼の形相が扉から覗いた。ヒっと息を呑みかけた私に対し、萩原はぴしっと敬礼をして「お時間いただきすみません」と叫ぶ。

「萩原ァ、お前最後の座学欠席だったそうだな」
「はい。私情により欠席いたしました。大変申し訳ございません」
「給料いただいてる身で、勝手な真似するんじゃない」
「今後の教訓といたします。ご指導ありがとうございます!」

 ――待て待て待て。鬼塚、おいこら。どう考えても私に対するいびりとは声色が異なる。私は真っ直ぐと教官へ視線を向ける萩原を横目で眺め、その理不尽さに口角を引き攣らせた。同時に、つらつらと並ぶ言葉たちに感心する。
 教官も、その言葉たちに巧みに操られているのか、はたまた、普段の研修とは違いオフさがあるせいか――親身に猫のことを尋ねてくれた。彼は動物が苦手らしく、同じ場にいた女性教官が動物病院に連れて行ってくれるらしい。二人で頭を深く下げ、猫を引き渡す。
 扉が閉まりきるまで、頭を下げっぱなしで腰が痛む。目の前の気配が消えて、ようやく体勢を戻すと、隣にいる男はハァーと長い息をついた。

「こえぇ〜……、やっぱ教官室は緊張するよ」
「え、全然緊張してなかったじゃん!」
「してたしてた。ほら、指冷たいから」
 
 彼は爪先を軽くこちらの掌に充てる。確かに触れた指先は私よりよほど冷たく、僅かに震えていた。生傷のついた指先は見ていると不憫に思えてきて、軽く擦った。萩原は一瞬身を強張らせて、焦ったように手を引っ込める。

「あー、ごめん。そういうつもりじゃ」
「下心の化身みたいに言うな。傷、気になっただけだし」

 貸して、と手を差し出すと、彼はまるで怪我を隠す子どものようにおずおずと掌を差し出した。私はそれを引っ掴んで――いや、といっても治療の方法などまるで分からないので、とりあえず医務室に連れて行こうと手を引いた。
「そんな大げさじゃないって」
「でも、猫って細菌の塊だって。噛まれたりすると後から腫れちゃうよ」
「……マジ?」
 萩原が伺うようにこちらを見てくるので、私はその瞳を見据えてコクリと頷いた。嘘か真かは知らないが、そう聞いたことがあるのは確かだ。念のために消毒くらいされたほうが良いだろう。正直真剣味を帯びて頷いたのは大袈裟だが、あとから手をパンパンにされても目覚めが悪いと思った。


 医務室を訪れると、医務員が書類の整理をしていたところだった。
 事情を説明すれば、「来てくれてよかった」と慌ただしく消毒や浄水を用意しはじめたので、こちらを振り向く萩原に自信たっぷりに笑っておいた。ほらね、言った通りでしょう――まあ、ただの聞きかじりの知識で確証はなかったことだが。結果オーライという言葉の通りだ。


 ぺろりと捲られた制服の下は、細身ながらによく鍛えられていた。肩まわりだけ、他の部位に比べ殊更筋肉がガッチリとしている。筋肉は一夕一朝でつくものじゃあない。今の女の体では尚更つきづらく、私はジィっとその体を見つめた。羨ましいと、単純に感じたからだ。

「……ねこ」

 ぽつり、と呟いたのは萩原だった。
 水で傷口を洗いながら、垂れた目つきがこちらを向く。彼は座っていて、私は傍に立ち壁に凭れていたので、必然的に見上げる形になった。さら、と真っ黒な髪が流れる。
「ねこ、好きなの」
「うん、まあ。それなりには……」
「ホラ、掴まえ方とか知ってたじゃない」
 ぱっと何かを取り繕うように笑顔が浮かんだ。
 別に、猫が特別好きなわけではなかった。動物嫌いではないけれど、それなりだ。見かければ、そりゃあ可愛いとは思うが。猫の掴まえ方を知っていたのは、前世での恋人が猫を飼っていたからだ。爪切りのときは、ふわふわしたもので目をかくすと落ち着くの――ロングスカートがよく似合う清楚な女の子だった。(――ただし、浮気した)

「ちょっとね。昔、知り合いが飼ってて」

 さすがにそのまま言う訳にもいかないので、言葉を濁して肩を竦めた。萩原は言及こそしなかったが、納得したように頷いていたので、少し勘づいていたかもしれない。

 

 簡単な治療を終え、男子寮の前を通りかかると――女子寮へは、男子寮の前を通らなければならなかった――たたっと見覚えのある姿がこちらに駆け寄った。特徴的なあだ名で萩原を呼ぶ、萩原もそれに慣れた様子で振り向いた。
「お、陣平ちゃん。探してくれてたの」
「班は連帯責任なんだよ、バーカ」
 バーカ、って、小学生じゃあないのだから。私の中ではすっかりガキ≠ニインプットされた松田は、萩原の背中を中々の強さでバシっと叩いた。班――ということは彼も同じ伊達班か。伊達には迷惑を掛けたくないので、「そうだよ」と松田に乗って野次を飛ばしておいた。萩原が笑いながら振り向く。

 松田はそこで私の姿に気づき、露骨に顔を歪めた。
「お前、やっぱり萩狙いじゃねーか……」
「ちっげーよ、バーカ」
 松田の言い方をそのまま真似してやったら、萩原はぶはっと噴き出して「似てる」と癖毛のほうを指さす。

「るせーよ、アホ」
「ふ、あは、あはは……陣平ちゃんがちょっと言葉変えてきてる、うはっ……」
「はずかちーんだよねえ、松田くんは」

 わざとニコニコと笑うと、松田は拗ねたように顔を逸らした。単純な奴だ。萩原が「悪い悪い」と、その肩に腕を回して笑っている。降谷と諸伏に対しても思ったが、ここまで仲の良い男友達が同じ夢を目指す場所にいるというのは、それだけで羨む気持ちがある。

 
 一通り笑い終え、腕時計を見る。そろそろ帰らなければ、就寝時の点呼にいないのは拙いと思った。「じゃあ」と切り上げようとしたとき、踵を返した折に、先ほど松田が来たほうから、人影が駆けてきた。丸っこい黒髪――諸伏だ。シャワーを浴びたばかりなのか、普段から丸い頭がますますペタンとへたれていた。

「萩原! なんだ、もう見つかってたんだな」
「悪い、こういう時に携帯ねえのは不便だよ」
「本当に……今、ゼ――降谷も探しに行ってて、連れ戻そうと思ってたんだ」
 ゼロ、と言いかけた名称を変える。松田は少し驚いたようにして「降谷が」と聞き返した。諸伏は当然のように頷く。

「ああ、だって、女に付け回されて危なかったことがあったって……。女には手を出せないから、って、前話してただろ。いなかったら心配するよ」

 諸伏はそう告げてから「降谷も同じだと思う」と付け足した。松田はそれを聞くと、少し考え込むように黙った。そういえば、以前食堂で会った時、降谷に対してずいぶん気に食わなそうな態度をとっていた。うまくいっていないのだろうか。
 松田は少し間をおいて、「そうかよ」と静かに返すと、一人で寮の中へ戻っていった。萩原も、諸伏のほうに「ありがとう」、と軽く掌を立てて松田の背を追う。

 諸伏は、それに対し柔く頷くと、こちらを振り返った。
「寮に帰るとこ?」
「あ、うん」
「ゼロがそっちのほう探しにいったんだ、萩原ならそっちかなって。ついでに送る」
 暗くなってきたし、既に赤みを失った空を見上げて、諸伏は腕をぐっと伸ばした。送ってもらうほどの距離ではなかったが、どうせ通りかかるなら別々に歩かなくても良いだろう。礼を述べると、諸伏はやっぱり少しはにかんで頷いた。――いや、やっぱ可愛いな。この人。と、思うのだ。
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